第8話|「休暇」という名の解任

モスクワの朝は、ひび割れた氷のような、鋭く冷たい沈黙で始まった。  二〇二六年一月。クレムリンの心臓部、大統領執務室。


 ウラジーミル・プーチンは、定刻通りに重厚なデスクに座った。  いつもなら、彼が椅子に触れる前に、内線電話が鳴り響き、最新の戦況と市場の動揺を伝える秘書の切迫した声が届くはずだった。  だが、金色の受話器は、墓標のように沈黙したままだ。


「……ヴェラ。お茶を」


 プーチンが声を出す。その声は、誰もいない広い部屋で不自然に反響した。  扉は開かない。  淹れたての紅茶の香りも、秘書のきびきびとした靴音も、そこにはなかった。  代わりに届いたのは、開いた窓の隙間から入り込む、極寒のモスクワの風がカーテンを揺らす乾いた音だけだった。


 プーチンは眉を潜め、デスクの上の呼び出しボタンを押した。  一度。二度。三度。  応答はない。


 彼は立ち上がり、扉を開けて廊下に出た。  そこには、いつも石像のように直立しているはずの護衛兵がいなかった。  数分後、交代の時間を大幅に過ぎて現れた若い兵士は、大統領と目が合っても、以前のような恐怖に満ちた敬礼を見せなかった。  その目は、まるで遠くの空き地でも眺めているかのように、空虚だった。


「交代の時間はどうした」 「……申し訳ございません。時計の調整に不備がありました」


 兵士の口から漏れたのは、見え透いた、しかし拒絶しようのない「無関心」だった。  時計が狂っているのではない。世界が、彼を「過去のもの」として扱い始めているのだ。


 同じ時刻。フロリダのトランプは、ゴルフカートのハンドルを握りながら、陽気にスマートフォンの画面をタップしていた。  投稿されたのは、一枚の写真。  空っぽの、しかし美しい夕焼けが見える豪華な椅子の写真。  添えられた言葉は、これだけだった。


『空席(バカンス)には、新しい風が必要だ。素晴らしい休暇を楽しんでくれ。ディールは、リフレッシュした連中と始めることにするよ』


 この投稿が世界を駆け巡った直後、ロシアの国営放送『チャンネル1』の画面が切り替わった。  流れてきたのは、重々しいクラシック音楽ではない。  ただの、静かな風景映像と、事務的なテロップだった。


『ウラジーミル・プーチン大統領は、長年にわたる激務による健康状態の悪化を考慮し、本日より無期限の静養に入ります。職務は、暫定統治委員会へと引き継がれます』


 更迭という言葉は、どこにもなかった。  クーデターという劇的な響きも、逮捕という屈辱的な響きも。  ただ、「休暇」という名の、二度と戻れない出口。


 執務室に戻ったプーチンは、鳴らない電話をじっと見つめていた。  彼は気づいた。  トランプが放った「商談の気配」に誘われた側近たちが、自分を「解任」するのではなく、自分を「透明」にすることで、新しい世界への切符を手に入れたのだということに。


「……休暇、か」


 プーチンは独り言ちた。  指先が、デスクのチーク材をなぞる。  かつて世界を震撼させたその手は、いまや微かに震えていた。  怒りではない。  あまりにも静かに、あまりにも「効率的」に、自分が歴史の帳簿から消し込まれたことへの、理知的な戦慄だった。


「命令は……されなかったな」


 彼は、窓の外に広がる、一面の白銀の世界を見つめた。  そこには、二五万人の亡霊たちが、雪の結晶となって静かに降り積もっているような気がした。


 扉の外から、ようやく複数の足音が近づいてくる。  それは彼を守るための音ではない。  彼に、新しい「静養先」への案内状を届けるための、事務的な足音だった。


 世界はこれを「更迭」と呼ぶだろう。  だが、この部屋に残されるのは、ただ一人の老いた男と、二度と鳴ることのない、金色の電話機だけだった。


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