第三章 エピソード7

王立学院・寄宿舎(早朝)


――ルナリアの朝ルーティンの前。


まだ陽が完全に昇りきる前。

静まり返った寄宿舎の廊下に、小さく、規則正しい足音が響く。


――コツ、コツ。


石造りの床に、迷いのない歩みが刻まれていく。


――コツ。


やがて、その音はある一室の前で止まった。

“ルナリア・アーデルハイト”――五大公爵家が一つ、アーデルハイト家令嬢の私室。


そのドアの前に、ひとり、ぽつりと佇む少女の姿。


黒を基調とした清楚なエプロンドレスは、白いレースの縁取りがよく映え、

その腰元に結ばれた大きなリボンが、まるで彼女の無垢を語るようにふわりと揺れた。


栗色の髪は左右に丁寧に結われ、ツインテールの毛先が、朝の静謐な光の中で小さく踊っている。


彼女の名は――ミレーヌ・アルヴェール。


爵位を持たぬ下級貴族の娘でありながら、王立学院・中等部に在籍し、

“氷の百合”と称される公爵令嬢、ルナリア・アーデルハイトの専属侍女を務める少女。


実のところ、ミレーヌの実家は、地方の小都市を治める小さな領主家にすぎない。

それでも、五大公爵家の侍女に抜擢されたことは、一家にとっては十分すぎるほどの誉れであった――


けれど。


(……まあ、それと「お嬢様の侍女への扱いが雑すぎる件」は、話が別ですけどね)


清楚なエプロンドレスの腰元にあるリボンをきゅっと結び直し、

洗濯と補修を終えたばかりの、”例のドレス”が入った籠を肘にかけ、ひとりごちる。


(このドレス、洗って直すのにどれだけかかったと思ってるんですか……)

(途中で本気で「これ、何かの呪詛でも受けたんじゃ……?」って、呪い返しそうになりましたよ)


ルナリアの部屋の前に立つと、ふと昨日の朝の記憶がよみがえる。


――昨日の朝。


いつもどおりノックをすると――


扉がほんの少しだけ開き、その隙間からぬっと現れたのは、細く白い腕。


その、ほっそりとした指先がつまんでいたのは――

泥と草でドロドロになった、見るも無惨な礼装ドレスだった。


「え……っ」


「……少し転んでしまいましたの」


(……いやいやいや。これで“少し”って言い張るの、お嬢様くらいですからね)


そっと広げた瞬間、ぱらりと枯れ葉が落ち――


ボトッ。


おまけに、固まりかけた泥までが盛大に床へと落下した。


(お嬢様……神殿の花壇に、ダイブなさいました?)


それは、森を全力疾走したあと、畑にスライディングして、

最後の仕上げに花壇へ大の字で飛び込んだのか、と思うような――壮絶な有様だった。


あきれを隠さず、ミレーヌはドア越しに声をかける。


「なぜ、とは聞きませんけど……これ、わたくしにどうしろと?」


「そうね。大切なものなの。元通りに。ミレーヌ、お願い……」


(……その甘え声だけで許されると思ってるあたりがもう……ずるいんだから)


扉の前で、ミレーヌはふうっと小さくため息をついた。


(……正直、あのドレスを見た瞬間は、「いじめに遭った」って聞かされた方がまだ納得できましたよ。ほんとに)


――とはいえ、お嬢様が“いじめられる側”になるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ませんけどね。

あの方に本気で噛みつける人間がいたら、むしろ一度お話してみたいくらいですわ。

……そんなお嬢様が、泥と草にまみれて帰ってくる日が来るなんて。


「――あれはもう、“奇行”を通り越して、“破天荒”ってやつですね」


ぽそっと口に出すと、自分で言った言葉に苦笑してしまう。

口元に手をあて、くすっと小さく笑った。


(でもまあ……なんだかんだで、今日もこうして朝は来るんですから)


気を取り直して、ドアの前でぴしりと背筋を正す。


こんこん。


二度、礼儀正しくノックを打ち込んでから、耳を澄ませる。


返事は……ない。――うん、これも想定どおり。


「……お嬢様、ミレーヌです。入室いたしますね」


そう告げて、扉を静かに開け、中へと足を踏み入れた。


扉を開けた瞬間、外よりも一段としんとした空気が、ミレーヌを包み込む。

まだ夢の名残が残るような、ほんのりと甘い香りが漂っていた。


(……シナモン? お嬢様、気分を切り替えたかったのね)


