第9話|音のない前線
ウクライナ東部、ドネツク州の最前線。 そこは、鉄と泥と死臭が混じり合った、地獄の端切れのような場所だった。
ロシア軍の若き志願兵、アレクセイは、凍土を掘り返しただけの塹壕(ざんごう)の中で、ガタガタと震えながら空を見上げていた。鉛色の空からは、雪とも灰ともつかない粒がしんしんと降り注いでいる。鼻を突くのは、火薬の焦げた匂いと、腐りかけた缶詰、そして隣の掩体(えんたい)に横たわる「動かなくなった誰か」の、甘ったるい死の匂いだ。
いつもなら、この時間は後方の自走砲が唸りを上げ、ウクライナ側の陣地を耕すように叩いているはずだった。その地響きこそが、彼らにとっての唯一の「味方の生存確認」だった。 だが、今日は違った。 耳が痛くなるほどの、静寂。
「……おい、どうしたんだ。砲兵隊は寝ちまったのか?」
隣で泥まみれのタバコに火をつけようとしていたベテランの伍長、セルゲイが、震える声で呟いた。ライターの火が、カチカチと虚しく火花を散らす。
「無線は? 本部に繋がるのか?」
アレクセイは、泥にまみれた無線機を掴んだ。 「こちら第四小隊。応答せよ。……繰り返す、こちら第四小隊。次の指示を請う」
ノイズ。ただ、砂嵐のような「ザー」という音だけが返ってくる。 突撃の命令も、撤退の許可も、罵倒の声すらない。 それはまるで、自分たちを操っていた巨大なマリオネットの糸が、一斉に切り落とされたかのような不気味な断絶だった。
「誰もいないのか……? 俺たちをここに置いたまま、みんな消えちまったのか?」
アレクセイの声が裏返った。 二五万人。 風の噂で聞いた、自分たちの仲間の死者の数。その巨大な数字が、この静寂の中で急に実体を持って襲いかかってくる。二五万人の亡霊が、この雪の下に埋まっている。そして自分も、その予備軍に過ぎない。
「伍長、見てください。向こうも……ウクライナ側も、撃ってこない」
セルゲイが、恐る恐る塹壕から顔を出した。 数百メートル先の廃墟と化した村。そこにあるはずの敵の銃口も、今は沈黙していた。 彼らもまた、困惑しているのだ。 これまでは「敵がいるから撃つ」「命令があるから進む」という、残酷だが単純な論理で生きてこれた。だが、その論理が消失した今、残されたのは「なぜ自分はここに立っているのか」という、剥き出しの問いだけだった。
「……トランプ。あの金髪の親父が言っていたのは、これのことか」
セルゲイが、火のつかないタバコを口から吐き捨てた。 「帳簿を閉じるってのは、こういうことなんだな。命令を下すべき連中が、自分たちの保身のために、俺たちの存在を『なかったこと』にしやがった。更迭? クソ喰らえだ。俺たちはただ、忘れ去られただけだ」
アレクセイは、自分の銃を見つめた。 冷たい鉄の塊。 これを握って、誰を撃てばいい? 何を守ればいい? モスクワでは、大統領が「休暇」に入ったという。 その一言で、自分たちの三年間は何の意味も持たない「ゴミ」になった。
「伍長……俺、もう嫌だ。この泥も、この匂いも」 アレクセイの目から、熱い涙が溢れ、泥だらけの頬を洗った。 「あっちの連中も、きっと同じことを考えてる。腹が減って、足が腐りかけて、帰りたいって。……誰も命令してこないなら、俺、歩いて帰ってもいいのかな」
セルゲイは、アレクセイの肩を強く掴んだ。その手もまた、小刻みに震えていた。 「……ああ。いいんだ。もう、誰もお前を撃てなんて言わない。誰もお前を裏切り者だとは呼ばない。……呼べる奴が、もうどこにもいないんだからな」
前線のあちこちで、ロシア兵たちが一人、また一人と、銃を置いた。 それは降伏ではなかった。 ただ、自分たちが一人の人間であることを思い出した瞬間だった。
一キロ先。 ウクライナ側の塹壕からも、一人の若い兵士が、白い布をつけた枝を掲げずに、ただ両手を挙げて姿を現した。 アレクセイはそれを見て、自分もゆっくりと立ち上がった。
空気は冷たいが、不思議と、もう火薬の匂いはしなかった。 雪が降り積もり、すべてを静かに覆い隠していく。 血に染まった土も、破壊された戦車も、そして二五万人の不在も。
音のない前線。 そこには、勝利の雄叫びも、敗北の嘆きもなかった。 ただ、世界がもう耐えられなくなったことによる、残酷なまでに静かな「終わり」だけが横たわっていた。
「……終わったんだな。本当に」
アレクセイは、初めて自分の意志で、故郷の方角へと足を向けた。 泥を蹴る一歩一歩が、重い。 だが、その重みこそが、彼がまだ「数字」ではなく「人間」であることの、唯一の証だった。
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