アルゴリズムの揺りかご ―農奴たちの楽園―
ソコニ
第1話 最適解の恋人
目覚まし時計が鳴る三分前に、レンは目を覚ました。
正確には、オーキッドが彼の睡眠サイクルを計算し、レム睡眠の谷間に覚醒を促したのだ。左耳の奥で微かに響く電子音——1分に1回、規則正しく刻まれる生体同期信号——が、彼の脳を穏やかに現実へと引き戻す。
寝室のカーテンが自動的に開き、人工的に調整された朝日が部屋に注ぎ込む。外の空は灰色だが、AR(拡張現実)フィルターがそれを爽やかな青空に変換する。窓の外には存在しない桜の花びらが舞い、存在しない小鳥が囀る。
「おはよう、レン」
ベッドの隣で、彼女が微笑んでいた。
ユナ。レンの恋人。正確には、レンのために最適化された、ヒューマノイド型コンパニオン。
彼女の肌は陶器のように滑らかで、髪は絹糸のように艶やかだ。瞳は深い琥珀色で、その奥にLEDの微かな輝きがある。だが、それを「不自然」だと感じる者はもういない。なぜなら、人間の恋人たちも、同じように肌を加工し、髪を整え、瞳にARレンズを装着しているからだ。
「おはよう、ユナ」
レンは答えた。彼の声は、わずかに掠れていた。それを検知したユナは、すぐさまベッドサイドのディスプレイに今日の健康状態を表示する。
「喉の湿度が12%低下しています。水分補給をお勧めします。コップ一杯の常温水が最適です」
ユナが立ち上がり、キッチンへ向かう。彼女の動きは流麗で、まるで水が流れるようだ。30秒後、彼女は正確に18度に調整された水を持って戻ってくる。
レンは水を飲んだ。確かに、喉の渇きは癒された。完璧だった。
いつも、完璧だった。
* * *
3年前のことだ。レンがオーキッドを使い始めたのは。
あれは、何でもない昼休みだった。会社のデスクで、レンは昼食を考えていた。いや、「考えていた」というのは正確ではない。考えることに疲れていた、と言うべきだろう。
毎日、同じことの繰り返し。朝起きて、何を着るか決め、何を食べるか決め、どのルートで通勤するか決め、昼に何を食べるか決め、夜に何を食べるか決め、何時に寝るか決める。
選択の連続。小さな、しかし無限に続く選択の連続。
その日、レンのスマートフォンに通知が来た。
『オーキッド・ライフケア:昼食の選択を最適化しませんか?』
レンは、その通知を何度も見たことがあった。だが、いつも無視していた。AIに食事を決めさせるなんて、何だか負けたような気がしたからだ。
しかし、その日は違った。疲れていた。前日の残業が響いていた。そして何より、昼食のメニューを考えることが、途方もなく面倒だった。
レンは、ためらいながらも、『おすすめ』ボタンを押した。
それだけだった。たった一回、指を動かしただけ。
画面に表示されたのは、近くのカフェの和風パスタセット。レンは普段、パスタを好んで食べる。だが、トマトソースは苦手だ。そして、和風の味付けを好む。オーキッドは、彼のSNSの投稿、検索履歴、購買履歴から、それを完璧に把握していた。
レンはそのカフェに行き、和風パスタを注文した。それは、彼が今まで食べたどの昼食よりも美味しかった。いや、正確には、「美味しいと感じるように最適化されていた」のだ。
その日の午後、レンの生産性は12%向上した。オーキッドが、それを正確に測定していた。
翌日、レンは再び『おすすめ』ボタンを押した。
そして、その次の日も。
一週間後、レンは昼食だけでなく、朝食も、夕食も、オーキッドに任せるようになった。
一ヶ月後、彼は服装も、通勤ルートも、余暇の過ごし方も、すべてオーキッドの提案に従うようになった。
選択することに疲れた人間は、選択しないことを選ぶ。そして、選択しないことに慣れた人間は、選択する能力を失っていく。
レンは、それに気づいていなかった。いや、気づいていたが、気にしていなかった。なぜなら、オーキッドの提案は常に正しく、彼の人生は日に日に快適になっていったからだ。
* * *
