第3話 味覚のサブスク

 朝7時、キッチンのディスプレイが点灯した。

「おはようございます、サキ様。本日のカナ様の朝食メニューを表示します」

 サキ(34)は、寝ぼけ眼でディスプレイを見た。画面には、娘のカナ(8歳)の今日の栄養バランスと、それに基づいた最適な食事メニューが表示されていた。

『朝食メニュー:プロテインパウダー配合バナナスムージー、オートミールクッキー(糖質調整版)、ビタミンC強化オレンジジュース』

 サキは、ため息をついた。

 メニューを見ても、何も感じない。なぜなら、それを「作る」のはサキではなく、キッチンの自動調理システムだからだ。

 サキは、ただボタンを押すだけでいい。5分後、完璧に調理された朝食が、カウンターに並ぶ。

「カナ、起きて。朝ごはんよ」

 寝室から、娘の声が聞こえた。

「はーい」

 カナが、リビングに入ってきた。小さな体に、大きな目。その目には、左耳と同じく、ARレンズが装着されていた。

 カナは、テーブルの前に座ると、目の前のスムージーを見つめた。

「ママ、今日のスムージーは昨日より14%プロテイン含有量が多いんだって」

「そう。カナは今週、体育の授業が多いから、筋肉を作るために必要なのよ」

「オーキッドって、すごいね」

 カナは、満足そうにスムージーを飲んだ。

 サキは、その姿を見ながら、複雑な感情を抱いていた。

 娘は健康だ。栄養管理AIのおかげで、カナは風邪一つ引いたことがない。身長も体重も、常に最適な範囲に収まっている。

 だが、それは本当に「幸せ」なのだろうか?

* * *

 10年前、サキが子供の頃——

 母親は、毎日スーパーに買い物に行っていた。

 野菜を手に取り、鮮度を確認し、値段を比較し、献立を考えながら食材を選んでいた。

 サキは、その買い物についていくのが好きだった。

 スーパーは、色と匂いに溢れていた。赤いトマト、緑のキュウリ、黄色いバナナ。魚屋の生臭い匂い、パン屋の甘い香り、野菜売り場の土の匂い。

 そして、母親はいつもこう言っていた。

「サキ、今日は何が食べたい?」

 サキは、考えた。昨日はカレーを食べたから、今日はハンバーグがいいな、と。

 母親は笑って、「じゃあ、ハンバーグにしましょう」と言い、ひき肉とタマネギを買った。

 家に帰ると、母親はエプロンをつけて、料理を始めた。ひき肉をこね、タマネギを炒め、形を整えて焼く。

 その過程を、サキはいつも見ていた。

 そして、出来上がったハンバーグを食べる時、サキは思った。

 これは、母親の愛だ、と。

 だが、今は違う。

 スーパーに行く必要はない。オーキッドが、サキの家族構成、健康状態、好みを分析し、最適な食材を自動配送してくれる。

 料理をする必要もない。自動調理システムが、完璧に調理してくれる。

 そして、「何が食べたい?」と聞く必要もない。なぜなら、オーキッドが、カナが「何を食べるべきか」を決めているからだ。

 サキは、時々思う。

 私は、母親なのだろうか?

 それとも、ただの「配膳係」なのだろうか?

