記憶の買取屋と3日間の嘘

深渡 ケイ

第1話:雨と換金所

「記憶買取屋」のドアは、いつも誰かの人生を挟んで閉まる。鉄と木と、安っぽい革の取っ手。開けるときは重いのに、出るときはやけに素直だ。吐き出すのは慣れてるって顔をしてやがる。


外は土砂降りだった。路地裏の暗がりが、雨でさらに黒く濃くなっている。街灯の光が水の筋に切り刻まれて、空気はぬるい金属みたいな匂いがした。排水溝が咳き込み、溜まった水が勢いよく流れていく。俺の靴は、その流れに遠慮なく踏み込んで、じわっと冷たさを吸った。


右手の中で、紙が湿気を吸って柔らかくなっていくのがわかった。数枚の千円札。指先に貼りつく感触が、妙に生々しい。


たったこれだけだ。俺の「少年時代、初めて犬を飼った日の喜び」は。


換金所の中は乾いていた。薄暗い蛍光灯と、薬品めいた匂いと、壁に貼られた料金表。あいつらはいつも淡々としてる。「喜び」は相場が安い。涙と恐怖と後悔は高い。人間はそういうふうに出来てるらしい。俺も例外じゃない。喜びなんて、腹の足しにならない。


雨が頬を叩いた。冷たくはない。むしろ、生ぬるくて不愉快だ。髪が額に張りつき、襟元から水が入り込んで背中を滑った。俺は無意識に肩をすくめた。体が勝手に嫌がる。こういうところだけは、まだまともだ。


胸の奥に、ぽっかりと穴が開いている。


穴ってのは、痛いというより、空気が通る。風が吹き抜ける。そこにあったはずの何かが、すっぽり抜け落ちた感覚だ。胃の裏側あたりが、じくじくと冷える。雨のせいじゃない。さっきまで、あの穴には確かに何かが詰まっていた。


それでも俺は、千円札を握り直してしまう。


腹が鳴った。情けない音が、雨音の隙間から顔を出す。今日一日、まともに食ってない。借金取りの顔を思い出すだけで胃が縮むくせに、空腹だけは律儀にやって来る。


「これで……今夜は、なんとかなる」


声に出すと、さらに卑しく聞こえる。俺は唇を噛んだ。噛んだところで、プライドが戻るわけじゃない。戻るものは、血の味くらいだ。


路地の向こう、表通りのネオンが滲んで見える。安いラーメン屋の赤い看板。コンビニの白い光。あそこまで行けば、腹は埋まる。たぶん、心も少しは誤魔化せる。誤魔化しが効くうちは、まだ人間だ。


俺は歩き出した。水たまりを踏むたび、ぐしゃりと音がして、俺の足元から小さな波が逃げていく。


ふと、犬のことを考える。


いや、「考える」というより、確認だ。売ったのは「初めて犬を飼った日の喜び」。あの日の、あの瞬間の、胸が熱くなるやつ。喉の奥が甘くなるやつ。そういうのを、あいつらは綺麗に剥がして持っていく。剥がすとき、痛みはない。終わったあとにだけ、遅れてくる。


犬の名前は——覚えてる。


「コロ」。あまりにもありふれてて、笑えるくらいだ。俺の家族が、当時どれだけ語彙を持ってなかったかがわかる。首輪は青。毛は茶色が混じった白。耳が少し垂れていて、走るときにぱたぱた揺れた。散歩の道、近所の公園、土の匂い。雨上がりの草。父親の煙草の匂い。母親の洗剤の匂い。妹の甲高い笑い声。


全部、データとしては並ぶ。


まるで、他人のアルバムをめくっているみたいに。写真に写った少年が、俺と同じ顔をしてる。だけど、その写真の中の空気が、俺の肺に入ってこない。


俺は立ち止まって、雨の中で手の甲を見た。濡れた皮膚の上に水滴が跳ねて、街灯の光を細かく砕く。


——撫でたときの感触。


コロの頭。少し硬い毛。指の間をすり抜ける温度。尻尾がぶんぶん当たって、痛いくらいだった……はず。


「……はず、だよな」


口に出した瞬間、喉が乾いた。雨が降ってるのに、喉の奥だけが砂漠みたいに乾く。俺は手を握って開いた。握力の感覚はある。雨の冷たさもある。紙の千円札がふやけていく感触も。


なのに、あの「愛おしさ」だけが、どこにもない。


胸の奥を探っても、引き出しを開けても、空っぽだ。そこにあるべきものが、最初から存在しなかったみたいに。俺は自分の中の欠けた部分を指でなぞろうとして、なぞれないことに気づく。欠けた場所は、輪郭すら残していない。ただ、空気だけが通る。


背筋がぞっとした。


怖いのは、忘れたことじゃない。忘れたと気づけることだ。名前は覚えている。毛の色も、首輪の色も、散歩道の角度も。なのに、そこに付随していたはずの「好き」が、綺麗に抜かれている。


事実はある。感情がない。


まるで俺の頭の中に、誰かが冷たい手で線を引いたみたいだ。「ここから先は立ち入り禁止」って。俺はその線の前で立ち尽くしている。線の向こうに、確かに何かがあると知っているのに、触れない。


雨が強くなった。肩を叩く音が、急かすみたいに速い。俺は笑いそうになった。こんなときに笑うのは、たぶん癖だ。自分が可哀想すぎると、笑うしかなくなる。


「たった数千円で……」


言いかけて、言葉を飲んだ。数千円は、今の俺にとっては命綱だ。命綱の値段としては安いが、腹を満たすには十分だ。そう思った瞬間、俺の中で何かがぬるっと動いた。卑しい安堵感が、穴の縁にまとわりつく。穴を埋めるんじゃない。穴の周りを汚すだけだ。


右手の千円札は、もう角がくたくたになっていた。雨水が染みて、インクが少し滲んでいる。紙幣の顔が、泣いてるみたいに見えた。俺はそれを、無理やりポケットにねじ込んだ。濡れた札が布に吸い付く。みっともない。俺のプライドみたいだ。濡れて、薄くなって、破れやすい。


それでも捨てられない。


表通りへ向かう途中、換金所の看板が背後でぼんやり光っていた。あの店は、雨の中でも乾いて見える。誰かの喜びや痛みを、棚卸しして、値札を付けて、現金に換える。俺はそこから出てきたばかりなのに、もう遠い場所みたいだった。


俺は歩く速度を上げた。濡れた靴が重い。胃が空っぽで、頭が軽い。胸の穴だけが、やけに存在感を主張する。


犬の名前を、もう一度だけ心の中で呼んだ。


コロ。


呼んだところで、何も返ってこない。尻尾の音も、舌の湿った匂いも、あの瞬間の熱も。あるのは、ただの文字列だ。四文字の、記号。


それが一番、怖かった。


雨は止む気配がない。俺の空腹も、借金も、たぶんすぐには止まない。だけど今夜だけは、濡れた千円札が、俺の胃袋を黙らせてくれる。俺はその事実に救われる自分を、心底軽蔑しながら、ネオンの滲む方へ足を向けた。

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