第三章 エピソード8
未来の王太子妃にして、公爵令嬢。
――ルナリア・アーデルハイト。
ごく普通の奉仕服に、標準仕様のつば広麦わら帽。
けれど、ただそこに立っているだけで、彼女は――
誰よりも華やかで、誰よりも完璧だった。
それは、まるで“完璧であること”そのものが、彼女に課された宿命のように。
音もなく、優雅に佇む彼女に――自然と視線が集まる。
集まる視線の波に、ルナリアはほんのわずかに眉をひそめた。
それだけで、空気がぴんと張りつめる。
その瞬間、脳内に響いたのは、能天気な声。
『えっ、なんか……期待のまなざし、すごっ!?
ルナリアさん、これ完全に“善行キャラ”になってますよ!?』
(そもそも誰のせいかしら……?
他人事みたいに言わないでくださる?)
『いえいえ、今日のわたしは――奉仕畜!
他人事なんかじゃありません!
一緒にがんばりましょ~~!!』
(はぁ……そういう意味ではありませんのよ)
けれど、その軽い声が胸に響いた瞬間――
少しだけ、張り詰めていた空気がほどけた気がした。
すると、いつもの真っ白な神官服から奉仕服に着替えたセリアが、そっと歩み寄ってくる。
「ルナリア様……今日、一緒に頑張れるって思うと、心強いです……!」
(セリア様……どうしてあなたは、そんな目をするのかしら)
――その瞳は、善意でも押し付けでもなく。
ただひたすらに、「信じてくれている」ようで。
その隣に直立した護衛――奉仕服に帯剣した女騎士、ユリシアが一礼する。
高くまとめた銀の髪が、星の流れのようにゆるやかにきらめいた。
「奉仕活動へのご参加、感服いたします。
もしよければ、私もお手伝いを」
(なによ……セリアにユリシアまで)
ざわ……ざわ……。
周囲の期待が、見る間にふくらんでいく。
ルナリアもその“圧”を肌で感じ、さすがにいたたまれない気持ちになるが――
そんな彼女をよそに、無慈悲な鐘の音が空を裂いた。
ゴォォン――……。
鐘の余韻が空に溶けていくと、広場全体がしん、と静寂に包まれた。
静寂の中、花壇の前に凛と立つルナリアの姿に、皆、息を飲む。
――そして、決定打。
ひとりの下級生が、小さなスコップを両手に抱えて、おずおずと近づき――
そっと、それを差し出した。
「ルナリア様……あの、これ……どうぞ……!」
小さな手。震える声。
けれど、その紫の瞳には――真っすぐな憧れが宿っているかのよう。
(……あれ? この子どこかで……)
その自分と同じ瞳の色に一瞬だけ引っかかる。
けれど、それよりも――
(……はあ。もう、どうあっても……そういう流れなのね)
『ルナリアさん、ここ大事! イベント分岐です!
ここでスコップを叩き落として――
『妃たるもの下々の仕事などしません!』
なんて言った瞬間、下級生泣かせて、
破滅フラグ「奉仕日の暴言」、即・成立!
悪役令嬢が目指すべき“愛されヒロイン”は――
にっこり笑って受け取る。これ一択っ!』
(わたくしは悪役令嬢でもありませんし、愛されヒロインも目指してません!)
そう言い返しながらも――ルナリアは、心の奥で認めていた。
確かに、少し前のわたくしなら、
少なくとも素直に受け取れなかったかもしれません……。
泣かせるぐらいのことは――したかも知れませんわね。
そして、完璧な微笑みとともに――
「ありがとう」
鈴のような声でそう言うと、その下級生の顔にぱっと花が咲いた。
小さく息を吐き、奉仕服のスカートを摘み上げると、ルナリアは無言で手袋を外す。
差し出されたスコップを、両手で確かに受け取った。
じっと、その手の中のスコップを見つめる。
(スコップ……何年ぶりかしら)
それは、冷たくて、少し重くて――どこか、懐かしかった。
でも、たしかに――今のわたくしが、“選んだ”道の重みだった。
(……わたくしが、泥に触れる? 公衆の面前で?)
心のどこかで、まだ囁く声があった。
“貴族としてのふるまい”
“令嬢としての矜持”
“妃教育の教え”
けれど――
今、わたくしの手の中にあるこの道具は、
実際は冷たいのに――不思議と温かかった。
目の前のまっすぐな瞳が、ただひたすらに、信じてくれていて。
(……いいえ。これは、わたくしが選んだのです)
(過去のわたくしでは、きっと選べなかった。でも今は――)
そのとき、まひるの少し興奮した声が脳内に響いた。
『あっ、これ……まさかの花壇イベント突入の流れ!?』
『ルナリアさん、好感度アップ+3は狙えるチャンスですよ、チャンス!!』
(はぁ……)
「……やればいいんでしょ、やれば」
その一言に、生徒たちは一斉に息を呑んだ。
(……“選んだ”のなら、“アーデルハイト家の令嬢”としての矜持を見せるまで)
ルナリアは花壇の縁にしゃがみこむと、茂る雑草の根元をじっと見つめた。
「……根が深いわね」
ぐっ、と力を込めてスコップを押し込む。
“氷の百合”ルナリア・アーデルハイトが土を掘り返す音が、静寂を切り裂いた。
陽光が土の粒を照らし、跳ねた泥がきらめく中――
麦わら帽子をかぶった金の髪の令嬢の頬に、汗がひとすじ、静かに光る。
それは、春の花々よりも清らかで――
見慣れた優雅さとは異なる、自然で、凛とした美しさだった。
どこかの貴族生徒が、ごくりと唾を飲み込む音がした。
「ルナリア様が……本当に、土いじりを……?」
「あれ……意外と……手際いい?」
「というか……スコップの持ち方、綺麗……」
まるで、舞踏会の所作のように。
まるで、ひとつの芸術のように。
貴族も平民も、その場の全員が、呆気にとられていた。
(スコップを持っただけで、こんなに注目されるだなんて……冗談じゃありませんわね)
そう内心で嘆きながらも、ルナリアは額に汗をにじませ、黙々と作業を進めていく。
生徒たちがざわつく中――
セリアは胸にそっと手を当て、静かに感嘆の息を漏らした。
「……美しい……」
ユリシアも、優しい眼差しでルナリアを見つめながら、頬をほんのり染める。
「まさしく、尊き御業――」
教師も、静かに頭を垂れた。
「そのご姿勢、学院の模範と申せましょう」
遠巻きに冷笑していた貴族のひとりが、帽子を脱ぎ、そっと頭を下げる。
黙々と作業していた平民の少女が、泥まみれの手で、小さく拍手を送った。
最初の拍手は、小さな手のひらから。
それが静かに、波紋のように広がって――
春の風に乗り、中庭を、やさしく包み込んでいく。
『……すごいです、ルナリアさん』
まひるの声が、珍しく静かに――けれど、確かに胸の奥に響いてきた。
『ううん……ほんとに。
ルナリアさんの想い……ちゃんと、みんなに届いてる。
わたし、今のルナリアさんを、心から誇りに思うよ』
ルナリアは、作業の手を止めることなく、心の中でふっと微笑む。
(……なによ、急に真面目になって。らしくもないこと)
だけど、その声が――少しだけ、嬉しくて。
少しだけ、手のひらに力がこもった。
(……でも、ありがとう)
そっと、でも確かに。
それは、誰にも聞こえない場所で交わされた、“ふたりだけの拍手”だった。
確実に近づいたふたりの距離。
だが――その裏で、ルナリアに忍び寄る三つの影があった。
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