日が昇るよりも早く起き、主の部屋を整えること。

それが、ミレーヌの日課であり――そして、ちょっとした“誇り”でもあった。


「……失礼いたします」


ミレーヌは静かに歩を進め、窓のカーテンを手早く開ける。

冷たい空気と一緒に、やわらかな朝の光が部屋に差し込んだ。


昨日洗い上げたドレスをクローゼットに戻し、

机の上では羽ペンとインク瓶の位置を整えて、手紙用紙を一枚、ぴしりと新しいものに差し替える。


そして――

ふと、部屋の中央にあるふかふかのベッドへと目をやる。


真っ白な肌に、長いまつげ。

金糸のような髪が枕の上にふんわりと広がり、整った寝顔はまるで精巧な彫刻のようだった。

――けれど、よく見ると、ほんのりと眉間に力が入っている。


「……今日は、ほぼ、いつも通りみたいですね。よかった」


ミレーヌはそっと胸をなでおろし、口の端をほんのすこしだけ緩めた。


(お見かけはまさに“お姫様”なんですけど……中身は、どうにも追いついていらっしゃらないんですよね)


そして、心なしか呆れたように、でもどこか嬉しそうに、心の中で呟く。


(……この寝顔で”氷の百合”とか“奇行令嬢”なんて、貴族の噂もいい加減ですわ。

 ――まあ、実際に“奇行”してるのは、事実ですけど……。

 ええ、むしろ規格外ですけど)


昨日は学院でも持ち切りだった噂。

ルナリアの“奇行”と、夜会での王子と聖女の舞踏。


もちろん、ルナリア付きの侍女であるミレーヌは質問責めにあったわけだが――

「いつも通りでいらしたわよ」で押し通した。


(ドロドロのドレスと、あの吹っ切れた表情を思い出すたび、もう笑うしかないですわ)


(……いえ、これ以上考えるのはやめておきましょう)


ベッドに近づき、落ちかけた毛布をそっと整える。


「まったく……もう少し“自覚”を持っていただかないと――」


そう口にしながらも、その指先はやさしく、ひどく丁寧だった。


ティーセットを整え、白磁のカップにはクロスをふわりとかけておく。

朝の一杯は、ルナリア自身が淹れる――それが“こだわり”であり、“習慣”であり、何より“譲れない領域”なのだ。


(……まあ、正直そこだけは妙にストイックなんですよね、お嬢様)


ティーセットに手紙、ぴしりと折り目のついた制服、そしてラベンダーの香りがほんのり残る柔らかなタオル。


“完璧”な朝の支度が、音もなく整えられていく。


あとは――主の目覚めを待つだけ。


ミレーヌは髪のブラシを手に取り、ベッドの傍にそっと屈んだ。


「……お嬢様、そろそろお目覚めを。本日は“奉仕日”でございますよ?」


軽やかで、ほんのり含みを持たせた声音だった。


返事は――ない。

まあ、想定内だ。


「ちなみに、寝坊されますと……昨晩は花壇にダイブしたうえ、池で優雅に泳いでいたという噂が立つかもしれませんよ?」


ほんのり脅しのスパイスを効かせて、囁いてみる。


――すると、ようやくまぶたがぴくりと動いた。


「……ふぁ……おはよう、ございますわ……ミレーヌ……」


「ごきげんよう、お嬢様。完璧なお目覚め、ありがとうございます」


ミレーヌは背を向けたまま、さらりとひとこと添える。


「……寝癖は、完璧とは申し上げかねますけれど」


「ふふっ、ミレーヌったら……でも、そういうところ、けっこう好きよ」


そんなやり取りを交わしながら――

今日もまた、“氷の百合”と呼ばれる少女と、そのちょっぴりスパイシーな侍女による、少しだけ騒がしい朝が始まる。


(――どうか今日は、花壇に飛び込まずにすみますように。

 お洗濯と、わたしの心の平穏のために)


