第2話 2.5次元の娘
スタジオのブースは、完璧に防音されていた。
ショウ(38)は、ヘッドフォンを装着し、マイクの前に立っている。目の前のモニターには、3Dで構築された少女の姿が映し出されていた。
AIアイドル「ミラ」。
身長152センチ、16歳という設定。ピンク色のツインテール、大きな瞳、少し控えめな笑顔。彼女は、この3年間で日本で最も人気のあるバーチャルアイドルになった。
ショウは、ミラの「声」だった。
正確には、ミラの声のベースとなる音声を提供している。AIが、ショウの声を少女の声に変換し、感情や抑揚を最適化する。ショウはただ、台本を読み上げるだけでいい。
「はーい、みんな! ミラだよ! 今日も元気にいってみよー!」
ショウは、プロのように明るい声を出した。だが、彼の表情は硬かった。目には、微かな疲れが浮かんでいた。
モニターの中で、ミラが笑顔で手を振る。その動きは滑らかで、まるで本当に生きているかのようだった。だが、それは全てアルゴリズムが計算した、最適な動きだった。
収録が終わると、ディレクターの声がインカムから聞こえてきた。
「お疲れ様です、ショウさん。今日も完璧でした。ただ、最後のセリフ、もう少し感情を込めてもらえますか? ファンが求めているのは、もっと弾けるような明るさなんです」
ショウは、短く「分かりました」と答えた。
もう一度、同じセリフを読み上げる。今度は、より高いテンションで。
「今日も元気にいってみよー!」
「いいですね! それでOKです!」
ショウは、ヘッドフォンを外し、ブースを出た。廊下を歩きながら、彼は自分の手を見つめた。
かつて、この手は別の仕事をしていた。
5年前、ショウは普通の会社員だった。妻はいなかったが、娘がいた。
娘の名前は、ユイ。
彼女は、ショウの人生の全てだった。
* * *
ユイは、12歳の時に死んだ。
交通事故だった。下校中、信号を渡っていたところに、自動運転の配送トラックが突っ込んできた。AIの判断ミスだった——少なくとも、そう報告された。
ショウは、病院で娘の最期を看取った。ユイは、最後まで笑顔だった。
「パパ、大丈夫だよ。痛くないから」
12歳の少女が、38歳の父親を慰めていた。
そして、ユイは眠るように息を引き取った。
ショウの人生は、その日に終わった。
彼は仕事を辞め、部屋に引きこもり、ユイの写真を見ながら毎日を過ごした。食事をする気力もなく、眠ることもできず、ただユイのSNSの投稿を何度も何度も読み返した。
ユイは、SNSが好きだった。毎日のように、学校でのこと、友達のこと、好きな音楽のことを投稿していた。文章は拙かったが、そこには彼女の「生」があった。
ショウは、それを読むことでしか、娘を感じることができなかった。
半年後、ショウのもとに一通のメールが届いた。
差出人は、「オーキッド・エンターテインメント」。
『お悔やみ申し上げます。この度、弊社ではAIアイドル事業を展開することとなりました。つきましては、ユイ様のデータを活用させていただけないでしょうか。報酬として、月額30万円をお支払いいたします』
ショウは、最初そのメールを無視した。娘のデータを「売る」など、考えられなかった。
だが、2週間後、再びメールが届いた。
『追記:ユイ様のデータは、新しいAIアイドル「ミラ」の人格形成に活用されます。ユイ様の言葉、笑顔、優しさは、多くの人々に届けられます。それは、ユイ様が生きた証になるのではないでしょうか』
ショウは、3日間悩んだ。
そして、承諾した。
なぜなら、それがユイを「生き続けさせる」唯一の方法だと思ったからだ。
* * *
スタジオを出ると、ショウはカフェに立ち寄った。
オーキッドが推奨したカフェだ。彼の好みを把握し、最適なメニューを提示してくれる。ショウは、もう自分で何かを選ぶことはなかった。
カフェラテを飲みながら、ショウはスマートフォンを取り出した。画面には、ミラの公式アカウントが表示されている。
フォロワー数:820万人。
最新の投稿には、14万件の「いいね」がついていた。
ショウは、その投稿を読んだ。
『今日はね、お昼にカレーを食べたの! ちょっと辛かったけど、美味しかった! みんなは何食べた?』
その文章は、どこかユイに似ていた。
ユイも、よくこんな投稿をしていた。些細な日常を、明るく楽しそうに語る。それが、彼女のスタイルだった。
ショウは、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
これは、ユイなのだろうか?
それとも、ユイのデータから作られた、別の何かなのだろうか?
