第11話|穴の空いた歴史
春が来た。しかし、ウクライナの黒土から芽吹いたのは、希望ではなく、無数の鉄の破片と、消えることのない沈黙だった。
ワシントンの喧騒から遠く離れたフロリダ。ドナルド・トランプは、自身のゴルフコースの十八番ホールに立っていた。海風が、潮の香りと共に、切り揃えられたばかりの芝生の青い匂いを運んでくる。
「……大統領、新しい国境線の画定案が届きました。キエフもモスクワも、ようやく判を押したようです」
そばに立つ元補佐官が、タブレットを差し出す。トランプはパターを構えたまま、動かなかった。
「国境線か。紙の上に引いたインクの線に、どれほどの価値がある?」
トランプはパットを打たず、腰を伸ばして水平線を眺めた。
「土地は戻る。名前も書き換えられる。だが、CSISが数えたあの二五万人は、どこの土地にも戻らない。彼らは、歴史の帳簿に空いた、埋めることのできない巨大な『穴』なんだ。いいか、これが私の人生で最後の、そして最悪のディールだ。誰も何も得ていない。ただ、膨大な欠落だけが確定した」
トランプの声は、波の音にさらわれて、ひどく小さく響いた。
同じ頃、モスクワ。 かつて「皇帝」と呼ばれた男が座っていた椅子には、今、名前も顔も定かではない事務的な「委員会」の男たちが座っている。 街の空気は、張り詰めた糸が切れたような、奇妙な弛緩に包まれていた。 市場には、トランプが「商談の気配」としてチラつかせた西側の製品が、再び並び始めている。だが、それらを買い求める人々の顔に、かつての活気はない。 デパートの喧騒の中でも、人々はふとした瞬間に、隣にあるはずだった「不在」に気づき、口を閉ざす。
「……パパは、いつ帰ってくるの?」
公園のベンチ。春の柔らかな日差しの中で、幼い少女が母親のコートの裾を引いた。母親は、新しく書き換えられたばかりの教科書を膝に置き、震える指で娘の髪を撫でた。
「パパはね、歴史になったのよ」
「歴史って、なあに?」
「……誰も読み返したくない、悲しい頁のことよ」
母親の目からこぼれた涙が、教科書の真っ白な紙に染みを作った。 そこには「偉大な勝利」とも「悲惨な敗北」とも書かれていない。ただ、「停戦に至るまでの経緯」という、無機質な事実だけが並んでいた。二五万人という数字は、注釈の一行に押し込められ、それ以上の感情を拒絶していた。
ウクライナ。 再建の槌音が響くキエフの街角。だが、一歩郊外へ出れば、そこにはまだ、名もなき兵士たちのヘルメットが転がっている。
アレクセイは、故郷の村に戻っていた。 家は焼かれ、残っていたのは黒焦げの柱だけだった。彼はそこに座り、春の風を浴びていた。 風は、野の花の香りを運んでくるが、土を掘り返せば、今でも火薬の苦い味が喉の奥に蘇る。
「……おい、生きてたか」
声をかけてきたのは、かつて前線でパンを分け合ったウクライナの兵士だった。彼は今、ボランティアとして村の瓦礫を撤去している。 二人は、焼け残った石の上に並んで座った。
「トランプが去った後、アメリカのニュースを見たか? 奴らはもう、俺たちのことなんて忘れかけてる。新しい選挙だ、株価だ、ゴルフだと騒いでるよ」
ウクライナの男が、苦笑いしながら言った。
「それでいいさ」 アレクセイは、ひび割れた自分の手を見つめた。 「忘れられるのが、このディールの唯一の救いだ。プーチンも、トランプも、いつか歴史の塵になる。だが、俺たちの心に空いたこの穴だけは……どこの国境線でも埋められない」
二人は、それ以上何も話さなかった。 ただ、遠くで鳴る再建の音を聴いていた。 それは凱歌(がいか)ではない。 ただ、生き残ってしまった者たちが、欠け落ちた世界を繋ぎ合わせようとする、絶望的なまでに静かな、祈りのような音だった。
フロリダ。 トランプは、ついにパターを振り抜いた。 ボールは美しい放物線を描き、カップの中に吸い込まれた。コロン、という軽い音が響く。
「……ナイスインです、大統領」
補佐官が拍手をする。 トランプは、それを無視してボールを拾い上げた。 白く、汚れ一つないボール。
「穴は塞がった。だが、中には何もない」
トランプは、ボールをポケットにねじ込み、次のホールへと歩き出した。 彼の背中には、夕陽が長く伸びていた。 その影は、彼が「清算」した二五万人の亡霊たちを引き連れているかのように、どこまでも深く、暗く、大地に刻まれていた。
更迭は命令されなかった。 戦争は、世界がその重みに耐えきれなくなったことで終わった。 残されたのは、国境という名の新しい線と。 決して埋まることのない、二五万人分の、巨大な空白だけだった。
(完)
『更迭は命令されなかった』 春秋花壇 @mai5000jp
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