第4話:届かない警告
目が覚めたとき、口の中に昨夜の安いウイスキーがまだ居座っていた。舌の上で苦味だけがしつこく転がって、喉の奥に貼りつく。天井のシミは増えていない。増えるのは家賃の督促と、俺の言い訳だけだ。
布団の端から足を出す。畳じゃない。薄いフローリングが冷たくて、指先が反射で縮む。窓の外は朝の色をしていた。灰色に薄めたミルクみたいな光。隣の部屋の目覚ましが鳴って、すぐ止まる。誰かがちゃんと起きて、ちゃんと会社に行くんだろう。俺は、ちゃんとできない側の人間だ。
昨夜の夢がまだ皮膚の裏に残っていた。バスの排気の匂い。高原の風の冷たさ。ユミの横顔。笑っていたかどうかは、思い出せない。思い出せないくせに、胸の奥だけが妙にざわつく。胸なんて、借金の利息みたいに増えるだけで役に立たない臓器だ。
テーブルに転がっているスマホを拾う。画面には未読の通知がいくつか。金融会社のリマインド、カードの利用停止、見慣れた「お支払いのお願い」。指で払っても、消えるのは表示だけだ。
テレビをつけた。音量は小さく。朝のワイドショーが、薄い笑いと濃い憶測で満ちている。画面の中の連中は、誰かの不幸でコーヒーを飲むのが上手い。
その途中で、CMが挟まった。
鮮やかな緑。澄んだ空。白い息を吐くみたいな山の稜線。画面の下に、やけに元気なフォントで文字が踊る。
――「高原バスツアー 3日後出発!」
女のナレーションが、春みたいな声で言った。
3日後。
俺の背中を、誰かが指先でなぞったみたいに寒気が走った。昨夜の夢の中のカレンダー。バスの横腹に貼られた「出発」の紙。妙にリアルだった。夢のくせに、現実より匂いがした。
CMは続く。家族連れが笑って、カップルが手を振って、バスが山道を登っていく。安全運転。安心の添乗員。楽しい思い出。
思い出なんて、俺には高すぎる。
リモコンを握りしめたまま、俺は息を止めていた。喉が乾く。胃がひっくり返る。あの夢が、ただの酔いの残り香じゃないなら。もし、あれが——。
「……ユミ」
口に出した名前が、部屋の空気を少しだけ変えた。埃っぽい空気が、別の匂いを帯びる。ほんの一瞬、洗剤の香りみたいな、遠い記憶の欠片が鼻をかすめた気がした。
俺はスマホの連絡先を開いた。指が勝手に動く。ユミの名前の横にある、小さなアイコン。押せば繋がるはずの線。
コール音が一回、二回。心臓がそれに合わせて鳴る。三回目で、出た。
「……もしもし?」
寝起きの声だった。少し掠れていて、それでも俺の耳にはやけに鮮明だった。俺は息を吸い込む。言葉が喉で渋滞する。何から言えばいい? 夢を見た、って? 3日後にバスが、って? そんなの、アル中の戯言だ。
「ユミ。聞いてくれ。……3日後、どっか行く予定あるか」
沈黙。向こうで布団が擦れる音がした。たぶん、身体を起こしたんだろう。
「なに、それ。朝から」
俺は唇を舐めた。舌の上に苦味。言葉が出ない。具体性がない。根拠がない。俺の人生みたいに、全部薄っぺらい。
「高原の……バスツアーとか。行くな」
自分で言って、情けなくなった。行くな、って何だ。理由も言わずに止めるなんて、犬でももう少しマシな吠え方をする。
「は?」
ユミの声が一段低くなった。寝起きの柔らかさが消えて、代わりに冷たい刃が立つ。
「なんで?」
俺は喉の奥を掻いた。言えない。夢だなんて言った瞬間、終わる。終わるのは俺の信用だけじゃない。ユミの中で、俺は完全に「終わった男」になる。いや、もうとっくに終わってる。俺は、終わった後の残骸だ。
「……嫌な予感がする」
自分の口から出た言葉が、薄っぺらすぎて笑えた。予感。そんなもので人の予定を縛れるほど、俺は偉くない。
電話の向こうで、ユミが小さく息を吐いた。呆れたときの、あの息だ。昔、俺が飲みすぎて約束をすっぽかしたときも、同じ音を聞いた。胸の奥が、ちくりとした。痛みは、利息みたいに遅れて来る。
「ケンゴ。……またそういうこと言うの?」
「違う。そうじゃない」
俺は声を強くしたつもりだった。でも、壁に吸われていく。俺の言葉はいつも軽い。軽いから、誰の心にも落ちない。
「じゃあ、なに? 具体的に言って。何がどうなるの」
