第3話:深夜の予兆

布団の中は、安い洗剤の匂いと、汗の塩っぽさが混ざっていた。窓の外では雨が降ってる。音だけが、部屋の輪郭を叩いて確かめてくる。まるでこの六畳がまだ現実かどうか、確認してるみたいに。


まぶたを閉じると、闇がそのまま道になった。


山道だった。夜の山は黒い。黒の中に、濡れたアスファルトだけが鈍く光る。ヘッドライトが切り裂く雨粒は、白い針みたいに視界を刺してくる。ワイパーが往復しても、ガラスの向こうはぼやけたままだ。車内は湿っていて、吐いた息がすぐに窓に貼りついた。


俺は運転席じゃない。どこに座ってるのかも曖昧だ。ただ、身体が揺れに合わせて勝手に踏ん張ってる。揺れが骨に伝わる。タイヤが水を踏む音、遠くで雷が腹を鳴らす音、誰かの喉が鳴る音。全部がやけに近い。


前方に、バスの尻が見えた。


黄色い車体。いや、黄色だったはずの色。雨に打たれてくすみ、泥を跳ね上げて、どこか古い傷だらけの背中をしている。ブレーキランプが赤く点滅するたび、山道の闇が一瞬だけ血の色に染まる。


バスはふらついていた。蛇行って言葉は、こんなときのためにある。センターラインを跨いで、また戻って、また跨いで。運転手の腕が痙攣してるみたいな動きだった。


「おい……」


声にしたつもりが、雨音に飲まれる。喉が乾いて、舌が上顎に貼りついてる。口の中が鉄の味がした。どこかで俺はその味を知ってる。血。古い記憶の引き出しの奥で、錆びた釘みたいに刺さる味。


対向車線の向こうから、白い光が近づいてきた。トラックか、乗用車か、判別できない。ただ、光だけが一直線に突っ込んでくる。


バスが、また、はみ出した。


センターラインが雨で滲んで、頼りなく揺れる。バスの右側がその線を踏み潰して、対向車線へと伸びる。まるで「こっちへ来い」と手招きしてるみたいに。


やめろ。戻れ。戻れよ。


俺の胸の奥が、誰かの手で握り潰されるみたいに痛んだ。心臓が跳ねて、肋骨にぶつかる。息が浅くなる。視界の端が暗く欠ける。


そのとき、窓があった。


ありえない場所に。俺のすぐ横に、窓。雨で濡れたガラス。そこに、顔が貼りついている。


ユミだった。


頬が押しつぶされて、唇が歪んでいる。目が大きく見開かれて、黒目が震えていた。髪が濡れて額に張りつき、まつ毛に水滴がぶら下がっている。ガラス越しでも、息の温度が伝わってくる気がした。必死に何かを言おうとしているのに、声は一切届かない。口が開いて、閉じて、また開いて――魚みたいに。


隣に、もう一つの顔。


サキ。


小さな顔が、ユミの肩の向こうから覗いている。恐怖で引きつった笑いみたいな表情。泣いているのに、泣き声がない。目尻から涙が流れて、ガラスの上で雨と混ざっていく。子どもの泣き方ってのは、本当は音じゃなくて、表情と呼吸なんだと、そのとき妙に理解した。


俺は手を伸ばした。指先がガラスに触れる。冷たい。水の膜。滑る。掴めない。


ユミの目が俺を見る。責める目じゃない。助けを求める目でもない。もっと嫌なやつだ。――「わかってるだろ?」って目だ。俺が何かを知っていることを、前提にした目。


知ってるわけがない。こんなのは夢だ。そう言い聞かせる暇もなく、バスが大きく傾いた。


対向車のライトが、真正面に来る。


光が白から青に変わった気がした。冷たい閃光。世界が一枚の写真みたいに止まって、その中で雨粒だけが針のまま浮いている。


次の瞬間、映像が切り替わった。


泥だった。


茶色い泥水が、ぬるく渦を巻いている。山の斜面の崩れた場所。草が寝て、土が剥き出しになり、雨がそこに容赦なく叩き込まれている。泥の匂いが鼻の奥まで入り込む。腐った葉と、鉄と、湿った石の匂い。


その泥の中に、赤い傘が落ちていた。


赤だけが異物みたいに鮮やかだった。周りが全部、濡れた黒と茶色の世界なのに、その傘だけが子どもの絵の具みたいな赤で、泥に半分埋もれている。骨が折れて、布がよれて、持ち手が空を向いている。取っ手の曲がりが、誰かの指を待っているみたいに見えた。


サキの傘だ、と夢の中の俺は当たり前のように知っていた。


いつ買った? どこで選んだ? そんなことは思い出せない。ただ「サキのもの」だという事実だけが、胸の奥に釘みたいに打ち込まれる。なぜだ。どうしてそんなことがわかる。わかってしまうことが怖い。