***


セレスティア神聖国

王立学院・中庭(午前)


セレスティア王立学院には、月に一度――

すべての者が“平等”になる、とされる特別な日がある。

その名は、奉仕日ほうしび


この日だけは、貴族であろうと平民であろうと、例外なく“奉仕服”に着替え、学院の清掃や整備、共同作業に従事するのだ。


「身分の差はあっても、天の下に生きる者は皆、同じように土に触れるべき」


それは、はるか昔千年前の、“原初の聖女”が残した、教えの一つ。


(とはいえ、実際には……)


ルナリアの周囲――

少し距離を置いて、黙々と作業する平民の生徒たち。


一方で、建物沿いの日陰には、貴族の一団が集まり、手元を汚すことなく箒を揃えていた。

時折、くすくすと笑い声が聞こえる。まるで「見世物」でも眺めるかのように――


誰が決めたわけでもない。

けれど、現実には――汚れる仕事は平民、

見映えの良い仕事は貴族と、

暗黙のうちに役割は決まっていた。


ルナリアは、ぽつんと花壇の前に立ち、うんざりとした目で、自分の足元に広がる花壇を見つめた。


スコップ、くわ、手袋、麻袋――


そして、朝からなぜかやたらと気合いの入った、脳内のまひる。


『さあっ! 本日は社畜ではなく奉仕畜! 耕して耕して耕しまくるっすよ~!』


(今日も朝から “スイッチオン”なのですね……)


今日のルナリアは、いつもよりほんの少し、言葉を飲み込まずにいた。

なぜなら、あの夜の気づきが、まだ胸のどこかで燻っていたから。


この土の匂いも、風のざわめきも、そして彼女の中の声も――

すべてが、いつもより少しだけ近く、あたたかく感じられていた。


再びルナリアの中にふわりと浮かぶ、まひるの声。


『……ふふふ、見てくださいよルナリアさん!

 この流れ、“破滅フラグ回避ルート”一直線ですって!

 善行イベントは、乙女ゲーの基本!

 ――好感度爆上げの王道ですから!』


(……あなたもいらしたのね)

(すっかり“忘れて”ましたわ。 

 いえ、忘れようとしていたのですわね)


――そうでなければ、わたくしが“自ら動いた”ことにはなりませんから……。


『えーー!?ひどくないですか!?

 さっきもしゃべってたじゃないですか!?

 せっかくルナリアさんの好感度アップに貢献してるのに~!』


(……自覚があるなら、少し黙っててくださる?)


(とはいえ、この空気は……さすがに想像以上ですわ。

 予想していたとはいえ、ここまで視線が集まるとは……)


いつも通り制服から奉仕服に着替えた後。

いつもの講堂ではなく、何故かここ“中庭”に足が向いてしまった。


近くで、あからさまに期待に胸を膨らませている者。

少し離れた場所で、ちらちらと様子を伺う者。

遠くでは、今か今かと冷笑を浮かべる者。


先日の“ルナリア様の善行”――

迷い猫探しやお年寄りの介助、雑草抜き――

その噂は、もはや学院中に広まっていた


近くの平民生徒が目に入る――

そこには、まひるの“善行”をルナリアの仕業だと信じ切っている顔。


(……先日の件、完全にわたくしの善行扱い……)


「ルナリア様が、教会裏の雑草を抜いてくださったらしいよ」

「ほんと? あの“氷の百合”が? 冗談じゃなくて?」

「わたしのクラスの子……見たんだって。おばあさんを背負って歩いてたって」

「“氷の百合”ならぬ“泥の百合”だって……!」

「……それって、舞踏会を欠席してまで……?」


ざわめく声に、教師も目を細めながら言った。


「今日は学院の奉仕日です。

 ……ルナリア様が、きっと素晴らしい“模範”を見せてくださるでしょう」


そうして皆の視線が――

金糸の髪を風になびかせた、たおやかな少女に集まっていた。



『さあっルナリアさん!

 本日は乙女ゲー名物! “奉仕日大事件ルート”突入っすよ~!?』


(……お願いですから、その“事件”という予感だけは外れてほしいですわ)


――そしてこの日の出来事が、学院の“空気”を変える“小さき”一歩になる。

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