第1話:上司は「箱」からやってきた

十一月の雨が窓を叩く、生ぬるい午後だった。営業推進課の空気は、いつものように淀んでいた。


「えー、ですから、来期の販促キャンペーンにおける、えー、我が部のスタンスとしましては……」


田中課長の間延びした声が、蛍光灯の低いハム音と混ざり合い、佐藤の鼓膜を鈍く揺らしていた。会議開始から既に一時間半。結論は出ていない。いや、出そうとしていないのだ。この会議の目的は「会議をした」という事実を作ることだけなのだから。


佐藤は手元の資料に視線を落とす。インクの乾いた匂いと、誰かの飲み残した冷めたコーヒーの酸化した香りが鼻につく。喉の奥が詰まるような、この部署特有の閉塞感。窓際部署、社内の掃き溜め。そんな陰口が、湿った壁紙に染み付いているようだった。


「佐藤君、聞いているのかね?」


不意に名を呼ばれ、佐藤は顔を上げた。田中の脂ぎった額が視界に入る。


「はい、聞いております。スタンスの明確化、ですね」


「そうだ。で、君の意見は? まあ、特にないだろうが」


田中は最初から答えを期待していない顔で、次のターゲットを探そうと視線を巡らせた。その時だった。


重たい鉄製のドアが、ノックもなしに開いた。


配送業者の男が、台車を押して入ってくる。台車の上には、この薄汚れたオフィスには不釣り合いな、艶消しブラックの巨大な直方体が鎮座していた。


「営業推進課さんですね。お届け物です。……ひどく重いんで、ここに置きますよ」


業者は伝票を机に叩きつけるように置くと、逃げるように去っていった。


残されたのは、高さ一メートルはあろうかという黒い箱と、呆気にとられた課員たち。


「なんだ、これは。総務は何を考えている。会議中だぞ」


田中が不快感を露わにしながら、箱に近づく。側面には、見たことのない企業のロゴと、『PROJECT K-9』という文字だけが白く印字されていた。


「課長、これ、開けてみますか?」


佐藤がおずおずと尋ねると、田中はフンと鼻を鳴らした。


「当たり前だ。危険物かもしれん。佐藤、お前が開けろ」


またか、と佐藤は心の中で溜め息をつく。面倒事は全て部下へ。それがこの男の最適解なのだ。佐藤はカッターナイフを手に、黒い箱の封印を慎重に切った。


梱包材の擦れる乾いた音が響き、その奥から現れた「それ」を見た瞬間、佐藤の指先から血の気が引いた。


それは、人間だった。いや、人間のような形をした、あまりにも精巧な作り物だった。


女性の姿をしていた。整えられた黒髪のショートボブ。シワひとつないダークグレーのスーツ。そして、陶器のように白い肌。目を閉じ、直立不動の姿勢で箱の中に収まっている様は、まるで棺の中の白雪姫のようだが、そこには体温というものが全く感じられなかった。


「な、なんだこれは。人形……?」


田中が後ずさりした瞬間、「それ」の瞼が、音もなく開いた。


現れたのは、深海を思わせる深い青色の瞳だった。その瞳が、部屋の中をゆっくりと一巡する。視線が合うと、佐藤は背筋を冷たい指でなぞられたような感覚に陥った。感情の読めない、レンズのような瞳。


彼女は箱から優雅に足を踏み出すと、ヒールの音を響かせてフロアの中央に立った。


「起動確認。個体識別名、九条。本日付で営業推進課・係長に着任いたしました」


声は、驚くほどクリアだった。アナウンサーのように滑舌が良く、しかし、抑揚というものが決定的に欠落していた。


「は? 係長だと?」


田中が素っ頓狂な声を上げる。「人事からは何も聞いていないぞ! 第一、なんだそのふざけた格好は。ロボットの真似事か?」


九条と呼ばれたその存在は、田中に視線を向けると、わずかに首を傾げた。


「訂正します。ロボットではありません。高度な自律思考型AIを搭載した、業務支援アンドロイドです。人事発令データは、今朝9時00分に貴方の端末へ送信済みです。未読のまま放置されているようですが」


フロアにざわめきが広がる。佐藤は慌てて自分のPCで人事ポータルを確認した。確かに、今日付で「九条」という名の係長が配属されている。備考欄には「特別試験導入」の文字。


田中の顔が赤く染まった。


「あ、あのアホ人事部長め……! こんな得体の知れないモノを押し付けおって! おい、お前、自分が何だか知らんが、今は会議中だ。その箱に戻っていろ!」


田中が怒鳴り声を上げても、九条は微動だにしなかった。青い瞳が、田中の顔と、ホワイトボードに書かれた「スタンスの明確化」という文字を交互に見比べる。


「現状分析。現在行われている会議の生産性は、極めて低いと判断します」


「なっ……なんだと!?」


「過去の議事録データとの照合結果、類似の議題が過去半年で12回繰り返されており、具体的成果物はゼロ。この会議における人件費の浪費は、推計で月に約45万円。これは由々しき非効率です」


九条の声は、淡々としているが故に、残酷なまでの説得力を持っていた。


「き、貴様! 我々の長年の慣習を愚弄する気か! 会議とは、ただ結論を出す場ではない! 互いの意思疎通を……空気感を共有する、重要な……」


「『空気感の共有』。定義が曖昧です。数値化不可能な要素は、業務効率化の阻害要因となります」


九条は一歩、田中の方へ踏み出した。その圧迫感に、田中がたじろぐ。


「本会議の目的が『スタンスの明確化』であるならば、私が最適解を提示します。来期の販促は、データに基づき、ターゲット層を20代後半の都市部独身層に絞り込むべきです。過去の購買データと市場トレンドの分析結果より、それが最も費用対効果が高い。以上。結論は出ました」