赤い傘の表面に雨が当たり、びちゃびちゃと音を立てる。小さな水たまりが傘のくぼみにできて、波紋が広がる。その波紋が、なぜか俺の鼓膜の内側に触れてくる。頭の中で、同じ音が何度も反響する。びちゃ。びちゃ。びちゃ。


そして、熱が来た。


最初は風呂の湯気みたいな、湿った熱。次に、ストーブの前に顔を近づけたみたいな乾いた熱。最後は、皮膚の表面が焼けるような暴力的な熱。喉が焼けて、息が吸えない。目が開けていられない。髪が焦げる匂いがする。ゴムが溶ける匂い。油の匂い。肉の匂い。


炎上。


バスが燃えているのが見えた。雨の中で、炎だけがありえないほど明るく踊っている。黒い煙が上がり、雨粒がその煙に吸い込まれていく。窓の中に、人影がある。動いているのか、揺れているだけなのか、判別できない。


ユミとサキの顔が、また、窓に貼りついた。


今度はガラスの向こうが赤い。火の赤。頬が照らされ、瞳に炎が映っている。口が開く。声が出ない。出るはずがない。雨音も、火の音も、全部が耳を塞いでくる。


俺は叫んだ。喉が裂けるほど。


その叫びで、俺は現実に引きずり戻された。


布団の中で、飛び起きていた。心臓が暴れて、肋骨を内側から蹴っている。シャツが肌に張りつき、背中が冷たい。全身が脂汗でぬるぬるしているのに、指先だけが氷みたいに冷えている。


部屋は暗い。雨音はまだ続いている。さっきまでの熱気が、まだ鼻の奥に残っている気がした。焦げた匂い。嘘だ。ここは俺の安アパートだ。焦げるものなんて何もない。コンロも使ってない。煙もない。


それでも、俺の胸の奥はまだ燃えていた。


息を吸うたびに、喉の奥が痛む。夢の中で吸った煙が、現実の肺に居座ってるみたいだった。俺は両手で顔を覆って、掌の中の湿り気を確かめた。汗だ。涙じゃない。たぶん。


枕元のスマホに手を伸ばした。画面が点いて、時間が青白く浮かぶ。深夜。数字がやけに冷静で、俺の混乱を馬鹿にしている。


「ただの夢だ」


声に出してみる。部屋の中で、俺の声だけが薄く響いた。頼りない。自分の言葉が自分を支えない。そんなこと、今まで何度もあった。借金の督促だって、明日返すって言葉だって、全部そうだった。口にした瞬間から空っぽで、風が吹けば飛んでいく。


でも今夜のは違う。


夢ってのは、もっと雑だ。顔の輪郭が曖昧で、色が滲んで、都合よく場面が飛ぶ。なのに今のは、雨粒の針みたいな冷たさも、泥の匂いも、炎の熱も、皮膚が覚えている。目を閉じれば、赤い傘がまだ見える。泥の中で、あの赤だけが浮いている。


俺は布団を跳ねのけて、床に足をついた。畳じゃない。安いフローリングが冷たく、足裏の汗をさらっていく。ふらつきながら窓に近づく。カーテンの隙間から外を見ると、街灯の光が雨に滲んでいる。世界は何事もなかったみたいに濡れている。


ガラスに自分の顔が映った。青白い。目の下が黒い。情けない面だ。負け犬の顔。いつも通り、のはずなのに――目だけが、さっきのユミの目と重なる気がして、胃がひゅっと縮んだ。


俺は手を伸ばして、窓ガラスに触れた。冷たい。現実の冷たさ。なのに、指先が震える。さっきの夢のガラスの冷たさと、同じ種類の冷たさだった。


「……赤い傘」


口の中で転がす。赤い傘。サキの傘。サキ。ユミ。


名前を言うだけで、胸の奥がざらつく。罪悪感とか愛情とか、そういう綺麗な言葉じゃない。もっと汚い。借金の明細書みたいに、生々しい不安だ。


俺は部屋の暗がりに戻り、布団の端を握りしめた。指が白くなるくらい力を入れても、震えは止まらない。


ただの夢じゃない。


根拠はない。証拠もない。あるのは、身体の感覚だけだ。熱の残り香と、泥の匂いと、窓に貼りついた二つの顔。俺の中のどこかが、未来の事故を先に見たみたいに怯えている。


雨音が、さっきより近く聞こえた。まるで山道の雨が、このアパートの屋根まで追いかけてきたみたいに。


俺は目を閉じた。閉じても赤い傘がいる。泥の中で、折れた骨を晒している。拾い上げなきゃいけない気がした。拾い上げても手遅れな気がした。


眠れるわけがなかった。


布団に戻っても、身体は火の前に立たされているみたいに強張っている。俺は天井を見上げた。雨の音が一定のリズムで続く。心臓の鼓動とずれて、妙に腹が立つ。


どうせ明日も、金のことで頭を下げる。どうせ俺は、何も守れない。


そのはずなのに、今夜だけは、守れないものの形がはっきりしすぎていた。赤い傘みたいに。闇の中で、あれだけが妙に鮮やかで、目を逸らすことを許さない。

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