第2話:負け犬の日常

コンビニの自動ドアが、俺を吐き出すみたいに開いた。夜の空気は冷蔵庫の奥みたいに乾いてて、肺の内側をきしませる。レジ横で買った安い缶コーヒーが掌をじわりと温めた。温度だけは、まだ信用できる。


街灯の下を歩く。アスファルトに落ちた自分の影が、妙に痩せて見えた。痩せたのは身体だけじゃない。財布も、記憶も、どこかが削れていく音がする。借金ってのは、金だけじゃなく人間そのものを担保に取る。


アパートの階段は鉄の骨みたいに冷たく、踏むたびに呻いた。二階の角部屋。鍵を回すと、湿った埃の匂いが鼻の奥に貼りつく。電気をつけないまま靴を脱ぎ、缶を開けた。プシュッという音が、この部屋ではやけに大きい。


部屋はいつも通り荒れていた。シンクには洗ってないカップ麺の容器。床には脱ぎ捨てたスーツと、昨日の新聞。テーブルの上には、開封済みの督促状が何枚も、まるで白い舌みたいに広がっている。俺の生活は、片づけようとすると逆に散らかる。


そして壁。


薄いベニヤの壁に、セロテープで雑に貼られた一枚の写真。色褪せたプリント紙の中で、ユミが笑っている。隣でサキが、両手を広げてる。たぶん遊園地だ。背景に観覧車の骨組みが見える。俺も写ってるはずなのに、その部分だけ反射で白く飛んでいて、顔がよく見えない。まるで最初から、俺だけいなかったみたいだ。


俺は缶コーヒーを一口飲んだ。甘さが舌にまとわりついて、すぐ消えた。


写真に目を戻す。


……何も来ない。


胸の奥が、きゅっとなるとか。喉が詰まるとか。腹が熱くなるとか。そういう、安っぽい映画みたいな反応が、一切ない。ただ、紙の表面の光沢と、テープの黄ばみが見えるだけだ。ユミの笑い皺の影。サキの前歯の欠けたところ。情報は入ってくる。でも、味がしない。


俺は冗談みたいに唾を飲んだ。喉が鳴る音だけが、部屋に残った。


怖い。


怖いって感情は、まだ残ってるらしい。そういうところが嫌になる。必要なものから先に剥がれていって、どうでもいいものだけしぶとく残る。俺の脳は、借金返済のために売られて、安い部品にすげ替えられたみたいだった。


以前なら、この写真は刃物だった。見た瞬間、胸を切り裂いて血を出させる。ユミに出ていかれた日のこと、サキが「パパ、また来てね」って言った声、あの小さな手の温度。そういうのが、まとめて突き刺さる。だからこそ俺は、壁に貼った。自分がまだ人間でいるための釘みたいに。


今は、その釘が錆びて折れて、壁から落ちかけてる。


俺は写真に近づき、指で端を押さえた。セロテープの粘着が弱って、紙がふわりと浮く。指先に伝わるのは、紙の薄さだけだ。ユミの髪の匂いも、サキの汗の匂いも、どこにもない。写真ってのは本来、記憶の引き金になるはずだった。なのに俺の中では、ただの印刷物だ。


「……売りすぎたか」


声に出すと、やけに他人事みたいに響いた。


俺は記憶を売った。最初は、どうでもいいやつからだ。学生時代の飲み会、元上司の説教、駅のホームで転んだ恥。そんなものなら、消えても困らないと思った。現に困らなかった。むしろ身軽になった気さえした。


次に売ったのは、痛い記憶だった。ユミと口論した夜。サキが熱を出して俺が何もできなかった夜。思い出すたびに胃が痛くなるやつ。消えたら楽になると思った。確かに、楽になった。痛みがなくなるってのは、快楽だ。麻酔みたいに。


その次は……境目が曖昧だ。どこからが「売っちゃいけない」領域なのか、俺にはもう判別がつかない。借金取りの声はいつも締切を連れてくる。締切は、倫理より強い。


携帯が震えた。テーブルの上で、督促状の上を這うみたいに振動している。画面に出た名前を見て、胃が一瞬だけ縮んだ。安藤。


出ないって選択肢はない。出なけりゃ、次はドアだ。


「……もしもし」


「ケンゴ。生きてるか」


安藤の声は、タバコのヤニみたいに粘ついていた。喉の奥にこびりつく。向こうの背後で、何かの機械音が鳴っている。事務所か、車の中か。どっちでも同じだ。あいつの世界はいつも金属と油の匂いがする。


