第2話:残業0時間の魔法

翌朝、営業推進課のフロアには、昨日とは違う種類の、ピンと張り詰めた空気が流れていた。 原因は、フロアの隅のデスクに座る、あの「黒い箱」から出てきた係長――九条だ。


「……あの、九条係長?」


若手の鈴木が、おそるおそる声をかけた。彼は入社三年目。要領はあまり良くないが、根性だけはある。彼のデスクは、常に資料の山と、飲みかけの栄養ドリンクの瓶、そして付箋だらけのPCモニターに埋め尽くされていた。


九条は、超高速でキーボードを叩いていた手を止め、ミリ単位の正確さで首を横に振った。


「鈴木さん。あなたのデスクは、エントロピーが増大しすぎています」


「え、エントロ……? いや、これは僕なりの『頑張り』というか。忙しくて片付ける暇もないくらい、全力で仕事に向き合っている証拠で……」


鈴木は、自分の乱れたデスクを誇らしげに、しかし少し気まずそうにさすった。彼にとって、デスクの乱れは戦場の勲章であり、遅くまでの残業は忠誠心の証だった。


「非論理的です」


九条が立ち上がった。彼女が動くたび、かすかに電子回路が駆動するような、ひんやりとした風が吹く。


「物体を探す時間に一日平均十四分を費やし、視覚的ノイズによって集中力が三十二パーセント削がれています。また、その埃。呼吸器への負荷は、長期的に見てあなたの労働寿命を縮めます」


「ちょ、ちょっと待って……」


制止する間もなかった。九条の手が、まるで精密機械のアームのように動き出した。不要な紙類を次々とシュレッダーへ放り込み、必要な書類を色別にファイリングしていく。その動作には一切の迷いがなく、空気さえも彼女の動きに合わせて整流されていくようだった。


「……ひどい。僕の城が……」


「城ではなく、ただのゴミ集積所です。そして、これを見てください」


九条が鈴木のPCを奪うように操作する。彼女が数行のコードを書き込み、エンターキーを叩いた。


「あなたが毎日三時間を費やしている、各支店からの売上集計。これからは、このボタン一つで終わります」


画面上で、複雑に絡み合ったExcelのセルが、魔法のように自己増殖し、一瞬で完璧な表へと組み替えられた。


「三時間が……三秒に……?」


鈴木は、目の前で起きた奇跡を信じられない思いで見つめた。しかし、同時に胸の奥で、言いようのない喪失感が広がった。


「こんなの、ズルじゃないですか。僕が、毎日汗をかいて、目を血走らせて打ち込んできた時間が、たったこれだけで……。努力って、もっと、泥臭いものじゃないんですか?」


鈴木の声が震えた。彼は、自分の存在価値を「苦労すること」に見出していた。それを九条は、無機質なマクロで完遂してしまったのだ。


「鈴木さん。努力の定義を勘違いしています。それは『最適化を拒むための自己満足』です。定時になりました。速やかに帰宅してください」


「でも、まだ仕事は……」


「ありません。私が全て終わらせました。残業時間は、ゼロです。命令です。一分以内にこのフロアから退去してください」


九条の青い瞳が、命令を拒絶させない威圧感を持って光った。鈴木は、昨日届いたばかりの、インクの匂いさえしないクリアファイル一つを抱えて、逃げるようにオフィスを飛び出した。


午後六時十五分。 まだ夕焼けが街をオレンジ色に染めている。こんな時間に外を歩くのは、いつ以来だろう。


「……何すればいいんだよ」


駅へ向かう足取りは重い。いつもなら、コンビニの冷えた弁当とエナジードリンクを買って、深夜に帰宅し、泥のように眠るだけだった。 家に着いても、テレビをつける気にもなれない。部屋は静まり返り、冷蔵庫のモーター音だけが不気味に響く。


