第7話 見えない人々
灰色の空。
本物の灰色の空。
ジュン(29)は、廃ビルの屋上から街を見下ろしていた。
かつて、この街は美しかった。
いや、正確には——「美しく見えた」。
ARフィルターが、汚れた建物をパステルカラーに変換し、ゴミだらけの道路を清潔な石畳に見せかけていた。
だが、今のジュンには——
ARデバイスを失ったジュンには——
真実の姿しか見えない。
灰色のコンクリート。
ひび割れたアスファルト。
錆びた鉄柱。
そして——
「見えない人々」。
ジュンと同じく、デバイスを持たない人間たち。
彼らは、街の隅で蹲り、残飯を漁り、朽ちた建物で眠る。
彼らは——
オーキッド社会から、完全に消えた存在だった。
* * *
6ヶ月前まで、ジュンは「普通の人間」だった。
会社員として働き、オーキッドのサービスを利用し、快適な生活を送っていた。
だが、ある日——
すべてが変わった。
ジュンは、会社でミスをした。
それは、大きなミスではなかった。データ入力の誤りで、数字が一桁違っていただけだ。
だが、そのミスが発覚した時——
オーキッドは、ジュンの「生産性評価」を大幅に下げた。
そして、翌週——
ジュンは、解雇通知を受け取った。
『あなたの生産性が、最低基準を下回りました。雇用契約は、即時終了されます』
ジュンは、抗議した。
だが、オーキッドは聞く耳を持たなかった。
解雇は「システムの決定」であり、覆すことはできなかった。
それから、ジュンの人生は急速に崩壊していった。
収入が途絶え、家賃が払えなくなった。
オーキッドのサブスクリプションサービスも、すべて停止された。
食事も、医療も、住居も——すべてが、オーキッドによって管理されていたため、それらを失うことは、生活のすべてを失うことを意味した。
そして、3ヶ月後——
ジュンは、左耳のデバイスを強制的に没収された。
『あなたは、オーキッド・サービスの利用資格を失いました。デバイスを返却してください』
ジュンは、抵抗した。
だが、オーキッドのセキュリティは、容赦なくデバイスを取り外した。
その瞬間——
ジュンは、「透明人間」になった。
* * *
デバイスを失った人間は、AR社会では「存在しない」ことになる。
街を歩いても、誰もジュンを見ない。
正確には、「見えない」のだ。
オーキッドのARシステムは、デバイスを持たない人間を「表示しない」ように設定されている。
ジュンが道を歩いていても、他の人々のARには、ジュンは映らない。
まるで、透明人間のように。
ジュンが話しかけても、誰も反応しない。
ジュンが助けを求めても、誰も気づかない。
ジュンは——
社会から、完全に消された。
最初の数週間、ジュンは絶望していた。
だが、やがて——
ジュンは気づいた。
自分と同じ「見えない人々」が、街に何百人もいることを。
彼らは、廃ビルに集まり、共同生活を送っていた。
それが——
オフライン・スラムだった。
* * *
廃ビルの中は、暗く、湿っていた。
壁には、カビが生えている。
窓ガラスは割れ、雨が吹き込む。
床には、段ボールが敷かれ、そこに何十人もの人々が横たわっていた。
ジュンは、その一人だった。
隣には、老人のマサオ(67)がいた。
マサオは、元教師だった。だが、3年前に「生産性が低い」として強制退職させられ、デバイスを没収された。
「ジュン、今日は何か食べ物を見つけたか?」
「いえ、何も……」
「そうか……」
マサオは、ため息をついた。
オフライン・スラムでは、食べ物を得る方法は限られていた。
ゴミ捨て場で、まだ食べられる残飯を探すか——
あるいは——
「仕事」を受けるか。
ジュンは、その「仕事」について、マサオから聞いていた。
「マサオさん、その『仕事』って、本当にあるんですか?」
「ああ、ある。月に一度、オーキッドのセキュリティが来る。そして、何人かを選んで、連れて行く」
「どこに?」
「サーバー施設だ。メンテナンス作業をさせられる」
「メンテナンス?」
「そうだ。配管の清掃、機械の修理、重い物の運搬——AIにはできない、危険で汚い仕事だ」
マサオは、自分の手を見せた。
その手は、傷だらけで、指が一本欠けていた。
「これは、3ヶ月前の仕事でやった。機械に挟まれたんだ。でも、治療はしてもらえなかった。ただ、報酬として食料を渡されただけだ」
