第7話|インビジブル・ハンド(見えざる手)
モスクワ。凍てつく夜の静寂を切り裂くように、最高級の毛皮を纏った男たちが、看板のないプライベート・クラブへと吸い込まれていった。 そこには、オリガルヒ(新興財閥)の首領たち、軍の兵站を握る将軍、そして秘密警察の幹部が集まっていた。
かつての彼らなら、キャビアを頬張りながら「皇帝」への忠誠を競い合っただろう。しかし、今、彼らのテーブルに並んでいるのは、冷え切ったウォッカと、何台ものスマートフォンだけだ。
「……また、新しい投稿があったぞ」
エネルギー利権を一手に握るオリガルヒのボリスが、画面を仲間に向けた。 画面の中では、フロリダの太陽の下、トランプが自身のゴルフ場の芝を満足そうに見つめている。添えられた言葉は、一見、政治とは無関係なものだった。
『素晴らしい土地だ。ここには未来がある。誰であれ、ビジネスができる友人を私は歓迎する。ただし、過去に囚われている連中はお断りだ。帳簿は新しく書き換えられなければならない』
「ビジネスができる友人、か」 軍の補給を司るイワノフ将軍が、苦い酒を飲み下しながら呟いた。 「トランプは『プーチンを倒せ』とは一言も言っていない。ただ、プーチンがそこにいる限り、自分は帳簿を開かないと言っているんだ」
「インビジブル・ハンド……見えざる手だな」 情報機関の幹部、ニコライが影の中から口を開いた。彼の瞳には、冷徹な計算の色が宿っている。 「トランプは、我々の欲を突いている。彼がちらつかせているのは、制裁解除後の莫大な利益だ。ロシアの石油が再び世界を回り、我々の資産が自由に動き出す未来。だが、そのドアの前に、今の『王』が立ちはだかっている。トランプはただ、ドアの鍵を見せびらかしながら、我々が自ら障害物を取り除くのを待っている」
室内の空気が、にわかに熱を帯びた。それは怒りではなく、獲物を見つけた狩人の熱狂だった。
「二五万人の若者の死を、我々は『愛国』という名で正当化してきた」 ボリスが、贅沢な革張りの椅子を軋ませた。 「だが、トランプはそれを『ひどい投資だ』と笑っている。そして、市場も彼に同意している。我々がいくら忠誠を誓っても、この国が『不良在庫』である限り、我々の富は溶けていくばかりだ」
「密談は必要ない」 ニコライが、スマートフォンをテーブルの中央に置いた。 「我々が今、何をすべきか。言葉にするまでもないだろう。トランプの次の投稿が出るまでに、我々という組織の『摩擦係数』を最大にするんだ。王が右と言えば左へ、進めと言えば止まる。彼を更迭する必要はない。ただ、彼を『無効化』すればいい」
セリフが重なるたびに、クレムリンを支えていた見えない柱が、一本、また一本と腐食していく音が聞こえるようだった。
ワシントン。ホワイトハウスのプライベート・シネマ。 トランプは、大好物のポップコーンを片手に、古い西部劇を眺めていた。
「大統領、モスクワのネットワークに動きがあります」 影のように現れた補佐官が、耳元で囁く。 「オリガルヒたちが、密かにドバイ経由で我々のビジネスパートナーと接触を図っています。彼らは、プーチン後(ポスト・プーチン)の資源価格について、具体的な数字を知りたがっているようです」
「そうか。お腹を空かせた連中に、ステーキの匂いだけを嗅がせてやった甲斐があったな」 トランプは、画面から目を離さずにニヤリと笑った。
「彼らはプーチンが嫌いなわけじゃない。ただ、自分たちの財布が軽くなるのが我慢できないだけだ。プーチンは彼らにプライドを与えたが、私は彼らに『利益』という実感をチラつかせた。プライドでは腹は膨らまないが、ディールは富を生む」
トランプは、ポップコーンを口に放り込み、カリカリと小気味よい音を立てた。
「いいか、更迭は私がやるんじゃない。奴ら自身が、自分たちの王を『コスト』だと認識した瞬間、更迭は完了するんだ。私はただ、スマートフォン越しに、最高に美味しそうな『商談の気配』を送り続けてやるだけだ」
トランプが次の投稿ボタンを叩いた。 『未来は明るい。準備ができている連中から、順番に中に入れてやろう』
その短い一文が、モスクワの闇に潜む男たちの指先を震わせた。 合意は成された。 言葉によらず、署名によらず。 ただ、世界という巨大な市場が、一人の男を「不要」だと判断した。 インビジブル・ハンド――見えざる手。 それが、プーチンの首元に、音もなく、しかし決して逃れられない強さでかかろうとしていた。
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