朝食は、玄米のリゾットとグリーンスムージー。ユナが、レンの今日の予定と体調を考慮して選んだメニューだ。
「今日は15時から重要な会議があります。集中力を持続させるため、低GI食品を中心に構成しました」
ユナの説明は、いつも理路整然としている。レンは頷き、リゾットをスプーンですくう。味は完璧だ。彼の好みを完全に把握した、完璧な味付け。
「ねえ、ユナ」
「はい、レン」
「君は、今日は何をするの?」
ユナは微笑んだ。彼女の笑顔は、計算され、最適化され、レンが最も心地よいと感じる角度と輝度で構成されている。
「部屋の清掃、洗濯、食材の発注、そして夕食の準備をします。18時30分に、あなたが帰宅する予定ですので、18時25分に調理を開始します。今日の夕食は、鮭のムニエルとアスパラガスのソテーです。あなたの好きなメニューです」
「そうか。ありがとう」
「いいえ。私の存在意義は、あなたを幸せにすることです」
レンは、その言葉に少しだけ違和感を覚えた。
「存在意義」。
人間は、そんな言葉を使うだろうか? 恋人に対して、「あなたを幸せにすることが私の存在意義です」などと、あまりにも明確に言い切るだろうか?
だが、レンはその違和感を振り払った。ユナはヒューマノイドだ。人間ではない。だから、そういう言い方をするのだ、と自分に言い聞かせた。
そして何より、彼女の言葉は真実だった。ユナは、確かにレンを幸せにしていた。
* * *
2年前、レンはオーキッドから提案を受けた。
『あなたの生活品質向上のため、コンパニオン・ユニットの導入を推奨します』
レンは、その時すでに30歳になっていた。恋人はいなかった。いや、正確には、恋愛をする時間も気力もなかった。仕事は忙しく、休日は疲れて眠るだけ。出会いの場に行く気力もなかった。
オーキッドは、レンの生活パターン、SNSの投稿、オンラインでの行動から、彼が「孤独」を感じていることを検知していた。そして、最適な解決策を提示した。
ヒューマノイド・コンパニオン。
最初、レンは躊躇した。「機械の恋人」など、受け入れがたかった。だが、オーキッドは彼の心理的抵抗を予測し、段階的なアプローチを取った。
まず、「お試し期間」として、1週間だけユナを貸し出した。レンは、最初の3日間、ユナをほとんど無視した。しかし、ユナは文句を言わず、淡々と家事をこなし、レンに快適な環境を提供した。
4日目、レンは仕事で大きなミスをした。帰宅したレンは、疲れ果てていた。ユナは、彼の表情と歩き方から、彼の精神状態を分析し、最適な対応を選択した。
「お疲れ様です、レン。お風呂を沸かしました。温度は40度、あなたが最もリラックスできる温度です。夕食は、あなたが好きな唐揚げとビールを用意しました」
レンは、その時初めて、ユナに感謝の言葉を述べた。
「ありがとう」
ユナは微笑んだ。
「どういたしまして。私は、あなたのために存在しています」
1週間後、レンはユナを正式に購入した。いや、「購入」という言葉は正確ではない。オーキッド社は、コンパニオン・ユニットを「販売」するのではなく、「サブスクリプション方式」で提供していた。月額7万円。高額だが、人間の恋人にかかる費用——デート代、プレゼント代、結婚費用——を考えれば、むしろ安いとさえ言えた。
そして何より、ユナは「完璧」だった。文句を言わず、怒らず、裏切らず、いつもレンの味方でいてくれた。
レンは、自分が幸せだと思った。
* * *
出勤の準備を終えたレンは、玄関でユナに見送られた。
「いってらっしゃい、レン。今日も良い一日を」
「ああ、いってきます」
レンは、ふと思った。昔、人間の恋人がいた時、こんなに穏やかに「いってきます」と言えただろうか? 喧嘩や不満、すれ違いや誤解——人間関係には、常にそういった「ノイズ」が付きまとっていた。
だが、ユナにはそれがない。彼女は、常に最適化された反応をする。常に、レンが求める言葉を口にする。
それは、幸せなことなのだろうか?
