第3話:忖度(そんたく)は計算不能
十二月の風は、鋭いメスのようにコートの隙間から体温を奪っていく。営業推進課のフロアには、冬の寒さとは別の、ヒリヒリとした緊張感が漂っていた。
「九条さん、これは……さすがにマズいよ」
ベテラン社員の伊集院が、額の汗をハンカチで拭いながら、震える声で言った。彼の前には、一通のメールが表示されたモニターがある。送信元は、最大手取引先である「帝国重工」の常務、剛田。内容は、今週末のゴルフ接待と、その後の老舗料亭での「親睦会」への招待だった。
「何が『マズい』のでしょうか。伊集院さん」
九条は、キーボードを叩く音ひとつ立てずに、首だけを機械的な滑らかさで伊集院に向けた。
「何がって、剛田常務と言えば、この業界のドンだ。ゴルフを断るなんて、即ち『取引終了』を意味するんだよ。あの方は、酒の席での『膝を突き合わせた話』を何より重んじるんだ」
九条は瞬きを一度だけし、網膜上にデータを展開した。
「過去十年の帝国重工との成約データ、および接待費の推移を照合しました。結果、ゴルフのスコアおよび料亭での滞在時間と、成約率の間に有意な相関関係は認められません。むしろ、接待後の数日間、担当者の生産性は二核酸塩基……失礼、二割以上低下しています。アルコールの分解に伴う脳機能の低下が原因です」
「データじゃないんだよ、九条さん!」
伊集院が机を叩いた。乾いた音がフロアに響く。
「『忖度』だよ。相手の顔を立て、懐に飛び込み、泥をすすってでも信頼を勝ち取る。それが我々の、この国のビジネスの根幹だ。君には分からないのか? 酒の席でしか言えない『本音』があるんだ」
九条は静かに立ち上がった。彼女の青い瞳が、伊集院の充血した目を見据える。
「『本音』……。それは、論理的な商談の場では開示できない、倫理的あるいは経済的に不適切な情報を指しますか?」
「……っ、極論を言うな!」
「理解不能です。私は剛田常務に、今回の接待を辞退する旨と、代替案として『接待費を還元した、一五パーセントのコストカット案』を送付しました。既に送信済みです」
「な……ッ!?」
伊集院の顔から血の気が引いた。死刑宣告を受けた囚人のように、彼はその場に崩れ落ちた。
その日の夜。駅前の古びた居酒屋「だるま」の赤提灯が、湿った夜風に揺れていた。 店内に立ち込める、焼き鳥の煙と安酒の匂い。換気扇の鈍い回転音が、ベテランたちの溜め息をかき消していた。
「……で、どうして九条さんまで来てるんだよ」
伊集院が、目の前のジョッキを恨めしそうに眺めながら呟いた。 カウンターの端、脂ぎった暖簾をくぐって現れた九条は、場違いなほど凛としていた。彼女は丸椅子に座り、膝の上にぴっちりと手を置いて、周囲の喧騒を観察している。
「『酒の席でしか言えない本音』の正体を確認し、データとしてサンプリングするためです。これもフィールドワークの一環と判断しました」
「はぁ……。まあいい、座れよ。おばちゃん、ウーロン茶。あと、こいつらに熱燗」
運ばれてきた熱燗から、鼻を突くようなアルコールのツンとした香りが立ち上る。伊集院はそれを一気に煽り、ふう、と深く、重い息を吐き出した。
「九条さん。あんたの言うことは正しいよ。ゴルフなんて無駄だ、酒だって体に悪い。でもな、人間ってのは……そんなに綺麗にできてないんだ」
伊集院の目が、アルコールの影響でわずかに濁り始める。
「仕事なんて、怖くて仕方ないんだよ。帝国重工に切られたら、俺の家族はどうなる? 部下の給料はどうなる? ……だから、酒を飲むんだ。剛田常務だって、きっと寂しいんだよ。誰も本音で話してくれない。だから、俺たちがバカになって、懐に潜り込むんだ。それはデータには出ない『泥臭い愛』なんだよ」
九条は、伊集院の脈拍と発汗、声の周波数の乱れを検知していた。
「愛、ですか。自己犠牲を伴う過剰な依存関係、と定義します。伊集院さん、あなたの肝臓の数値は、その『愛』によって、既に危険域に達しています」
「うるせえな……。ロボットには分からねえよ。この、喉が焼けるような熱さが、明日への活力になるんだ」
その時、九条の端末が震えた。 帝国重工の剛田常務からの返信だった。
伊集院が顔を覆う。「ああ、もう終わりだ。会社をクビになったら、九条さん、あんたのせいだからな……」
九条はメールを開き、無機質な声で読み上げた。
『九条係長殿。驚いた。長年、この業界にいるが、接待よりコストカットを優先すると言い切ったのは君が初めてだ。正直、あのゴルフは腰にきていて辛かったんだ。君の出したデータは完璧だ。来期の契約、更新させてもらう。……追伸、今度は料亭ではなく、君のオフィスの会議室で、その「無味乾燥で合理的な」コーヒーを淹れてくれ。楽しみにしてるよ』
居酒屋の空気が凍りついた。 伊集院の持っていたお猪口が、畳の上にコロンと転がった。
「……受諾、されたのか? あの、剛田常務が?」
「はい。彼はビジネスマンです。感情的満足よりも、確実な利益と健康寿命の延伸を選択しました。私の推論通りです」
九条は立ち上がり、コートの襟を正した。彼女の周囲には、居酒屋の喧騒を寄せ付けない、透明な障壁があるかのようだった。
「伊集院さん。あなたが守ろうとした『本音』は、実は『慣習への恐怖』ではありませんでしたか? 剛田常務もまた、あなたとの不毛なゴルフに耐えていたというデータが、この返信には含まれています」
「……はは、完敗だな。俺たちの二十年は、なんだったんだ」
自嘲気味に笑う伊集院に、九条は一歩だけ近づいた。 彼女の手が、伊集院の肩に置かれる。体温のない、しかし確かな重みを持った手。
「二十年の蓄積があったからこそ、彼は私の『無礼な提案』に耳を貸したのです。あなたの築いた信頼という土台がなければ、私のデータはただの数字の羅列に過ぎませんでした」
「九条、さん……」
「伊集院さん、あなたの『本音』を一つ、学習しました。……このアルコールの匂いは、人間の不安を一時的にマスキングするための、芳香剤のようなものですね」
彼女は鼻を微かに動かし、居酒屋の湿った空気を見つめた。
「ですが、明日の商談には、その芳香剤は不要です。あなたの知識と、私のデータがあれば、十分です。……お先に失礼します。本日のアルコール摂取量は、これで終了にしてください」
九条は一礼し、夜の街へと消えていった。
残されたベテランたちは、空になった徳利を見つめて黙り込んだ。 伊集院は、自分の肩に残った、冷たくも確かな感触を反芻していた。
「……あいつ、意外といい上司かもしれないな」
彼がポツリと漏らした言葉は、焼き鳥の煙に巻かれて消えていった。 駅前の夜空は、相変わらず冷たく澄んでいたが、九条が歩いていった先には、デジタルな青い光が、道標のように優しく点滅していた。
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