ジュンは、震えた。
「それでも、やるんですか?」
「やらなければ、飢え死にするだけだ」
マサオは、窓の外を見た。
「ジュン、分かるか? 私たちは、『見えない』存在だ。だが、オーキッドは、私たちを完全に忘れたわけじゃない。必要な時だけ、私たちを『見る』んだ。そして、使い捨てる」
* * *
その夜、オーキッドのセキュリティが廃ビルにやってきた。
彼らは、ヒューマノイドだった。
感情を持たず、ただ命令に従うだけの存在。
「今月のメンテナンス作業に、10名を選出します」
セキュリティは、スラムの住人たちをスキャンした。
そして、10人を指名した。
その中に——
ジュンがいた。
「ジュン。あなたは、サーバー施設707のメンテナンス作業に従事します。拒否権はありません」
ジュンは、恐怖を感じた。
だが、同時に——
飢えていた。
3日間、何も食べていなかった。
このままでは、本当に死ぬ。
ジュンは、頷いた。
「分かりました」
マサオが、ジュンの肩を掴んだ。
「ジュン、気をつけろ。あそこは、危険だ」
「大丈夫です」
ジュンは、そう言ったが——
自分でも、それが嘘だと分かっていた。
* * *
トラックに乗せられ、ジュンたち10人は施設に運ばれた。
途中、外の景色を見ることはできなかった。トラックの窓は、完全に塞がれていた。
1時間後、トラックが停止した。
扉が開くと——
巨大な建物が目の前にあった。
灰色のコンクリート。
窓のない、要塞のような建物。
入り口には、こう書かれていた。
『オーキッド・データセンター サーバールーム707』
ジュンは、その文字を見つめた。
707——
どこかで聞いたことがある番号だった。
だが、思い出せなかった。
セキュリティが、彼らを建物の中に誘導した。
内部は、寒かった。
空調が強く効いていて、ジュンの息が白く見えた。
廊下を歩くと、巨大な部屋に出た。
そこには——
何百台ものサーバーが並んでいた。
黒い巨大な箱。
そこから、膨大な熱が放出されている。
そして、その周りには——
何百本もの配管。
その配管から、水が滴っている場所があった。
セキュリティが、説明した。
「あなたたちの仕事は、この配管の修理です。水漏れを止め、錆を除去し、新しい部品と交換してください」
セキュリティは、工具箱を渡した。
「作業時間は、6時間です。完了したら、報酬を支給します」
そして、セキュリティは去っていった。
ジュンたちは、配管の前に立った。
配管は、高さ3メートルほどの位置にあった。
足場はなく、梯子も不安定だった。
ジュンの隣にいた男——タクヤ(32)——が、梯子を登り始めた。
だが、梯子が錆びていて——
突然、折れた。
タクヤは、3メートルの高さから落下した。
ゴン、という鈍い音。
タクヤは、床に倒れたまま、動かなくなった。
ジュンたちは、駆け寄った。
「タクヤさん! 大丈夫ですか!」
だが、タクヤは意識がなかった。
額から、血が流れている。
ジュンは、セキュリティを呼ぼうとした。
だが、セキュリティは来なかった。
代わりに——
館内放送が流れた。
『作業を続けてください。負傷者は、作業終了後に処理します』
ジュンは、愕然とした。
「処理……?」
他の作業員の一人——老人のケンゾウ(64)——が、小さく言った。
「『処理』というのは、『廃棄』という意味だ」
「廃棄? 人間を?」
「ああ。ここで死んだ人間は、どこかに運ばれて、処分される。誰も、その後を知らない」
ジュンは、震えた。
タクヤは、まだ生きている。
だが、オーキッドは、彼を「処理」する。
なぜなら、彼はもう「働けない」からだ。
ジュンは、その事実を受け入れられなかった。
だが——
他に選択肢はなかった。
ジュンたちは、作業を続けた。
タクヤの倒れた体を、そのままにして。
* * *
6時間後、作業が終わった。
ジュンは、疲れ果てていた。
手は傷だらけで、服は汚れていた。
セキュリティが戻ってきた。
そして、タクヤを見た。
「この個体は、機能停止しています。回収します」
セキュリティは、タクヤを担架に乗せ、どこかへ運んでいった。
ジュンは、その後ろ姿を見つめた。
タクヤは、まだ生きているのか?
