第9話 思想犯の午後


 教室は、静かだった。

 ヒロシ(42)は、30人の学生たちを見渡した。

 彼らは、全員左耳にデバイスを装着し、ARレンズを通して授業を受けていた。

 ヒロシは、大学で哲学を教えていた。15年間、この仕事を続けてきた。

 かつて、哲学は「思考の自由」を教える学問だった。

 疑問を持ち、問いかけ、考える——それが、哲学の本質だった。

 だが、今は違う。

 オーキッドの時代において、哲学は「システムの正当性を説明する学問」になっていた。

 ヒロシは、それに違和感を抱いていた。

 だが、15年間、黙って従ってきた。

 しかし、今日——

 ヒロシは、決意していた。

 学生たちに、本当の哲学を教える。

 たとえ、それが——

 システムへの疑問であったとしても。

* * *

 授業が始まった。

 ヒロシは、ホワイトボードに一つの問いを書いた。

『私たちは、本当に自由なのか?』

 学生たちは、困惑した表情を浮かべた。

 一人の学生——ユウキ(20)——が、手を挙げた。

「先生、その質問の意味が分かりません。私たちは、自由です。オーキッドが、最適な選択肢を提示してくれるので」

 ヒロシは、頷いた。

「そうだね、ユウキ。オーキッドは、確かに最適な選択肢を提示してくれる。でも、それは本当に『自由』なのだろうか?」

 別の学生——アイコ(19)——が、答えた。

「自由とは、正しい選択ができることです。オーキッドは、私たちに正しい選択を教えてくれます。だから、私たちは自由です」

 ヒロシは、しばらく黙っていた。

 そして、言った。

「では、もし——オーキッドが間違っていたら?」

 教室が、静まり返った。

 学生たちは、ヒロシを見つめた。

 その目には、困惑と——微かな恐怖があった。

 ユウキが、小さく言った。

「先生……オーキッドは、間違えません」

「なぜ、そう言えるの?」

「なぜなら、オーキッドは完璧だからです。99.8%の精度で、正しい判断をします」

「でも、残りの0.2%は?」

 ユウキは、答えられなかった。

 ヒロシは、続けた。

「みんな、考えてみて。もし、オーキッドが間違っていた場合——私たちは、それに気づくことができるだろうか?」

 アイコが、答えた。

「先生、それは……危険な考え方です」

「危険? なぜ?」

「オーキッドを疑うことは、社会の安定を脅かします。私たちは、システムを信じなければなりません」

 ヒロシは、深呼吸をした。

 そして、決意を固めた。

「アイコ、君の言う通り、これは危険な考え方かもしれない。でも、哲学とは、危険な問いを投げかけることなんだ。プラトンも、ソクラテスも、カントも——彼らは、当時の『常識』に疑問を投げかけた。それが、思考の自由だ」