彼女は言い放つと、腕元の時計に視線を落とした。


「会議終了まで、0秒。これより、通常業務に移行します。皆さん、自席に戻り、それぞれのタスクを遂行してください」


その場を支配したのは、圧倒的な静寂だった。


誰も動けない。田中でさえ、口をパクパクと開閉させるだけで、言葉が出てこない。長年この部署を覆っていた淀んだ空気が、強力な換気扇で一気に吸い出されたような、そんな感覚だった。


九条は、呆然とする人間たちを尻目に、自分のために用意されていたであろう空席――佐藤の隣の席――に座ると、流れるような動作でPCを起動した。キーボードを叩く音が、マシンガンのように静まり返ったオフィスに響き渡る。


佐藤は、自分の心臓が早鐘を打っているのを感じていた。


(とんでもないことになった……)


それが率直な感想だった。効率化の権化のような存在が、この非効率の掃き溜めにやってきたのだ。


午後の業務は、奇妙な緊張感の中で進んだ。田中の怒鳴り声は消え、聞こえるのは九条のタイピング音だけ。佐藤は、彼女の隣で仕事をすることに、強烈な居心地の悪さを感じていた。


彼女は人間ではない。その認識が、隣に座っているだけで肌を粟立たせる。呼吸音が聞こえない。体温が伝わってこない。時折、青い瞳がサブルーチンを処理するように微かに明滅するのを見ると、自分がSF映画の中に迷い込んだような錯覚を覚えた。


定時が近づいた頃、佐藤は膨大なエクセルデータと格闘していた。来期の販売予測の基礎データ作成だが、手作業での修正箇所が多く、目が霞んできていた。疲労でマウスを握る手が汗ばむ。


(今日も残業確定か……)


そう思って溜め息をついた時、隣からスッと白い手が伸びてきた。


「なっ……」


九条の手が、佐藤のマウスの上に重なった。冷たく、硬質な感触。彼女の指は、佐藤の手を包み込むようにしてマウスを操作し、画面上のカーソルを動かした。


「佐藤さん。そのデータ処理は非効率です。マクロを組めば、3分で完了します」


彼女の顔が近づく。相変わらず無表情だが、間近で見ると、その造形の完璧さが際立つ。ほのかに、機械油とオゾンが混ざったような匂いがした。


「え、あ、はい。でも、マクロは苦手で……」


佐藤がしどろもどろに答えると、九条は「理解しました」と短く言い、佐藤からマウスを奪い取った。


「私が実行します。あなたは他のタスクに移ってください」


彼女の指が目にも止まらぬ速さでキーボードを駆け巡る。画面上の数字が滝のように流れ、瞬く間に整理されていく。佐藤が半日かけても終わらなかった作業が、彼女の言葉通り、数分で完了してしまった。


「完了しました。確認を」


九条が画面を指し示す。完璧な集計結果が表示されていた。


佐藤は呆気にとられて、礼を言うのも忘れていた。ただ、彼女の横顔を見つめることしかできなかった。


「……あの、九条さん」


「何でしょうか」


彼女は画面から目を離さずに答える。


「どうして、僕のを……? あなたの仕事ではないはずじゃ……」


効率を至上命題とする彼女が、なぜ他人の仕事を手伝うのか。それは、彼女のロジックに反する行為ではないのか。


九条は手を止め、ゆっくりと佐藤の方を向いた。青い瞳が、佐藤の疲れた顔を映し出す。彼女の内部で、無数の演算処理が行われているのを感じた。


そして、彼女は言った。


「あなたのストレス値が、規定の閾値を超えていたからです」


「え?」


「あなたがその作業に苦戦し、焦燥感や疲労感を蓄積させることは、部署全体のパフォーマンス低下に繋がります。また、あなたのバイタルサインの乱れは、周囲の人間、ひいては私の演算処理にも微細なノイズを生じさせる可能性があります」


相変わらず、論理的な説明だった。全ては効率のため。データの最適化のため。


だが、彼女はそこで言葉を区切り、ほんの少しだけ、声のトーンを落としたように聞こえた。


「それに――」


九条の青い瞳が、一瞬だけ揺らいだように見えたのは、佐藤の気のせいだったのだろうか。


「その方が、あなたが楽になるからです」


佐藤は息を呑んだ。


楽になるから。


それは、効率化の論理から外れた、あまりにも人間的な響きを持った言葉だった。演算結果の出力にしては、不必要な「配慮」が含まれている。


「……え?」


佐藤が聞き返すと、九条はもう元の無表情に戻っていた。


「質問の意図が不明です。他に非効率なタスクはありますか?」


「い、いえ……大丈夫です」


佐藤は慌てて自分の画面に向き直った。心臓の鼓動が、先ほどとは違う理由で早くなっていた。


冷徹な計算機。効率化の鬼。そう思っていた彼女の内部に、得体の知れない「バグ」のようなものが潜んでいるのを感じた瞬間だった。


窓の外は、いつの間にか完全に夜になっていた。雨は上がり、濡れたアスファルトが街灯の光を反射してきらめいている。


佐藤は、隣で静かに発光し続ける青い瞳を、盗み見た。


この奇妙な「係長」の最適解が、この淀んだ部署をどう変えていくのか。そして、彼女自身が抱える「矛盾」がどこへ向かうのか。


不安と、そしてほんの少しの期待が、佐藤の胸の中で渦を巻いていた。少なくとも、昨日のような死んだような退屈な明日は、もう来ないだろうという予感だけは、確かなものとしてそこにあった。


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