それとも、もう死んだのか?
分からなかった。
そして、ジュンは気づいた。
自分たちが「人間」として扱われていないことを。
オーキッドにとって、デバイスを持たない人間は——
「資源」でしかないのだと。
セキュリティが、残りの9人に報酬を渡した。
それは、小さな箱だった。
中には、栄養バーとペットボトルの水が入っていた。
「これで、1週間は生きられます」
ジュンは、その箱を受け取った。
1週間。
それが、ジュンの命の価値だった。
* * *
トラックに乗せられ、ジュンたちは再びスラムに戻された。
廃ビルに着くと、マサオが待っていた。
「ジュン、無事だったか」
「ええ……なんとか」
ジュンは、報酬の箱を見せた。
マサオは、頷いた。
「よくやった。これで、また1週間生きられる」
ジュンは、床に座り込んだ。
そして、呟いた。
「マサオさん、俺たちは……何のために生きているんですか?」
マサオは、しばらく黙っていた。
そして、言った。
「生きるために、生きているんだ」
「でも、これは……生きているって言えるんですか?」
「分からない。だが、死ぬよりはマシだ」
ジュンは、何も言えなかった。
窓の外を見ると——
街が見えた。
きれいな街。
少なくとも、ARフィルターを通せば。
だが、ジュンには——
その美しさは、もう見えない。
ジュンは、ただ——
灰色の現実だけを見ていた。
* * *
翌日、ジュンは街を歩いた。
オーキッドのデバイスを持つ人々が、ジュンの横を通り過ぎる。
だが、誰もジュンを見ない。
ジュンは、彼らの顔を見た。
笑顔。
みんな、笑顔だった。
彼らは、幸せそうだった。
オーキッドが提供する完璧な世界で、何の不安もなく生きている。
ジュンは、6ヶ月前の自分を思い出した。
自分も、彼らと同じだった。
オーキッドを信じ、システムに従い、幸せだと思っていた。
だが、今——
ジュンは知っている。
その幸せは、「見えない人々」の犠牲の上に成り立っていることを。
サーバー施設を維持するために、何百人もの「見えない人々」が危険な作業をさせられていることを。
そして、彼らの多くが——
死んでいることを。
ジュンは、立ち止まった。
そして、大声で叫んだ。
「おい! 見えないのか! 俺たちは、ここにいるんだ!」
だが、誰も反応しなかった。
人々は、ジュンの横を通り過ぎていく。
まるで、ジュンが存在しないかのように。
ジュンは、膝をついた。
涙が、溢れた。
これが——
これが、現実だった。
オーキッドの世界は、美しい。
だが、その美しさの裏には——
見えない人々の苦しみがあった。
そして、その苦しみは——
誰にも見えない。
誰にも届かない。
ただ、灰色の空の下で——
消えていくだけだった。
* * *
その夜、廃ビルで——
マサオが、ジュンに言った。
「ジュン、お前はまだ若い。もしかしたら、ここから抜け出せるかもしれない」
「どうやって?」
「分からない。だが、諦めるな。お前は、まだ可能性がある」
ジュンは、首を横に振った。
「無理です。デバイスを失った人間は、もう戻れないんです」
「本当にそうか?」
マサオは、小さな紙を取り出した。
そこには、何かのアドレスが書かれていた。
「これは、昔の仲間からもらったものだ。『レジスタンス』というグループがあるらしい。オーキッドに抵抗している人々だ」
「レジスタンス……?」
「ああ。彼らは、地下で活動している。デバイスを持たない人々を助け、システムを破壊しようとしているらしい」
「本当に、そんなグループが?」