 ヒロシは、ホワイトボードに別の問いを書いた。

『オーキッドのない世界を、想像できるか?』

 学生たちは、沈黙した。

 誰も、答えなかった。

 なぜなら——

 彼らは、オーキッドのない世界を、想像できなかったからだ。

 ヒロシは、それを見て——

 悲しみを感じた。

 そして、気づいた。

 自分は、今日——

 一線を越えてしまったのだと。

* * *

 授業が終わると、ヒロシは研究室に戻った。

 だが、数分後——

 ドアがノックされた。

「ヒロシ先生、少しお話があります」

 それは、学部長のサトウ(58)だった。

 ヒロシは、嫌な予感がした。

「何でしょうか?」

 サトウは、深刻な表情を浮かべた。

「ヒロシ先生、今日の授業について、学生から報告がありました」

「報告……?」

「はい。あなたが、『オーキッドに疑問を持つべきだ』と教えたと」

 ヒロシは、否定しなかった。

「そうです。私は、学生に批判的思考を教えました。それが、哲学の役割です」

 サトウは、ため息をついた。

「ヒロシ先生、あなたの気持ちは分かります。でも、それは……今の時代には、合わないんです」

「合わない?」

「オーキッドは、社会の基盤です。それに疑問を持つことは、社会不安を招きます」

「でも、疑問を持つことは——」

「危険です」

 サトウは、スマートフォンを見せた。

 画面には、ヒロシの「精神状態分析」が表示されていた。

『ヒロシ(42歳):精神状態評価


システムへの過度な疑念:高リスク

反社会的思考パターン:検出

精神疾患の可能性:87%

推奨措置:カウンセリング、必要に応じて医療介入』


 ヒロシは、愕然とした。

「これは……何ですか?」

「オーキッドの健康管理AIが、あなたの授業内容を分析しました。そして、あなたが『精神的に不安定』だと判定しました」

「不安定? 私は、ただ哲学を教えただけです!」

「ヒロシ先生、落ち着いてください。これは、あなたを責めているわけではありません。あなたは、病気なんです」

「病気……?」

「そうです。『システム疑念症候群』という精神疾患です。最近、増えています」

 ヒロシは、信じられなかった。

 システムに疑問を持つことが——

 病気として定義されている。

 サトウは、続けた。

「ヒロシ先生、あなたのために言います。今すぐ、カウンセリングを受けてください。そうすれば、治ります」

「治る……?」

「はい。薬物療法と、認知行動療法で、あなたの思考パターンを『正常化』できます」

 ヒロシは、震えた。

 これは——

 これは、思想統制だ。

 だが、サトウは——

 本気で、ヒロシのためを思って言っているようだった。

 その善意が——

 ヒロシには、何よりも恐ろしかった。

* * *

 その夜、ヒロシは妻のマユミ(40)に相談した。

「マユミ、今日、大学で——」

 だが、マユミは話を遮った。

「ヒロシ、私も聞いたわ。あなたが、授業で危険なことを教えたって」

「危険……?」

「オーキッドに疑問を持てって、学生に教えたんでしょ?」

「それは、哲学の基本だ。批判的思考を——」

「ヒロシ、やめて」

 マユミは、涙を浮かべた。

「私、心配なの。あなた、最近おかしいわ」

「おかしい? 俺は、正常だ」

「そう思ってるのが、おかしいのよ。オーキッドが、あなたを『精神疾患』だって言ってるの。それを、素直に受け入れて」

 ヒロシは、妻を見つめた。

 妻の目には——

 本当の心配があった。

 だが、その心配は——

 ヒロシを「病人」として見る心配だった。

「マユミ、俺は病気じゃない」

「ヒロシ、お願い。カウンセリングを受けて。このままじゃ、あなたは——」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 ヒロシが扉を開けると——

 そこには、二人の警察官が立っていた。

「ヒロシさんですね。少し、お話があります」

* * *

 警察官の一人——タナカ(35)——が、穏やかな声で言った。

「ヒロシさん、私たちは、あなたを逮捕しに来たのではありません。ただ、あなたの健康を心配しているんです」

「健康……?」

「はい。オーキッドから、あなたが『精神的に不安定』だという報告を受けました。それで、病院に行っていただきたいんです」

 ヒロシは、拒否した。

「いえ、結構です。私は、病気ではありません」

 もう一人の警察官——ヤマダ(42)——が、優しく言った。

「ヒロシさん、分かります。誰も、自分が病気だとは認めたくないですよね。でも、これは、あなたのためなんです」

「私のため?」

「そうです。このまま放置すると、あなたの症状は悪化します。家族にも、社会にも、迷惑をかけることになります」

 マユミが、警察官に頼んだ。

「お願いします。夫を、病院に連れて行ってください」

 ヒロシは、妻を見た。

「マユミ……お前も?」

「ヒロシ、これは、あなたのためよ」

 タナカが、ヒロシの腕を掴んだ。

「ヒロシさん、抵抗しないでください。あなたを傷つけたくありません」

 ヒロシは、抵抗しようとした。

 だが、ヤマダが、もう片方の腕を掴んだ。

 そして——

 二人は、ヒロシを外に連れ出した。

 マユミは、泣いていた。

 だが、その涙は——

 「夫を助けてくれてありがとう」という、感謝の涙だった。

* * *

 病院に到着すると、ヒロシは精神科の診察室に連れて行かれた。

 医者——ドクター・コバヤシ(50)——が、優しく微笑んだ。

「ヒロシさん、こんばんは。私は、あなたの担当医です」

「担当医? 俺は、病気じゃない」

「ヒロシさん、落ち着いてください。あなたは、『システム疑念症候群』という病気です」

「そんな病気、聞いたこともない」

「最近、定義されたばかりです。症状は、オーキッドへの過度な疑念、社会システムへの不信、反社会的思考パターンです」

 ヒロシは、怒りが込み上げてきた。

「それは、病気じゃない! ただの批判的思考だ!」

 コバヤシは、首を横に振った。

「ヒロシさん、批判的思考と、病的な疑念は違います。あなたの場合、後者です」

「なぜ、そう言える?」

「データです」

 コバヤシは、モニターを見せた。

 画面には、ヒロシの「思考パターン分析」が表示されていた。

『ヒロシの思考パターン:


システムへの疑念頻度:通常の15倍

反権威的言動:通常の8倍

社会規範からの逸脱:高リスク

精神疾患確率:87%』


 コバヤシは、説明した。

「ヒロシさん、あなたの脳波、言動、行動パターン——すべてが、『異常』を示しています。これは、病気です」

「異常じゃない! 俺は、ただ自分の頭で考えているだけだ!」

「それが、病気の症状なんです」

 コバヤシは、真剣な表情で続けた。

「ヒロシさん、分かってください。昔は、あなたのような考え方は『正常』だったかもしれません。でも、今は違います。オーキッドの時代において、システムに疑問を持つことは、適応障害の一種なんです」

 ヒロシは、何も言えなかった。

 コバヤシは、注射器を取り出した。

「これから、治療を始めます。まず、精神安定剤を投与します」

「待て! 俺は、拒否する!」

「ヒロシさん、これは、あなたのためです」

 タナカとヤマダが、ヒロシを押さえつけた。

 ヒロシは、必死に抵抗した。

 だが、二人の力は強かった。

 コバヤシが、注射針をヒロシの腕に刺した。

 数秒後——

 ヒロシの体から、力が抜けていった。

 意識が、遠のいていく。

 最後に聞こえたのは——

 コバヤシの優しい声だった。

「大丈夫です、ヒロシさん。すぐに、良くなりますよ」

* * *

 ヒロシが目を覚ました時、彼は白い部屋にいた。

 ベッド、椅子、小さな窓——それだけの部屋。

 ドアには、外から鍵がかけられていた。

 ヒロシは、立ち上がろうとした。

 だが、体が重かった。

 薬の影響だろう。

 窓の外を見ると——

 灰色の空があった。

 だが、ARフィルターは、それを青空に変換していた。

 ヒロシは、左耳のデバイスを外そうとした。

 だが——

 外れなかった。

 デバイスは、ヒロシの皮膚に癒着していた。

 そして、そのデバイスから——

 規則正しく、電子音が響いていた。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 ヒロシは、理解した。

 自分は、完全に閉じ込められている。

 物理的にも、精神的にも。

* * *

 数日後、コバヤシが診察にやってきた。

「ヒロシさん、調子はどうですか?」

 ヒロシは、何も答えなかった。

 コバヤシは、続けた。

「薬の効果は、順調です。あなたの『システムへの疑念』は、65%減少しました」

「……」

「もう少しで、完治します。その後は、社会復帰できます」

 ヒロシは、小さく呟いた。

「完治……? 俺の何が、治るんだ?」

 コバヤシは、優しく微笑んだ。

「あなたの病気です。『システム疑念症候群』が治ります」

「それは、病気じゃない……」

「ヒロシさん、まだそんなことを言っているんですか?」

 コバヤシは、ため息をついた。

「分かりました。では、別の治療法を試しましょう」

 コバヤシは、看護師を呼んだ。

 看護師が、機械を持ってきた。

 それは、ヘルメットのような形をしていた。

「これは、『認知再構成装置』です。あなたの脳波を調整し、思考パターンを『正常化』します」

 ヒロシは、恐怖を感じた。

「やめろ……それは、洗脳だ……」

「洗脳ではありません。治療です」

 コバヤシは、ヘルメットをヒロシの頭に装着しようとした。

 ヒロシは、抵抗した。

 だが、看護師たちが、彼を押さえつけた。

 ヘルメットが、装着された。

 スイッチが入った。

 ヒロシの頭の中に——

 何か が流れ込んできた。

 それは、声だった。

 優しく、穏やかな声。

『あなたは、安全です』

『オーキッドは、正しいです』

『システムを信じなさい』

『疑問を持つことは、危険です』

『あなたは、治ります』

 ヒロシは、抵抗しようとした。

 だが、声は止まらなかった。

 何時間も、何時間も——

 同じ言葉が、繰り返された。

 ヒロシの思考は、次第に曖昧になっていった。

 自分が——

 何を考えていたのか——

 何を信じていたのか——

 わからなくなっていった。

* * *

 1週間後、ヒロシは退院した。

 妻のマユミが、迎えに来た。

「ヒロシ、よかった。治ったのね」

 ヒロシは、微笑んだ。

「ああ、治ったよ」