言えない。夢の中で見た事故の輪郭。赤いランプ。悲鳴。血の匂い。思い出そうとすると、頭の中が白くなる。映画のフィルムが燃えていくみたいに、肝心なところだけ黒く欠ける。
「……とにかく、行くな。頼む」
頼む、なんて言葉を、俺は久しぶりに使った気がした。頼むのは金だけだと思っていたのに。
ユミの沈黙が、今度は長かった。長い沈黙は、いつだって判決だ。
「……わかった。そういうことね」
声が、妙に落ち着いていた。それが怖かった。怒鳴られるより、ずっと怖い。
「なにがだよ」
「養育費」
その単語が、俺の額にぶつかって跳ね返った。養育費。俺が払えていないもの。払えないくせに、払うと言って、また逃げたもの。
「は?」
「払いたくないから、変な嘘ついてるんでしょ。『行くな』って。子どもとどこか行くのが気に入らない? それとも、私が楽しむのが嫌?」
違う。違う、違う。違うのに、俺の口はうまく動かない。説明すればするほど、嘘くさくなる。俺は、そういう男だ。正しいことを言っても、正しく聞こえない。嘘をつくときだけ、妙に自然だ。
「違うって言ってるだろ。俺は——」
「最低ね」
ユミの声が、氷みたいに硬かった。昔みたいに泣いてくれたら、まだマシだった。泣くほどの価値すら、俺にはもうない。
「ユミ、待て。俺は本当に——」
「もういい。連絡してこないで」
プツ、と音がした。切れた。通話終了の画面が、淡々と表示される。俺はすぐにかけ直した。コール音が鳴らない。代わりに、機械の女の声が出た。
――「おかけになった電話番号への通話は、おつなぎできません」
着信拒否。
スマホを握ったまま、俺はしばらく動けなかった。部屋の中がやけに静かだ。テレビはまだついていて、誰かが「お得なプラン」を叫んでいる。俺の耳には入らない。入ったところで、何も変わらない。
指が震えていた。怒りじゃない。恐怖でもない。もっと情けないものだ。自分の無力さが、指先から染み出してくる。俺は何もできない。止められない。伝えられない。
テーブルの上に、昨日の封筒があった。金融会社のロゴ。開けなくても中身はわかる。数字が並んで、俺を責める紙切れだ。俺はそれを指で弾いた。封筒が少し滑って、止まった。
その横に、小さなカードがある。信用情報アプリのログイン用。昨夜、何度も見たやつだ。俺はスマホを操作して、アプリを開いた。画面が暗転して、読み込みの円が回る。遅い。俺の人生に似ている。肝心なときに、いつも遅い。
表示されたのは、残酷なほどシンプルな数字だった。
「信用残高:0」
ゼロ。空っぽ。底まで擦り切れた財布みたいに、もう何も入らない。銀行も、カード会社も、そして——ユミも。俺の言葉を受け取る余地がない。
俺は笑おうとした。喉が鳴っただけだった。笑い声にならない。乾いた咳みたいな音が部屋に落ちる。
窓の外で、どこかの子どもが笑った。登校する足音が階段を下りていく。生活が続いていく音。俺だけが、そこから外れている。
3日後。
テレビのCMのナレーションが、また明るい声で「出発まであと少し」と言った気がした。俺はリモコンで電源を切った。画面が黒くなる。黒い画面に、俺の顔が薄く映った。目の下のクマ。伸びた髭。頼りない目。
俺はスマホを置いて、両手で顔を覆った。掌の中に、冷たい汗の匂い。ユミの声がまだ耳の奥で反響している。「最低ね」。それはたぶん、正しい評価だ。俺は最低だ。最低だから、誰も信じない。誰も信じないから、俺は何も守れない。
守りたいものがあるのかどうかも、最近はよくわからない。金は欲しい。借金は減らしたい。だけど、今朝だけは、それよりも先に、別のものが胸の奥で暴れていた。
名前のない焦り。形のない後悔。言葉にできない警告。
届かない。
俺の声は、いつだって届かない。信用残高ゼロの男の言葉なんて、ただのノイズだ。ノイズは消される。着信拒否みたいに。
掌を外すと、部屋の空気が少し冷たくなっていた。俺はカレンダーを見た。壁に貼った安物のやつ。今日の日付に、赤い丸をつけた。意味があるかどうかは知らない。俺は意味のないことばかりしてきた。
それでも、三日後に向かって時間は進む。
俺の無力感だけを置き去りにして。
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