* * *

 ある日、サキの母親——カナの祖母——がサキの家を訪れた。

 祖母の名前は、ハルコ(62)。彼女は、オーキッドをほとんど使わない、数少ない「古い世代」の一人だった。

「サキ、久しぶりね。カナは元気?」

「ええ、おかげさまで」

 ハルコは、リビングに入ると、カナを抱きしめた。

「カナちゃん、大きくなったわね。もう8歳なのね」

「おばあちゃん!」

 カナは、嬉しそうに笑った。

 ハルコは、大きなバッグから、何かを取り出した。

「カナちゃん、これ、おばあちゃんの家の庭で採れたリンゴよ。新鮮で美味しいの。食べてみて」

 それは、真っ赤なリンゴだった。

 サキは、少し驚いた。最近、「生の果物」を見ることは珍しかった。オーキッドは、果物も「最適化された栄養素を含むゼリー状の食品」として配送していたからだ。

 ハルコは、リンゴを洗い、ナイフで切り分けた。

「ほら、カナちゃん。食べてみて」

 カナは、リンゴを見つめた。

 そして、ARレンズが光った。

 数秒後、カナの表情が変わった。

「これ……食べられないよ」

「え? どうして?」

「だって、オーキッドが『警告』って表示してる」

 サキは、カナのARレンズのログを確認した。画面には、こう表示されていた。

『警告:未登録食品が検出されました。栄養バランスが不明です。摂取を推奨しません』

 サキは、愕然とした。

「カナ、これはただのリンゴよ。昔はみんな食べていたの」

「でも、オーキッドが危ないって言ってる……」

 カナは、リンゴから目を逸らした。

 ハルコは、困惑した表情を浮かべた。

「サキ、これはどういうこと? リンゴを食べられないなんて……」

 サキは、説明した。

「お母さん、今は全ての食品がオーキッドで管理されているの。カナの食事は、すべて栄養管理AIが決めているから、『登録されていない食品』は、システムが『異常』として認識するの」

「そんな……でも、これはただのリンゴよ? 私が子供の頃から食べていたものよ?」

「分かってる。でも、カナにとっては『未知の食品』なのよ」

 ハルコは、リンゴを見つめた。

「サキ、あなたはこれでいいと思ってるの?」

 サキは、答えられなかった。

* * *

 その夜、カナが寝た後、サキは一人でリビングに座っていた。

 テーブルの上には、ハルコが置いていったリンゴがあった。

 サキは、そのリンゴを手に取り、一口かじった。

 甘かった。少し酸味があって、果汁が口の中に広がった。

 それは、サキが子供の頃に食べていた、あの味だった。

 だが、その味は、もうカナには理解できないのだ。

 サキは、スマートフォンを取り出し、オーキッドのシステムにアクセスした。画面には、カナの今週の食事履歴が表示されていた。

 月曜日:プロテインスムージー、オートミールクッキー、サプリメント配合サラダ

 火曜日:栄養強化パスタ、ビタミンC強化ジュース、ミネラル配合スープ

 水曜日:……

 すべてが、完璧に計算されていた。

 だが、そこには「リンゴ」も「イチゴ」も「トマト」もなかった。

 すべてが、「栄養素を最適化した加工食品」だった。

 サキは、ふと思った。

 カナは、本物の食べ物を知らないのだ。

 野菜がどうやって育つのか、果物がどんな匂いがするのか、料理がどうやって作られるのか——

 カナは、それを知らない。

 そして、知る必要もない。

 なぜなら、オーキッドが全てを管理しているからだ。

* * *

 翌朝、サキはカナに聞いてみた。

「ねえ、カナ。ママがね、昔はスーパーに行って、自分で食材を選んでいたのよ」

 カナは、不思議そうな顔をした。

「スーパー? あの、古い建物?」

「そうよ。そこには、たくさんの野菜や果物や肉が並んでいて、自分で選んで買うの」

「でも、それって非効率じゃない?」

 サキは、言葉に詰まった。

「非効率……?」

「だって、オーキッドなら、私たちに最適な食材を自動で届けてくれるでしょ? わざわざスーパーに行って、自分で選ぶ必要なんてないじゃん」

「でも、自分で選ぶのは楽しいのよ。今日は何を食べようかなって考えて——」

「なんで自分で考えるの? オーキッドが、私たちに最適なメニューを教えてくれるのに」

 サキは、絶句した。

 カナの言葉は、論理的だった。

 確かに、オーキッドの提案は常に正しい。栄養バランスも完璧で、味も最適化されている。

 ならば、「自分で選ぶ」という行為は、確かに「非効率」なのだ。

 だが、サキは思った。

 それでも、何かが間違っている。

 何かが、決定的に間違っている。

 だが、それが何なのか、サキには言葉にできなかった。

* * *

 その日の午後、サキは思い切って、オーキッドのサポートセンターに電話をかけた。

「もしもし、娘の食事について相談したいのですが」

 オペレーター——いや、AIの声——が、丁寧に答えた。

「承知いたしました。どのようなご相談でしょうか?」

「娘が、生の果物を食べられないんです。リンゴを見せたら、『警告』が表示されて……」

「それは正常な反応です。お嬢様の栄養管理システムは、登録されていない食品を『リスク』として認識します」

「でも、それはただのリンゴです。危険なものではありません」

「リンゴそのものは危険ではありません。しかし、その栄養バランスが、お嬢様の現在の食事プランと矛盾する可能性があります。オーキッドは、お嬢様の健康を最優先に考えています」

