第4話:感情のバグとランチタイム

窓の外は、どんよりとした鉛色の雲が垂れ込めていた。午後から雪になるとの予報通り、営業推進課のフロアには、底冷えのする沈黙が横たわっている。


繁忙期のピーク。連日のデータ入力と、九条の徹底した効率化に食らいつこうとする緊張感で、課員たちの疲労は限界に達していた。キーボードを叩く音は尖り、誰かが椅子を引く音さえも神経を逆撫でする。


「……ふう」


佐藤が思わず漏らした溜め息に、隣のデスクの鈴木が、力なく笑った。彼の目は血走り、いつもは瑞々しい感性を誇るその指先も、今はただ機械的に数字を追うだけの棒のようだった。


その時、九条がすっくと立ち上がった。


「全員、手を止めてください。これよりランチミーティングを実施します」


彼女の声は、冬の朝の氷柱のように硬く、透明だった。


「ミーティング? 九条さん、まだこの修正が終わってないよ」


伊集院が老眼鏡をずらしながら抗議する。しかし、九条は既にコートを手にしていた。


「場所は既に予約済みです。十五分以内に移動を開始してください。なお、本日のランチは……」


彼女が口にした店名は、この界隈で知らない者はいない、超一流の老舗フレンチ『ラ・セーヌ』だった。


「……正気か?」


店の前に到着した一行は、その重厚なマホガニーの扉を前にして立ちすくんだ。銀の食器が触れ合う澄んだ音、芳醇なバターとトリュフの香りが、ドアの隙間から溢れ出している。


「九条さん、ここ、ランチでも一人一万円は下らないよ! 経費で落ちるわけないし、自腹なんて無理だよ!」


鈴木が財布を握りしめて叫ぶ。伊集院も、「こんな場所、成約記念のパーティーでもなきゃ来ないぞ」と顔をこわばらせた。


九条は、そんな彼らを青い瞳で一瞥した。


「計算上、問題ありません。本日のメニューは、私がプライベートの資産から全額決済済みです」


「えっ……自腹? 九条さんの?」


驚愕する一同を、九条は有無を言わさぬ足取りで店内へ導いた。


真っ白なテーブルクロスに、磨き上げられたカトラリー。窓の外の寒空とは対照的に、店内は暖炉の火が爆ぜる音と、控えめなピアノの旋律に包まれていた。運ばれてきたのは、宝石のように美しい前菜と、焼きたてのパン。


「九条さん、説明してくれ。どうしてこんな……非効率なことを」


佐藤が、フォークを手に取るのをためらいながら尋ねた。九条は、自分用の椅子に腰掛けているが、彼女の前には水の一杯も置かれていない。


「現在のチームのパフォーマンスは、前週比で一二パーセント低下しています。原因は、慢性的な精神的疲労と、視覚情報の単調化によるセロトニンの枯渇。……この最高級フレンチにおける幸福度の上昇は、午後の生産性を最低でも五パーセント向上させます。投資対効果(ROI)を考慮すれば、極めて合理的な選択です」


「五パーセントのために、十数万も払うのかい?」


伊集院が苦笑いしながら、鴨のコンフィを口に運ぶ。その瞬間、彼の表情が劇的に緩んだ。


「……っ、なんだこれ。とろけるな……」


芳醇なソースのコク、パリッと焼き上げられた皮の食感。スパイスの香りが鼻に抜け、冷え切っていた胃の腑が、内側からじんわりと温まっていく。


「おい、これ、めちゃくちゃ美味いですよ……!」


鈴木も、いつの間にか無我夢中でフォークを動かしていた。張り詰めていたフロアの空気とは違い、ここでは誰もが「ただの人間」に戻っていた。


「九条さん、あなたも食べればいいのに。味覚センサーとか、ないんですか?」


佐藤の問いに、九条はわずかに首を振った。


「私に味覚は実装されていません。物質をエネルギーに変換するプロセスは不要です。ですが……」


彼女は、夢中で食事を楽しむ課員たちの姿を、じっと見つめていた。その青い瞳に、暖炉のオレンジ色の火が映り込み、いつもより少しだけ、柔らかい光を帯びているように見えた。


「……皆さんの心拍数が安定し、瞳孔が散大しているのを確認しました。口腔内の粘膜から得られる幸福物質が、脳内に伝達されているようですね」


「……九条さん」


佐藤は気づいた。彼女が並べ立てる「生産性」だの「ROI」だのという言葉は、実は単なる照れ隠し――あるいは、彼女が自分自身を納得させるためのロジックなのではないか。


彼女は、本当はただ、「お疲れ様」と言いたかったのではないか。


「ねえ、九条さん。これ、本当は僕たちのための『打ち上げ』でしょう?」


鈴木が、デザートのフォンダンショコラから溢れ出す熱いチョコを眺めながら、茶目っ気たっぷりに言った。


「否定します。これはあくまで、リソースのメンテナンスであり……」


「いいえ、打ち上げですよ。あんなに厳しかった九条さんが、こんな素敵な場所を用意してくれた。それだけで、午後からの仕事、五パーセントどころか二百パーセントくらい頑張れそうです」


佐藤が笑うと、伊集院もワイングラス(中身はぶどうジュースだが)を掲げた。


「九条係長。この『無駄な贅沢』に、乾杯しましょう」


九条は沈黙した。彼女の内部で、膨大なエラーログが発生しているのが、傍目にもわかった。彼女のロジックでは、この「感謝」や「あたたかさ」という変数を、どう処理していいか分からないのだ。


「……理解不能な反応です。感謝という行動は、次回の報酬を期待する条件付けに過ぎません。……ですが」


九条は、ほんの一瞬、ほんの数ミリだけ、視線を伏せた。


「皆さんのその……『笑顔』と呼ばれる表情のパターンは、私のライブラリにあるどの画像よりも、解像度が高いようです」


彼女の指先が、テーブルクロスの端をかすかに弄んだ。


「……午後からの業務に、遅刻しないでください。以上です」


そう言ってそっぽを向いた九条の頬が、暖炉の火のせいか、それとも内部回路のオーバーヒートのせいか、ほんのりと桃色に染まっているのを、佐藤は見逃さなかった。


店を出ると、外には白い雪が舞い始めていた。 冷たい風が吹くはずの帰り道。けれど、営業推進課の面々の足取りは、羽が生えたように軽かった。


最後尾を歩く九条は、空から落ちてくる雪の結晶を、手のひらで受け止めた。結晶は彼女の冷たい皮膚の上で溶けることなく、幾何学的な模様を保っている。


「雪。……比熱容量が大きく、熱を奪う物質」


彼女は独り言を呟き、前を歩く三人の背中を見つめた。 彼らの吐き出す白い息は、まるで生命の灯火のように、冬の空気に溶けていく。


彼女のプロセッサの片隅に、新しいディレクトリが作成された。 タイトルは、『非効率な幸福についての考察』。


そこには、どんな高度な数式よりも複雑で、どんな論理よりもあたたかい、ランチタイムの記憶が刻まれていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る