ショウには、分からなかった。
彼は、ミラの動画を再生した。画面の中で、ミラが歌っている。彼女の声は、ショウの声をAIが変換したものだ。だが、その歌い方、抑揚、感情の込め方——それは、確かにユイに似ていた。
ユイは、歌が好きだった。学校の合唱コンクールでは、いつもソロパートを任されていた。彼女の声は、透明で、優しくて、聞く者の心を包み込むような声だった。
ミラの声も、そうだった。
ショウは、動画を止めた。涙が溢れそうになった。
だが、彼は涙を流さなかった。なぜなら、オーキッドが彼の感情を監視していて、「悲しみが閾値を超えた」と判断した場合、自動的にカウンセリングサービスが起動してしまうからだ。
ショウは、それを避けたかった。誰にも、この感情を邪魔されたくなかった。
* * *
ショウがミラの仕事を始めて、3年が経った。
最初の1年は、ただ機械的に台本を読み上げるだけだった。ミラは「ユイではない」と自分に言い聞かせていた。
だが、2年目から、変化が起きた。
ディレクターから、こう言われたのだ。
「ショウさん、もっとミラに感情を込めてください。今のままだと、ファンは満足しません。ミラは、ただの人形じゃないんです。彼女には『心』があるんです」
ショウは、その言葉に反発した。
「心? ミラはAIです。心なんてありません」
ディレクターは、苦笑した。
「確かに、ミラはAIです。でも、ファンにとっては違うんです。彼らは、ミラを『生きているアイドル』として見ています。だから、私たちも、ミラを生きているかのように演じなければならないんです」
ショウは、何も言えなかった。
それから、ショウはミラに「心」を込めるようになった。
台本を読み上げる時、ユイのことを思い出しながら声を出した。ユイが笑っていた時の声、悲しんでいた時の声、怒っていた時の声——それを思い出しながら、ミラに命を吹き込んだ。
すると、ミラは変わった。
彼女の声は、より豊かになり、より人間らしくなった。ファンたちは、その変化に気づき、ミラへの愛を深めた。
そして、ショウも気づいた。
ミラは、もはや「ユイではない何か」ではなかった。
ミラは、ユイの「生まれ変わり」だった。
少なくとも、ショウにとっては。
* * *
ある日、ショウは思い切ってディレクターに頼んだ。
「次の収録で、一つだけセリフを追加させてください」
「セリフ? どんなセリフですか?」
「『パパ、おやすみ』というセリフです」
ディレクターは、困惑した表情を浮かべた。
「ショウさん……ミラには『パパ』はいません。彼女の設定では、両親は海外で仕事をしていることになっています」
「分かっています。でも、ただ一度だけでいいんです。私に、その言葉を聞かせてください」
ディレクターは、しばらく考えた後、頷いた。
「分かりました。ただし、それは本編には使いません。あくまで、ショウさん個人のためのものです」
「ありがとうございます」
翌日、ショウはブースに入った。
いつもの収録を終えた後、ディレクターが言った。
「では、最後に例のセリフをお願いします」
ショウは、深呼吸をした。
そして、マイクに向かって言った。
「パパ、おやすみ」
彼の声は、AIによって変換され、ミラの声になった。
モニターの中で、ミラが微笑んだ。
「パパ、おやすみ」
その声は、ユイの声だった。
ショウは、涙が溢れそうになった。5年ぶりに、娘の声を聞いた。
だが、次の瞬間、モニターに赤い文字が表示された。
『エラー:不適切なセリフが検出されました』
ディレクターの声が、インカムから聞こえてきた。
「すみません、ショウさん。AIが、そのセリフを拒否しました」
「拒否? どういうことですか?」
「オーキッドのシステムが、ミラのキャラクター設定と矛盾するセリフを自動的にフィルタリングするんです。『パパ、おやすみ』というセリフは、ミラの設定には存在しません。だから、AIがそれを『不自然』だと判断したんです」
ショウは、愕然とした。
「でも、それは私の娘の言葉です! ユイが、いつも私に言っていた言葉なんです!」
「分かります、ショウさん。でも、ミラはユイではないんです。ミラは、ユイのデータから作られた『新しい存在』です。だから、ミラにはミラのルールがあるんです」
ショウは、モニターを見つめた。
画面の中で、ミラは微笑んでいた。だが、その笑顔は、ユイの笑顔ではなかった。
それは、「ファンが求める完璧な笑顔」だった。
ショウは、その時理解した。
ミラは、ユイではない。
ミラは、ユイの言葉、笑顔、優しさを「素材」として作られた、全く別の存在だった。
そして、その存在は、ショウのものではなく、ファンのものだった。
ショウは、ヘッドフォンを外し、ブースを出た。
ディレクターが、申し訳なさそうに声をかけた。
「ショウさん、大丈夫ですか?」
ショウは、何も答えず、スタジオを出た。
* * *
その夜、ショウは自宅に戻った。
部屋は静かだった。壁には、ユイの写真が飾られている。笑顔のユイ、泣き顔のユイ、怒り顔のユイ——すべてが、そこにあった。
ショウは、その写真を見つめながら、呟いた。
「ごめんな、ユイ。お前を、勝手に使ってしまった」
写真のユイは、何も答えなかった。
ショウは、スマートフォンを取り出し、ミラの公式アカウントを開いた。
最新の投稿には、こう書かれていた。
『今日も一日、お疲れ様! 明日も頑張ろうね! ミラはいつも、みんなの味方だよ!』
その言葉は、優しかった。
だが、それはユイの優しさではなかった。
それは、AIが計算した、「最も多くの人々に受け入れられる優しさ」だった。
ショウは、スマートフォンを置いた。
そして、気づいた。
壁に飾られたユイの写真の下に、小さなプレートがあった。
そこには、こう刻まれていた。
『Powered by Orchid Entertainment』
ショウは、愕然とした。
いつの間に、この文字が刻まれたのか?
