第三章 エピソード5
「――わたくしは、“人間”です!」
ルナリアの叫びは、風に乗って――午後の学院の静けさを裂いた。
回廊に、沈黙が落ちる。
ラファエルは、すぐには言葉を紡がなかった。
その沈黙は、否定でも肯定でもなく――
遅すぎた自覚だったのかもしれない。
けれど――その沈黙に、耐えきれなかったのは、
むしろ、わたくし自身だった。
そして、言葉が零れ落ちる。
「そんなに置物がお好きでしたら――」
その言葉が自分の口から出た瞬間、
空気が変わったのが分かった。
(いけない……)
けれど、もう止められなかった。
「……それなら、あの純真無垢な“聖女様”とでもご一緒になれば――
きっと、お気持ちも通じ合うのではなくて?」
言い終えたその瞬間、ルナリアははっとした表情を浮かべ、瞳が揺れた。
その瞳に――感情に任せて放ってしまった言葉への後悔と動揺が滲んでいた。
――食堂での聖女セリアの屈託のない笑顔を思い出す……。
たった一言、言ってはいけないことを言った気がした。
けれど、それでも彼女は、自分の心を偽りたくなかった――それだけ。
彼女の言葉は、まるで嵐のように激しく――
しかし、確かな意志をもってラファエルの胸に届いたのだった。
――ラファエルの手が一瞬だけ硬直し、
そして、静かに、けれど未練を残すように離れた。
ルナリアは胸のあたりで手首をおさえた。
その手首には、未だにラファエルの熱の余韻が残っていた。
それが、温もりだったのか、痛みだったのか――
彼女には、まだ分からなかった。
しばらくの静寂――。
「……昔の君を思い出したよ」
ラファエルがぽつりと呟く。
どこか遠くを見るような眼差しで。
「……ずっと、君は“変わってしまった”と思っていた」
「けれど――ようやく気づいた。
変わったのは、君じゃなくて、“君を見ようとしなかった僕”だった」
ルナリアは、そっと背を向ける。
銀を含んだ金髪が肩越しにふわりと流れ、スカートの裾が弧を描く。
「次の授業がありますので……失礼いたしますわ」
「ルナリア」
再び名を呼ぶ声に、彼女の肩がわずかに揺れる。
背を向けたまま、ルナリアは立ち止まった。
「……君の選んだ道が、これからどこへ向かおうと……。
僕は――これからは、君を見ていたいと思っている。
昔の君じゃなくて、“今の君”を」
ルナリアの背が、わずかに震える。
(子供の頃のままのあなたが――
今も少しだけ残っているみたいで……ずるい方ですわね)
そして――ほんの少しだけ振り返ると、顔を見せないまま、ごく控えめに、ひとつ、優雅に頭を下げた。
(……わたくしは、過去をなぞるのではなく、
“今”を歩くと決めたのですから)
「……ごきげんよう、ラファエル殿下」
そして、ふたたび歩き出し、二つの影が離れていく。
彼女の足取りは、気高く――
けれど、ほんの少しだけ、さっきよりも軽やかだった。
ラファエルはその背を、呼び止めることなく、ただ黙って見つめ続けた。
回廊には、ぽつんと一つだけの影。
ふと、手を見つめた――
彼の手には、もう何も残っていない。
けれど、胸の内には確かに、何かが芽吹いていた。
(……もう一度、君のことを知ろう)
それは、赦しでも恋でもない。
過去の想いに触れるための、最初の一歩。
――まだ、何も終わっていない。
まだ、何も始まってすらいない。
けれど、だからこそ。
静けさの中で――ふたりの物語が、長い時を経てようやく“再開”されたのだ。
まるで、止まっていた時計の針が、静かに音も立てずに動き始めたように。
***
『ぷはーっ、苦しかった~~!!
ガチで窒息するとこでした!!』
ラファエルと別れ、回廊を曲がった瞬間。
脳裏に弾けるような声が響く。
(黙っていてくださったのね……。
少し意外ですけど)
『……いやもう、空気読むのは社畜の本能ですんで。
上司の空気読まないと即”死亡フラグ”ですから』
『ただし、自分の気持ちには基本ノータッチです。
自己感情のマニュアル、未実装なんで……』
『てか、あそこでしゃべってたら間違いなく刺される雰囲気でしたよっ!?』
(……刺しません)
そして、珍しくまひるは少しだけ真面目な口調になった。
『……いや、なんか悪いことしちゃったなって』
(何のこと、ですの?)