「生きてるよ。死んだら払えないだろ」


「口が減らねえな。返済はどうなってる」


俺は写真から目を逸らさず、答えた。「……今、用意してる」


「用意してるじゃねえ。耳を揃えろって言ってんだよ」


耳を揃えろ。安藤の決まり文句だ。耳なんて、俺にはもう揃えるだけの余裕もない。揃えるものがあるとしたら、削れる記憶の端切れくらいだ。


「来週までだ。いいな。こっちは慈善事業じゃねえ」


「わかってる」


「わかってねえ顔してんだろ、お前は」


電話越しに、安藤が笑った。笑い声だけが乾いている。人の皮を被った刃物みたいな音だ。


「金がねえなら、別の方法でもいい。お前、まだ売れるんだろ。……例のやつ」


俺は息を止めた。安藤は、俺が記憶を売ってることを知っている。いや、知ってるどころか、最初の紹介があいつだった。金貸しが、記憶の買取屋と繋がってないわけがない。借金と記憶は、同じ財布に入ってる。


「……考える」


「考えるじゃ遅え。来週だ。逃げんなよ、ケンゴ。逃げたら——」


言葉の続きを、安藤はわざと飲み込んだ。沈黙が脅しになるって理解してるやつのやり方だ。


「逃げない」


俺がそう言うと、向こうは満足したみたいに鼻で息を吐いた。


「じゃあな。電話切るぞ」


通話が切れた。部屋の静けさが戻ってくる。静けさってやつは、金がない部屋ほど重い。家具もないから反響する。反響するのは、俺の惨めさだ。


携帯をテーブルに置き、俺は椅子に腰を落とした。座面が軋む。体重が増えたわけじゃない。椅子が、俺の生活の負荷に耐えきれないだけだ。


「来週までに耳を揃えろ、か」


俺は缶コーヒーの残りを飲み干した。底に残った甘さが、舌に嫌な膜を作る。甘いのに苦い。俺の人生みたいだ。


頭の中で計算が始まる。金額。利息。手数料。記憶の相場。どの記憶が高く売れるか。どれが「まだ」売れるか。


俺は自分の脳内を、資産目録みたいに棚卸ししていく。


・初めて働いた日の記憶。安い。

・喧嘩して殴られた夜。そこそこ。

・親父の葬式。……売れる。たぶん高い。涙が絡むやつは値がつく。

・ユミと出会った日のこと。サキが生まれた日のこと。——


そこで、俺の手が止まった。止まったのは思考じゃない。身体だ。無意識に、写真の方へ視線が戻っていた。


売れる。間違いなく高い。愛情の記憶は、希少価値がある。誰だって欲しがる。誰かの人生の「温度」を、金で買う趣味の悪い連中がいる。俺みたいな負け犬の幸福の残骸でも、値札がつく。


でも、もう……俺はすでに何かを売ってしまっている。


写真を見ても、何も湧かない。この事実が、俺の計算に混じる。残高みたいに冷たい数字として。


「どれだけ売ったんだ、俺は」


問いかけても答えは返ってこない。記憶を売るってのは、財布から金を抜くのと違う。抜いた穴がどれくらいの大きさか、本人には見えない。気づくのは、風が吹いたときだ。穴から、何かが抜けていくときだ。


俺は立ち上がって、壁の写真に手を伸ばした。端をつまんで、ゆっくり剥がす。テープがぷつりと切れ、紙が掌に落ちた。軽い。驚くほど軽い。人間の幸せってのは、こんなに薄いのか。


写真を目の前に掲げる。ユミの目尻。サキの頬。俺の目はそれらを正確に捉える。なのに、心が追いつかない。まるで別の誰かの家族写真を見てるみたいだ。


それでも、指が写真の端を撫でた。紙の繊維を確かめるように。そこに何かが残ってないか探るように。


何もない。……はずなのに。


指先が、ほんの少しだけ温かくなった気がした。錯覚だ。缶コーヒーの熱がまだ残ってるだけだ。そう思おうとした。そう思わないと、怖くてたまらない。


俺は写真をテーブルの上に置き、督促状の白い舌の上に重ねた。家族の笑顔が、借金の文字に押し潰される。悪い冗談だが、俺の人生はだいたいそんなもんだ。


来週までに金。


金がないなら、記憶。


まだ売れる記憶はあるか?


俺は目を閉じて、自分の頭の中を暗い倉庫みたいに覗き込んだ。棚には埃をかぶった箱が並んでいる。ラベルが剥がれて読めない箱もある。開けたくない箱もある。開けたら二度と閉じられない箱も。


それでも、俺は鍵束を探す手つきで、次に差し出す箱を選び始めた。負け犬の日常は、明日を買うために昨日を売ることだ。しかも、安値で。


窓の外で、どこかの車が通り過ぎた。ヘッドライトがカーテンの隙間を一瞬だけ白く染めて、すぐ消える。部屋はまた暗くなる。


暗闇の中で、テーブルの上の写真だけが、俺の知らない温度を持っているみたいに見えた。感情のないはずの俺の目が、それを追ってしまう。まるで、身体のどこかがまだ嘘をつけないみたいに。

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