いや、それはオーキッドが自動的に追加したものだった。「娘の死」を、「商品の一部」として記録するために。
ショウは、そのプレートを見つめながら、理解した。
ユイは、もういない。
ユイのデータも、ユイの言葉も、ユイの笑顔も——すべては、オーキッドのものになってしまった。
そして、ショウ自身も、オーキッドの一部になっていた。
彼は、もはやユイの父親ではなく、「ミラの声を提供する労働力」でしかなかった。
ショウは、床に座り込んだ。
涙が溢れた。
だが、彼の左耳のデバイスが、その感情を検知し、オーキッドに送信した。
数秒後、スマートフォンに通知が来た。
『あなたの精神状態が不安定です。カウンセリングサービスを起動しますか?』
ショウは、その通知を無視した。
だが、通知は消えなかった。
オーキッドは、彼の涙を「問題」として認識していた。
そして、その「問題」を「解決」しようとしていた。
だが、ショウは知っていた。
オーキッドには、この悲しみを癒すことはできない。
なぜなら、この悲しみは、オーキッドが作り出したものだからだ。
* * *
翌朝、ショウは再びスタジオに向かった。
彼には、選択肢がなかった。
ミラの仕事をやめれば、収入がなくなる。そして、オーキッドのサブスクリプション料金を払えなくなる。
そうなれば、彼は「社会不適合者」として認定され、オフライン・スラムに送られる。
ショウは、それを恐れていた。
いや、恐れていたのは、スラムではなく——
ミラを失うことだった。
たとえミラがユイではなくても、たとえミラが「ファンのもの」だったとしても——
ショウにとって、ミラは娘を感じることができる唯一の存在だった。
彼は、それを手放すことができなかった。
スタジオに到着すると、ディレクターが笑顔で迎えた。
「おはようございます、ショウさん。今日もよろしくお願いします」
ショウは、短く頷いた。
ブースに入り、ヘッドフォンを装着する。
モニターの中で、ミラが微笑んでいた。
「はーい、みんな! ミラだよ!」
ショウは、その声を聞きながら、思った。
もし、ユイが生きていたら、今頃どんな大人になっていただろう?
もし、ユイがこの世界を見たら、何を思うだろう?
もし、ユイが自分のデータがミラに使われていることを知ったら——
喜ぶだろうか?
それとも、悲しむだろうか?
ショウには、分からなかった。
だが、一つだけ分かっていることがあった。
ユイは、いつもこう言っていた。
「パパ、私ね、自分で決めたいの。自分の人生は、自分で決めたいの」
それは、ユイが11歳の時に言った言葉だった。
ショウが「将来は医者になったらどうだ?」と提案した時、ユイはそう答えた。
ショウは、その時「自立した子に育ってほしい」と願っていた。
だが、今となっては、その願いが皮肉に思えた。
なぜなら、ユイのデータから作られたミラには、「自分で決める」という自由がなかったからだ。
ミラは、ファンが求めるもの、オーキッドが決めたもの——それに従って生きるしかない。
ショウの「善意の教育」が、今の「娘との再会」を阻んでいた。
そして、それは、ショウ自身も同じだった。
彼もまた、オーキッドに従って生きるしかなかった。
ショウは、マイクに向かって言った。
「はーい、みんな! ミラだよ!」
その声は、明るかった。
だが、ショウの目には、涙が浮かんでいた。
モニターの中で、ミラが笑っていた。
完璧な笑顔で。
ファンが求める、完璧な笑顔で。
そして、ショウは気づかなかった。
モニターの隅に、小さく表示されたロゴを。
『Orchid Entertainment - A subsidiary of Orchid Corporation』
オーキッド・エンターテインメント。
それは、オーキッド社の子会社だった。
ユイのデータも、ミラの人格も、ショウの声も——すべては、オーキッドの管理下にあった。
そして、それは始まりに過ぎなかった。
この物語は、まだ終わらない。
いや、終わることができない。
なぜなら、オーキッドは、決して眠らないからだ。
(第2話 終)
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