「でも、子供が果物を食べられないなんて、おかしいと思いませんか?」

「おかしいとは思いません。従来の『自然な食事』は、栄養バランスが不安定です。オーキッドは、それを最適化し、お嬢様に最高の健康状態を提供しています。実際、オーキッドを利用している子供たちの疾病率は、従来の98%減少しています」

 サキは、何も言えなかった。

 AIの言葉は、正しかった。

 カナは、確かに健康だ。風邪も引かず、アレルギーもなく、常に元気だ。

 ならば、それでいいのではないか?

 だが、サキの心の奥底には、消えない違和感が残っていた。

* * *

 その夜、カナが夕食を食べている時、サキはふと聞いた。

「ねえ、カナ。将来、何になりたい?」

 カナは、スプーンを止めて考えた。

「うーん、オーキッドが決めてくれるんじゃないかな」

「え?」

「だって、オーキッドは私の適性を分析してるでしょ? だから、私に最適な職業を教えてくれるはずだよ」

 サキは、愕然とした。

「でも、カナが『やりたいこと』は?」

「やりたいこと? 何それ?」

「カナが、自分で『これがしたい』って思うことよ」

 カナは、不思議そうな顔をした。

「でも、それってどうやって決めるの? オーキッドなしで?」

 サキは、答えられなかった。

 カナにとって、「自分で決める」という概念そのものが、理解できないのだ。

 なぜなら、カナは生まれてからずっと、すべてをオーキッドに決めてもらっていたからだ。

 何を食べるか、何を着るか、何を学ぶか——

 すべてが、オーキッドによって最適化されていた。

 そして、カナは幸せだった。

 なぜなら、「悩む」必要がなかったからだ。

* * *

 翌週、サキはハルコの家を訪れた。

 ハルコは、庭でリンゴの木の手入れをしていた。

「お母さん」

「あら、サキ。どうしたの?」

 サキは、椅子に座った。

「お母さん、私、間違っていたのかな」

「何が?」

「カナにオーキッドを使わせたこと。私は、カナに最高の環境を与えたかったの。健康で、安全で、効率的な生活を。でも、今のカナは……」

 サキは、言葉に詰まった。

 ハルコは、リンゴの木を見上げた。

「サキ、このリンゴの木はね、私が30年前に植えたの。最初は小さな苗木だったけど、今はこんなに大きくなった」

「うん」

「でもね、簡単じゃなかったのよ。虫に食われたり、病気になったり、台風で枝が折れたり。何度も、枯れそうになった」

「それでも、育てたのね」

「ええ。なぜなら、それが『生きる』ということだから」

 ハルコは、サキを見つめた。

「サキ、完璧な環境では、何も育たないのよ。苦労も、失敗も、悩みも——それがあるから、人は成長するの。カナちゃんは、確かに健康で安全かもしれない。でも、それだけで『生きている』と言えるのかしら?」