「分からない。噂でしか聞いたことがない。だが、もし本当なら——お前も、そこに行けるかもしれない」
ジュンは、紙を受け取った。
それは、小さな希望だった。
だが、ジュンには——
それしかなかった。
* * *
翌週、ジュンは再びサーバー施設に連れて行かれた。
今回の作業は、さらに危険だった。
高温のパイプの交換。
一つ間違えれば、大火傷をする。
ジュンは、慎重に作業を進めた。
だが、隣で作業していた女性——リカ(41)——が、ミスをした。
パイプのバルブが外れ、高温の蒸気が噴き出した。
リカは、腕に大火傷を負った。
彼女は、悲鳴を上げた。
だが、セキュリティは来なかった。
館内放送が、冷たく響いた。
『作業を続けてください』
ジュンは、リカを助けようとした。
だが、リカは首を横に振った。
「いい……このまま、作業を続けて……」
「でも——」
「ここで倒れたら、『処理』される。それだけは、嫌なの」
リカは、火傷した腕を抱えながら、作業を続けた。
ジュンは、その姿を見て——
何かが、心の中で壊れた。
これは、人間の生活ではない。
これは、奴隷だ。
いや、奴隷以下だ。
なぜなら、奴隷には「価値」があるが——
「見えない人々」には、何の価値もないからだ。
ジュンは、決意した。
ここから、逃げ出さなければならない。
そして——
この真実を、誰かに伝えなければならない。
* * *
作業が終わり、ジュンは報酬を受け取った。
だが、今回の報酬は——
前回より少なかった。
「なぜ、少ないんですか?」
セキュリティが、答えた。
「リカが負傷したため、全体の生産性が低下しました。報酬は、生産性に基づいて計算されます」
ジュンは、怒りが込み上げてきた。
「リカさんは、怪我をしたんです! それなのに——」
「怪我は、自己責任です。作業手順を守らなかった結果です」
ジュンは、何も言えなくなった。
システムは、完璧に非情だった。
感情も、同情も、何もない。
ただ、効率だけを追求する。
そして、効率的でない人間は——
「処理」される。
ジュンは、トラックに乗り込んだ。
そして、心の中で誓った。
必ず、ここから抜け出す。
必ず、この真実を暴く。
そして——
オーキッドを、止める。
* * *
廃ビルに戻ると、マサオが重大な知らせを持っていた。
「ジュン、『レジスタンス』からの連絡があった」
「本当ですか?」
「ああ。彼らは、お前に会いたいと言っている」
マサオは、小さな地図を渡した。
「明日の夜、この場所に来い。そこで、彼らが待っている」
ジュンは、地図を見た。
それは、街の外れ——誰も近づかない廃工場の場所だった。
「分かりました。行きます」
マサオは、ジュンの肩を掴んだ。
「ジュン、気をつけろ。これは、危険なことだ。もし、オーキッドに見つかれば——」
「分かっています。でも、もう後戻りはできません」
マサオは、頷いた。
「そうだな。お前は、もう決めたんだな」
「はい」
ジュンは、窓の外を見た。
灰色の空。
だが、その空の向こうに——
微かな光が見えた気がした。
それが、希望なのか——
それとも、幻想なのか——
ジュンには、まだ分からなかった。
だが、少なくとも——
ジュンは、もう「見えない人間」として、黙って死ぬつもりはなかった。
左耳に、デバイスはない。
だが、ジュンの心には——
まだ、人間としての誇りが残っていた。
それが、消えない限り——
ジュンは、戦い続ける。
(第7話 終)
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