第5話:昭和の背中、AIの目

冬の陽光が、埃の舞うオフィスを斜めに切り裂いていた。その光の境界線に、昭和の残照のような男が立っていた。


営業部長・大門。 日に焼けた顔の深いシワ、重い革靴の音、そして常に漂う微かな煙草の残り香。彼は、この営業推進課が「窓際」と呼ばれる前から、最前線で泥を啜ってきた伝説の営業マンだった。


「九条と言ったか。お前のやり方は、血が通っとらん」


大門の声は、使い込まれたヤスリのように低く、ざらついていた。彼のデスクには、タブレット端末の代わりに、黒い革の表紙が擦り切れた分厚い手帳が置かれている。


「営業ってのはな、靴底を減らした数だけ、客の心が動くんだ。GPSで効率よくルートを回って、確率論でメールを飛ばす? そんなもんで、一生の付き合いができるか」


対峙する九条は、一点の曇りもない鏡のような姿勢で大門を見据えていた。


「大門部長。精神論による肉体の酷使は、長期的なリソースの損失に直結します。現在の市場において、顧客の行動パターンは八五パーセントまで予測可能です。あなたの『足で稼ぐ』という不確定要素に頼る手法は、もはや組織の最適解ではありません」


「フン……。理屈じゃねえんだよ、仕事は」


大門は最後の一服を惜しむように、窓の外を見つめた。今日。それが、彼がこの会社で過ごす最後の日だった。


夕暮れ時。送別会を辞退した大門は、静まり返ったフロアで一人、荷物をまとめていた。 長年使い込んだ鞄。取引先の社長から譲り受けた万年筆。そして、三十年間、肌身離さず持ち歩いてきた三十六冊の手帳。


そこへ、音もなく九条が現れた。


「部長。退出前に、その手帳を貸していただけませんか」


大門は眉をひそめた。「……死に際の老いぼれから、秘伝のタレでも盗もうってのか?」


「いいえ。データの補完です。あなたの三十年間の記録は、この会社に残された最後の『非定型データ』です。これをスキャンし、我が社のAIモデルに組み込むことが私の最後の任務(ミッション)です」


大門は少しの間沈黙したが、「……好きにしろ」と、重たい手帳の束を九条に手渡した。


九条は、空いたデスクにその手帳を並べた。センサーが高速で紙面をなぞり、ページをめくる乾いた音が、静かなオフィスに規則正しく響く。


乱筆。走り書き。インクの滲み。コーヒーの染み。 そこには、三千件を超える顧客の誕生日、家族構成、さらには「この客は雨の日に機嫌が悪い」「孫が野球を始めた」といった、およそビジネスには不要と思われる膨大な「無駄」が、手書きの熱量を帯びて刻まれていた。


「……解析終了しました」


九条の声に、わずかなノイズが混じったように聞こえた。彼女は立ち上がり、大門の背中に向かって告げた。


「大門部長。あなたの三十年間の総歩行距離を算出しました。推定、八万四千二百キロメートル。地球をちょうど二周する距離です」


大門が足を止めた。


「三十年間で、あなたが断られた回数は一万二千四百八十二回。しかし、その後のフォローアップによって成約に至った率は、業界平均の三・八倍。……特筆すべきは、これです」


九条の瞳が、青く、そして深く明滅する。


「あなたは、すべての顧客の『家族の命日』を記録し、その前日に必ず付近のルートを回っていますね。これは論理的なルート選定ではありません。……ですが、この『無駄な寄り道』があった月、顧客の解約率は限りなくゼロに近付いています」


「……そんなことまで、調べたのか」


「理解不能でした。なぜ、これほどまでに非効率なことに心血を注げるのか。……ですが、スキャンした筆跡の筆圧データを解析した結果、一つの結論に達しました」


九条は、大門に歩み寄った。彼女の動きには、いつもの完璧な計算による「最短距離」ではなく、どこか戸惑うような「ためらい」が含まれているように見えた。


「大門部長。あなたのこの手帳は、データではありません。……これは、この会社の『背骨』でした。あなたが歩いた二周分の地球。その一歩一歩が、現在のこの会社の信頼という座標を定義しています」


九条は、自身のプログラムには存在しないはずの動作を行った。 彼女は、大門に向かって、深く、長く、頭を下げたのだ。


「あなたの歩行距離と、積み上げられた『無駄』な時間。……それは、今の私には到達できない、絶対的な敬意に値する演算結果です。三十年間、お疲れ様でした」


大門は驚いたように目を見開いた。 アンドロイドの彼女から、まさか「敬意」という言葉が出るとは思わなかった。


大門は、照れ隠しに喉の奥で笑った。


「……九条。お前の目は、ただのカメラじゃねえな。……いいか、効率は大事だ。だがな、最後の一歩を決めるのは、いつだって計算できない『何か』なんだよ。……それを忘れるな」


大門は、九条の細い肩を、一度だけ力強く叩いた。 革の手袋のような、硬くて温かい、昭和の営業マンの手。 九条はその熱量に、一瞬だけ内部クロックが狂うのを感じた。


「……メモリーに、永続保存します」


大門は、空になった鞄を手に、一度も振り返ることなくオフィスを去っていった。 廊下に響く、重たい革靴の音。それが次第に遠ざかり、聞こえなくなった時、九条は窓の外の夜景を見つめた。


街の明かりは、何百万ものデータポイントのように瞬いている。 その一つ一つの光の下に、大門が歩いたような、泥臭くて、温かくて、非効率な「人生」がある。


九条は、自分の指先を見つめた。 大門に叩かれた肩には、まだ微かに、安煙草の匂いと、確かな熱が残っている。


「……鈴木さん、佐藤さん。明日の営業ルートを再構築します」


彼女の声は、いつもの冷静さを取り戻していたが、そこには以前のような冷たさはなかった。


「大門部長の『寄り道』データを、最適化ロジックの中に組み込みます。……これからは、効率と、そして『心臓の鼓動』を両立させた、新しい最適解を目指します」


オフィスの隅で、九条の瞳が静かに光った。 それは、過去の遺産を継承し、未来の論理へと繋ぐ、青い希望の光だった。


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