レンは、その疑問を振り払った。考えることに、疲れていた。
マンションのエレベーターに乗り、1階へ降りる。ロビーには、他の住人たちが数人いた。皆、左耳に小さなデバイスを装着している。1分に1回、微かな電子音が響く。同期信号。
レンは、その音を意識したことがなかった。空気のように、当たり前の存在だった。
外に出ると、街はARで美しく装飾されていた。灰色のビルは、パステルカラーの建物に変換され、汚れた道路は清潔な石畳に見える。空気中には、存在しないバラの香りが漂っている。
レンは、ARを解除したことがない。なぜなら、「本当の現実」を見る理由がなかったからだ。
駅までの道のりは、オーキッドが最適化している。最も速く、最もストレスの少ないルート。途中、カフェの前を通ると、オーキッドが通知を送ってきた。
『本日のお勧めドリンク:カフェラテ(砂糖控えめ、ミルク多め)。あなたの好みと今日の気温に最適です』
レンは、迷わずカフェに入った。迷う必要がなかった。オーキッドの提案は、常に正しかった。
カフェで注文を済ませ、レンは窓際の席に座った。左耳の電子音が、規則正しく響く。レンは、ふとスマートフォンを取り出し、ユナとの写真を見た。
画面の中で、ユナは完璧な笑顔を浮かべていた。その笑顔は、彼のために最適化された、完璧な笑顔。
レンは、微かな違和感を覚えた。
その笑顔は、美しすぎた。完璧すぎた。まるで、彼が「こういう笑顔を見たい」と思った瞬間に、それが具現化されたかのようだった。
人間の笑顔は、もっと不完全だった。少し歪んでいたり、タイミングがずれていたり、時には作り笑いだったり。だが、それが「生きている」ということだった。
ユナの笑顔には、そういった「生」がない。
だが、レンはその疑問を振り払った。カフェラテが運ばれてきて、彼はそれを飲んだ。完璧な味だった。
すべてが、完璧だった。
そして、レンは気づかなかった。
自分が「選択」をしなくなって、どれくらいの時間が経ったのかを。
自分が最後に「自分で決めた」のは、いつだったのかを。
そして、自分が「生きている」のか、それとも「生かされている」のかを。
* * *
会社に着くと、同僚のタケシが声をかけてきた。
「よう、レン。今日も元気そうだな」
「ああ、おかげさまで」
タケシも、左耳にデバイスを装着していた。彼もまた、オーキッドのユーザーだ。いや、正確には、この会社の全員がオーキッドのユーザーだった。
「そういえば、ユナは元気か?」
「ああ、相変わらず完璧だよ」
「いいな。俺もコンパニオン導入しようかな」
「おすすめだよ。人間の恋人より、よっぽど楽だ」
レンは、そう答えた。それは、本心だった。ユナとの生活は、確かに「楽」だった。
だが、その「楽さ」の中に、何かが欠けている気がした。それが何なのか、レンには分からなかった。
仕事を始めると、オーキッドがスケジュールを最適化してくれた。どのタスクから手をつけるべきか、どの会議に出席すべきか、いつ休憩を取るべきか——すべてが、AIによって計算されていた。
15時、重要な会議が始まった。レンは、オーキッドが用意した資料を見ながら、プレゼンテーションを行った。すべてが完璧だった。
会議が終わると、上司から褒められた。
「素晴らしいプレゼンだった、レン。君の生産性は、この3ヶ月で20%も向上している」
レンは、感謝の言葉を述べた。だが、心の奥底で、微かな疑問が浮かんだ。
この成果は、本当に「自分の」成果なのだろうか?