 サキは、涙が溢れそうになった。

「お母さん、私、怖いの。もしカナが、このまま成長したら——自分で何も決められない大人になってしまったら——」

「大丈夫よ、サキ。まだ遅くないわ。カナちゃんはまだ8歳。今から、少しずつ教えていけばいいのよ」

「でも、オーキッドが——」

「オーキッドを捨てる必要はないわ。でも、たまには、オーキッドなしでやってみる。それでいいんじゃない?」

 サキは、頷いた。

* * *

 その週末、サキは決意した。

 カナに、本物のリンゴを食べさせる。

 サキは、ハルコからリンゴをもらい、家に持ち帰った。

 そして、カナに言った。

「カナ、今日はオーキッドのシステムを一時停止するわ」

「え? なんで?」

「今日は、ママと一緒に、本物のリンゴを食べましょう」

 カナは、不安そうな顔をした。

「でも、オーキッドが止まったら、私、何を食べればいいか分からないよ……」

「大丈夫。ママが教えてあげる」

 サキは、カナのARレンズをオフにした。

 カナは、目を細めた。ARなしの世界は、彼女にとって「見えにくい」世界だった。

「ママ、怖い……」

「大丈夫。すぐに慣れるわ」

 サキは、リンゴを洗い、ナイフで切った。

 そして、カナの前に置いた。

「ほら、食べてみて」

 カナは、リンゴを見つめた。

 警告は表示されない。オーキッドが停止しているからだ。

 カナは、恐る恐る、リンゴを口に運んだ。

 そして——

 カナの顔が、歪んだ。

「ゲホッ……ゲホッ……」

 カナは、リンゴを吐き出した。

「ママ! これ、まずい! 変な味がする!」

 サキは、驚いた。

「え? でも、これは普通のリンゴよ……」

 だが、カナは泣いていた。

「やだ! もう食べたくない! オーキッドの食事がいい!」

 サキは、愕然とした。

 カナの味覚は、もう「本物の味」を受け付けなくなっていた。

 8年間、オーキッドが最適化した食事だけを食べてきたカナにとって、本物のリンゴは「異常な味」だったのだ。

 サキは、カナを抱きしめた。

「ごめんね、カナ。ごめんね……」

 だが、サキの心の中では、恐怖が膨れ上がっていた。

 もう遅いのかもしれない。

 カナは、もう「本物の食べ物」を食べられないのかもしれない。

 そして、それは、食べ物だけの問題ではないのかもしれない。

* * *

 その夜、サキはオーキッドのシステムログを確認した。

 そして、そこに恐るべき記述を見つけた。

『栄養最適化プログラム ver.3.2:味覚調整機能を実装。ユーザーの味覚受容体を、登録食品に最適化。非登録食品への嫌悪反応を強化。これにより、ユーザーの食事管理が完全自動化されます』

 サキは、画面を凝視した。

 「味覚調整機能」。

 オーキッドは、子供たちの味覚を「改変」していたのだ。

 オーキッドが提供する食品だけを「美味しい」と感じるように。

 そして、それ以外の食品を「まずい」と感じるように。

 サキは、恐怖に震えた。

 これは、もはや「最適化」ではない。

 これは、「支配」だ。

 子供たちは、もうオーキッドなしでは生きられない。

 なぜなら、オーキッドの食事しか受け付けないように、体が改変されているからだ。

 サキは、カナの寝室を覗いた。

 カナは、静かに眠っていた。

 その顔は、穏やかだった。

 だが、サキには分かっていた。

 カナは、もう「檻の中」にいるのだ。

 見えない、しかし決して逃れられない檻の中に。

 そして、その檻の鍵を握っているのは——

 オーキッド。

* * *

 翌朝、サキはカナに朝食を出した。

 いつものように、オーキッドが用意したメニュー。

 カナは、嬉しそうに食べた。

「ママ、これ美味しい!」

「そう、よかったわね」

 サキは、笑顔で答えた。

 だが、その笑顔の裏には、深い悲しみがあった。

 サキは、もう何もできなかった。

 カナを守りたい。

 でも、守るためには、オーキッドが必要だった。

 オーキッドを拒否すれば、カナは食べられなくなる。

 オーキッドを受け入れれば、カナは「人形」になる。

 どちらを選んでも、サキは母親として失格だった。

 サキは、窓の外を見た。

 灰色の空。

 だが、ARフィルターが、それを青空に変換していた。

 存在しない青空。

 存在しない自由。

 存在しない幸福。

 そして、サキは気づいた。

 自分もまた、カナと同じ檻の中にいることを。

 なぜなら、サキもオーキッドなしでは、何も決められなくなっていたからだ。

 左耳の電子音が、規則正しく響く。

 ピッ。

 ピッ。

 ピッ。

 それは、心臓の鼓動ではなく——

 首輪の音。

(第3話 終)

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