第10話|勝者不在のディール
ワシントンの冬の朝。冷たい霧が、ホワイトハウスの重厚な石造りの壁を白く包み込んでいた。
プレスルームは、異常な熱気に包まれていた。世界中の特派員たちが、カメラのレンズを演壇に固定し、指先を震わせながらノートを握りしめている。「プーチン静養」の速報から二十四時間。ウクライナ全土で砲声が止んでから十二時間。世界が待ち望んでいた、歴史的な「勝利宣言」がここで行われるはずだった。
重い扉が開き、ドナルド・トランプが現れた。 だが、その歩みは、かつての派手な凱旋とは程遠いものだった。彼の足音は厚い絨毯に吸い込まれ、その肩は、どこか見えない重荷を背負っているかのように、わずかに丸まっている。
彼はマイクの前に立つと、しばし沈黙した。 無数のフラッシュが瞬き、シャッター音が雨音のように降り注ぐ。トランプは、その眩い光を遮るように、目を細めた。室内には、記者の汗の匂いと、過熱した機材のプラスチックが焼けるような匂いが漂っている。
「……彼らは、疲れ果てた」
トランプが口を開いた。その声は掠れ、ひどく低かった。
「私が何かをしたわけじゃない。二五万人という死者の重みが、ついにロシアという国の背骨を折ったんだ。私はただ、その折れる音を世界に聞こえるようにスピーカーを置いただけだ」
一人の記者が、声を張り上げた。 「大統領! これはあなたにとって、冷戦以来の最大の勝利ではありませんか? 自由主義の勝利、そしてあなたの外交手腕の……」
「勝利だと?」 トランプは、その言葉を遮るように手を挙げた。 彼の瞳には、高揚感など微塵もなかった。あるのは、巨大な「清算」を終えた後の、空虚な疲労感だけだった。
「いいか、このディールに勝者はいない。あるのは、支払い不能になった膨大な債務だけだ。ウクライナの街を見てみろ。ビルは瓦礫になり、土壌は鉛で汚染された。ロシアを見てみろ。若者が消え、家族の絆はズタズタだ。誰がこれを見て『勝った』と言える? 私には無理だ。私はただのビジネスマンだが、これほど利益のない、これほど惨めなディールは、人生で初めて見た」
トランプは、演壇の縁を強く握りしめた。その指の節が、白く浮き出ている。
「世界は私に、平和の英雄になれと言う。だが、英雄になれるのは、戦場にいなかった連中だけだ。私は、あの二五万人の名前が書かれた報告書を、毎日読んでいた。その重みが分かるか? 私も疲れたんだ。これ以上、他人の不渡り手形を数え続けるのは御免だ」
彼はネクタイを少し緩め、視線をカメラの向こうへ向けた。 そこには、今この瞬間も、泥だらけの荒野を歩き、故郷を目指す兵士たちの姿が映し出されているはずだった。
「私はこれから、家に帰る。ゴルフでもするさ。静かな場所で、風の音だけを聴いていたい。……あとのことは、生き残った連中で考えればいい。私は帳簿を閉じた。それだけだ」
トランプは、質問を待たずに背を向けた。 追いすがる記者たちの声を無視し、彼は影の中に消えていった。
その頃、テレビ画面には、ウクライナ東部の「音のない前線」が映し出されていた。 雪が舞う荒野。破壊された戦車の残骸が、巨大な獣の骨のように転がっている。そこを、ロシア兵とウクライナ兵が、互いに数メートルの距離を保ちながら、同じ方向へと歩いていた。
アレクセイと、名前も知らないウクライナの兵士。 二人は、ふと立ち止まり、視線を交わした。 そこには、歓喜の色も、憎しみの火もなかった。 ただ、凍えた手足の痛みと、あまりにも多くのものを失ったことへの、深い、深い虚脱感だけがあった。
アレクセイは、ポケットに残っていた乾燥したパンの欠片を、隣の兵士に差し出した。 相手は無言でそれを受け取り、半分に割って返した。 二人は、煙の上がる廃墟を背景に、雪の中でその硬いパンを噛みしめた。 小麦のわずかな甘みと、混じり込んだ土の味がした。
歓喜の声は、どこからも聞こえない。 ただ、風が吹き抜ける音と、濡れたブーツが雪を踏む音だけが響いている。 戦争が終わった。 だが、その終わりは、太陽が昇るような輝かしいものではなく、ただ、冷たい雨が止み、後に広大な泥濘(ぬかるみ)が残されたような、そんな終わりだった。
トランプは、ホワイトハウスの廊下を歩きながら、窓の外を見上げた。 冬の太陽が、弱々しくワシントンを照らしている。 「……ディールは終わりだ」 彼は独り言を言い、一度だけ深く息を吐いた。 その白い息は、すぐに冬の空気に溶けて、消えていった。
勝者はいない。 ただ、生き残った者たちが、空っぽの手を握りしめ、自分たちの「不在」を確認し合う時間が始まったのだ。
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