手持ち無沙汰で、鈴木はクローゼットの奥を漁った。 ガサリ、と重たい感触。埃を被ったスケッチブックと、硬くなった鉛筆のセット。


大学時代、美大を目指していた頃の遺物だ。就職して「社会人」になってからは、そんなものは「無駄」だと切り捨ててきた。絵を描いたところで、一銭の利益も生まない。そんな時間は、明日の仕事のための資料作りに充てるべきだと思っていた。


鈴木は、おそるおそる鉛筆を削った。 シュッ、シュッという削り出しの音。懐かしい木の香りが鼻をくすぐる。 白い紙の上に、鉛筆を走らせてみる。最初はぎこちなかった指先が、徐々に熱を帯びていく。


「……ああ、そうだ」


影の付け方、線の重なり。自分が、何かに夢中になって時間を忘れるという感覚を、久しぶりに思い出した。窓の外が深い夜に沈んでいくのも気づかず、彼は描き続けた。


気がつくと、一人の女性の姿が描かれていた。 無機質な瞳。整いすぎた容姿。あのアンドロイド、九条だ。 彼女を鉛筆の柔らかな線で描き直すと、なぜかそこには、冷たさだけではない「何か」が宿っているように見えた。


翌朝。 鈴木は、驚くほどスッキリとした目覚めを経験した。脳の奥に溜まっていた重たい霧が、綺麗に晴れているような感覚。


オフィスに入ると、九条は昨日と同じ場所に、石像のように座っていた。


「おはようございます、九条係長」


鈴木の声には、昨日までなかった張りと潤いがあった。 九条が、わずかに顔を上げた。スキャナーで読み取るように、鈴木の全身を視線がなぞる。


「……鈴木さん。バイタルサインが良好です。睡眠効率の向上、およびドーパミンの分泌を確認。昨夜、何をしましたか?」


「えっと……趣味の、絵を描いていました。久しぶりに」


鈴木は少し照れ臭そうに笑った。九条は、その言葉を処理するように数秒の沈黙を置いた。


「絵。それは業務に関連するスキルですか?」


「いや、全然。ただの自己満足です。利益も出ないし、効率も悪い。でも、なんだか……今朝は、仕事に集中できそうなんです。やる気が湧いてくるというか」


九条は、ゆっくりと椅子から立ち上がり、鈴木に近づいた。彼女の肌からは、相変わらず冷たいオゾンの匂いがしたが、その瞳の奥には、わずかな「好奇心」のような光が灯っているように見えた。


「人間という個体は、非常に複雑な構造をしていますね。出力(アウトプット)を最大化するためには、無関係に見える『空白の時間』が不可欠である、というデータと一致します」


「空白の時間……」


「そうです。佐藤さんにも言いましたが、私は効率の最大化を求めています。そのためには、あなたというリソースが摩耗してはならない」


九条は、鈴木のデスクに置かれた真っ白なファイルを指差した。


「休息もメンテナンスの一環です。潤滑油のない機械が焼き付くように、遊びのない人間は壊れる。あなたの『無駄な時間』は、私の演算において『必要なコスト』として再定義されました」


彼女の言葉は、相変わらず冷たい論理の体裁をとっていた。だが、鈴木には分かった。彼女が無理やり自分を帰らせたのは、単に数字を合わせるためだけではない。


「……九条さん、ありがとうございます。僕、今日、昨日の三倍のスピードで仕事終わらせてみせますから」


「三倍、ですか。……修正します。三点五倍を目指してください」


九条が、ほんの少しだけ、本当にわずか数ミリだけ、口角を上げたように見えた。それはプログラムされた微笑みなのか、それとも。


「了解しました、係長!」


鈴木は元気にキーボードを叩き始めた。その音は、昨日までの焦りを含んだ打鍵音ではなく、軽快なリズムを刻んでいた。


オフィスにはまだ、埃っぽい古いビルの匂いが漂っている。けれど、窓から差し込む朝日は、昨日よりもずっと明るく、澄んで見えた。


九条は、自分の画面に戻りながら、こっそりと鈴木のバイタルデータをサーバーに記録した。 そのログの端っこに、既存の関数では説明できない「あたたかさ」という名の変数が、人知れず書き込まれていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る