『……ほら、舞踏会の日……。
ちょっと舞い上がって、勝手に……その……。』
(あら? あなたにしては珍しく、殊勝ですわね)
『えへ……。でもまぁ、やっちゃう時はやっちゃうんですけどね!』
『破滅フラグ回避のためなら、多少の暴走は仕様です!』
(……仕様で済ませていいものかしら)
『……でも、さっきのルナリアさん……なんか、ちょっとだけ……』
まひるが言い淀んだまま、しばらく言葉を探すように沈黙する。
『……うまく言えないんですけど……。
さっきのルナリアさんの言葉、ちょっとだけ……
“自分の言葉”だった気がしました』
ルナリアの睫毛がわずかに揺れる。
(……)
『……あ、いや! それがダメとかじゃなくてっ』
『いつも完璧ですし、そこがすごく素敵なんですけど……』
『でも、今のは、誰かのためじゃなくて、
ルナリアさん“自身”の言葉だった、みたいな』
(……そう、ですわね。
あれは――確かに、わたくし“自身”の言葉でしたわ)
そして次の瞬間――まひるの声が唐突に弾けた。
『あ、でも!
それはそれとして! やっぱアウトですっ!』
(今度は何ですの……?)
『「聖女様とでもご一緒に」は、それもう、戦線布告レベルですからっ!』
(……言ってしまってから、後悔はしておりましたけれど)
『うんうん、それは良き反省です。
でも! まだ取り返せます!
破滅フラグ、起動したばかりですから!』
(破滅フラグって、そんなに早く起動しますの……?)
『無意識に“察して回避”するのが社畜の生存戦略ですからっ!
社畜生活もそれなりに命懸けでしたし!』
(それは……ほんとうにお疲れさまでしたわね)
ルナリアは、目を伏せて、風の中に立ち止まる。
(……ありがとう。
でも、きっと……まだ言葉にできないことも、たくさんあるのです)
まひるは、それ以上は何も言わなかった。
けれど――空気の向こうで、彼女がそっと微笑んでいた気がした。
そして、金糸の髪と制服の裾が、風にひらりと舞い上がる――
ルナリアは、ほんの一歩だけ前を向いた。
(……いつか、言葉にできたら……。
その時は、聞いてくださるかしら)
『もちろんですともっ。
まひるリスナー、24時間営業です!』
(……気が早すぎますわ)
(でも……そうですわね。
今を生きると決めたのなら――言葉にする日も、きっと来るはず)
そして、まひるに聞こえないよう心の奥底でそっと呟いた。
完璧であることよりも――
自ら選んでそうあることに、意味がある。
それに気付かせてくれたのは、あなた。
きっと、あなたが私の中に舞い降りたのは――
わたくしが変わることを女神様が望まれたから……。
いえ、わたくし自身が望んだから――
なのかもしれませんわね。
と、まひるの能天気な声がルナリアの思考を中断する。
『ああ! そうだ!!』
(まひるさん、何……ですの?)
『ルナリアさん、晩御飯どこで頂くんです?
異世界に来て初めての晩御飯! 滅茶苦茶楽しみなんですけどっ!
やっぱ貴族の晩餐って豪華なんですよね?
キャビア? フォアグラ? トリュフ?』
(……。普通です。わたくしのお部屋で頂きますわ)
『えーっ! やだやだ! せめてお肉食べましょう、お肉!』
(やっぱり煩い……。女神様に返却出来ないものかしら?)
『あ、今、酷いこと言いましたよね?
石の上にも三年。社畜と同居も三年ですよっ!?』
(……それ、まひるさんの世界の名言ですの?)
『いいえ、わたしの名言ですっ!』
ルナリアは、あきれ顔で小さくため息をつく。
けれど、その顔はほんの少しだけ、微笑んでいた。
風が通り抜ける午後の学院の空の下。
“ふたつの心”は、まだ完全には重ならない。
けれど――その歩幅は、ほんの少しだけ近づいていた。
*
――終業時間~夕方
やがて鐘の音が鳴り、学院の一日が静かに終わりを告げる。
金色の太陽がゆっくりと傾き、寄宿舎の窓に、三つの月が映り始める頃――
ルナリアの胸の奥には、まだ言葉にならない想いが、そっと残されていた。
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