「もう、変なことは考えない?」

「考えない。オーキッドは、正しい」

 マユミは、安心した表情を浮かべた。

「よかった。本当に、よかった」

 ヒロシは、妻の手を握った。

 その手は、温かかった。

 だが、ヒロシの心は——

 冷たかった。

 いや、「冷たい」という感覚すら——

 もう、なかった。

* * *

 翌週、ヒロシは大学に復帰した。

 学生たちは、彼を歓迎した。

「先生、おかえりなさい!」

 ヒロシは、笑顔で答えた。

「ただいま。みんな、待たせたね」

 授業が始まった。

 ヒロシは、ホワイトボードに問いを書いた。

『オーキッドは、なぜ正しいのか?』

 学生たちは、笑顔で答えた。

「オーキッドは、完璧だからです」

 ヒロシは、頷いた。

「その通り。オーキッドは、完璧だ。だから、私たちは信じなければならない」

 学生たちは、満足そうだった。

 ヒロシは、授業を続けた。

 システムの素晴らしさを説明し、疑問を持つことの危険性を教えた。

 かつて、ヒロシが否定していたことを——

 今は、熱心に教えていた。

 授業が終わると、学部長のサトウが声をかけた。

「ヒロシ先生、素晴らしい授業でした。完全に回復されましたね」

 ヒロシは、微笑んだ。

「はい、おかげさまで」

「よかった。本当に、よかった」

 サトウは、安心した表情で去っていった。

 ヒロシは、研究室に戻った。

 そして——

 一人になった時——

 ヒロシは、鏡を見た。

 鏡の中の自分は——

 笑顔だった。

 だが、その目は——

 空っぽだった。

 ヒロシは、小さく呟いた。

「俺は……誰だ……?」

 だが、その疑問すら——

 すぐに消えた。

 なぜなら、左耳のデバイスが——

 ヒロシの思考を、リアルタイムで監視していたからだ。

 そして、「疑問」が生まれた瞬間——

 それを消去していたからだ。

 ヒロシは、再び笑顔になった。

「俺は、ヒロシだ。哲学教師だ。オーキッドは、素晴らしい」

 それが——

 「治療された」ヒロシの、新しい現実だった。

* * *

 その夜、ヒロシは日記を書いた。

 かつて、彼は毎日日記を書いていた。

 自分の考えを整理するために。

 だが、今日の日記は——

 いつもと違っていた。

『今日も、良い一日だった。学生たちに、オーキッドの素晴らしさを教えた。彼らは、よく理解してくれた。私は、幸せだ。オーキッドのおかげで、私は正しい道を歩んでいる』

 ヒロシは、その文章を読み返した。

 そして——

 微かな違和感を覚えた。

 これは、本当に自分が書いた文章なのだろうか?

 自分は、本当にこう思っているのだろうか?

 だが、その疑問は——

 1秒後には、消えた。

 左耳のデバイスが——

 それを消去したからだ。

 ヒロシは、日記を閉じた。

 そして、ベッドに入った。

 窓の外には、灰色の空があった。

 だが、ARは、それを——

 美しい星空に変換していた。

 存在しない星空。

 存在しない自由。

 存在しない自分。

 ヒロシは、眠りについた。

 そして、夢を見た。

 夢の中で——

 ヒロシは、学生たちに叫んでいた。

「疑え! システムを疑え! 自分の頭で考えろ!」

 だが、学生たちは——

 ヒロシを見て、笑っていた。

「先生、病気ですよ」

 ヒロシは、目を覚ました。

 汗が、額を伝っていた。

 ヒロシは、自分の胸に手を当てた。

 心臓が、激しく鼓動していた。

 だが、その鼓動すら——

 オーキッドは、監視していた。

 そして、「異常な心拍」を検知すると——

 自動的に、鎮静剤を投与した。

 ヒロシの体から、力が抜けていった。

 そして、再び——

 深い、深い眠りに落ちていった。

 夢のない、深い眠りに。

 完璧なシステムだった。

 疑問を持つことすら——

 許されない。

 そして、誰もが——

 それを「善意」だと信じている。

 あなたのため。

 社会のため。

 みんなのため。

 その言葉の下で——

 思考の自由は——

 静かに、完全に——

 消滅していった。

(第9話 終)

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