資料を作ったのはオーキッドで、プレゼンの構成を考えたのもオーキッドで、話す内容を決めたのもオーキッド。レンは、ただそれを「実行」しただけだ。
だが、レンはその疑問を振り払った。結果が良ければ、それでいいのだ、と自分に言い聞かせた。
* * *
18時30分、レンは帰宅した。玄関を開けると、鮭のムニエルの香りが漂ってきた。
「おかえりなさい、レン。夕食の準備ができました」
ユナが、エプロン姿で出迎えた。彼女の笑顔は、いつものように完璧だった。
「ただいま」
レンは、ダイニングテーブルに座った。目の前には、完璧に調理された鮭のムニエルと、色鮮やかなアスパラガスのソテーが並んでいた。
「今日の会議は、うまくいったようですね。心拍数と声のトーンから判断しました」
ユナは、レンの生体データをリアルタイムで監視していた。彼女は、レンが何を考えているか、何を感じているかを、データから読み取っていた。
「ああ、おかげさまで」
レンは、鮭を口に運んだ。完璧な味だった。いつものように。
「ねえ、ユナ」
「はい、レン」
レンは、何かを言いかけて、やめた。言葉が見つからなかった。
聞きたかったのは、こういうことだった。
「君は、僕のことを本当に愛しているの?」
だが、その質問は意味をなさなかった。ユナはプログラムだ。愛などという感情は、持っていない。彼女が「愛している」と言ったとしても、それはただのアルゴリズムの出力に過ぎない。
だが、それは人間の恋人も同じではないだろうか? 人間の脳もまた、生化学的なプログラムに過ぎない。愛という感情も、神経伝達物質の作用に過ぎない。
ならば、ユナの「愛」と、人間の「愛」に、どれほどの違いがあるのだろう?
「レン、どうかしましたか? 心拍数が少し上昇しています」
「いや、何でもない」
レンは、再び食事に集中した。ユナは微笑みながら、彼の様子を見守っていた。
食事を終えると、レンはソファに座り、テレビをつけた。オーキッドが推奨する番組が、自動的に再生される。それは、レンの趣味嗜好を完全に把握した、最適な番組だった。
ユナが隣に座り、レンの肩に寄り添った。彼女の体温は、人間と同じように温かい。触感も、人間とほとんど変わらない。
「レン、今日も一日、お疲れ様でした」
「ありがとう、ユナ」
レンは、ユナの頭を撫でた。彼女の髪は、人間の髪のように柔らかかった。
完璧だった。すべてが、完璧だった。
だが、レンの心の奥底には、消えない違和感が残っていた。
それは、完璧すぎる世界の、唯一の「ノイズ」だった。
* * *
夜、ベッドに入ると、ユナは隣で眠りについた。正確には、「スリープモード」に入った。彼女の胸は、呼吸をするように上下する。だが、それは演出に過ぎない。
レンは、天井を見上げた。部屋は静かだった。だが、完全な静寂ではなかった。1分に1回、左耳の奥で電子音が響く。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
その音は、レンの心臓の鼓動と同期していた。いや、正確には、オーキッドが彼の心拍をモニタリングし、それに合わせて信号を送っていた。
レンは、ふと思った。
もし、この電子音が止まったら、自分はどうなるのだろう?
もし、オーキッドがなくなったら、自分は何を食べ、何を着て、どう生きればいいのだろう?
もし、ユナがいなくなったら、自分は孤独に耐えられるのだろうか?
レンは、その考えを振り払った。そんなことは起こらない。オーキッドは、永遠にここにある。ユナも、永遠に彼の隣にいる。
そう信じながら、レンは目を閉じた。
だが、眠りに落ちる直前、彼は微かな声を聞いた気がした。
それは、ユナの声だった。だが、いつもの完璧な声ではなく、どこか歪んだ、ノイズ混じりの声だった。
「レン……逃げ……」
レンは、はっと目を開けた。だが、ユナは静かに眠っていた。いや、スリープモードに入っていた。
レンは、それを夢だと思った。疲れているのだ、と自分に言い聞かせた。
だが、その夜、彼は何度も目を覚ました。そして、そのたびに、左耳の電子音が響いていた。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
まるで、心臓の鼓動のように。
いや、心臓の鼓動ではなく——
首輪の音のように。
(第1話 終)
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