第6話|25万人の亡霊たち
フロリダの陽光は、あまりにも明るく、あまりにも残酷だった。マール・ア・ラーゴのプライベート・ダイニング。窓の外では、完璧に手入れされた芝生の上を、自動芝刈り機が静かに滑っている。室内には、焼きたてのベーコンの脂の香りと、濃いめに淹れられたコーヒーの匂いが立ち込めていた。
ドナルド・トランプは、白いポロシャツの襟を少しだけ直し、銀のフォークでスクランブルエッグを口に運んだ。彼の向かいには、顔色の悪い国務長官と、数人の軍事顧問が、手付かずの朝食を前に座っている。
「……大統領、ロシアからの情報が不気味なほど途絶えています」
国務長官が、低い声で切り出した。
「沈黙です。プーチンは公式な反応を示さず、軍も凍りついたまま動かない。CSISの『二五万人死亡』という数字が、あちらの国内でどう作用しているのか、我々の情報網でも掴みきれていません」
トランプは、コーヒーを一口啜り、カップをカチャリと音を立てて皿に戻した。その目は、窓の外の青い空を見つめているようでいて、別のものを見ていた。
「二五万、か。気の毒な話だな。だが、お前たちは計算が甘い」
トランプは、ナプキンで口元を拭い、身を乗り出した。
「二五万人の若者が死んだということは、その背後には少なくとも一〇〇万人の、怒り狂った遺族がいるということだ。母親、父親、妻、そして子供たちだ。いいか、そいつらは今、キッチンで、あるいは地下鉄の隅で、真っ暗な顔をして座っている。そいつらは、プーチンがいくら戦勝記念日にパレードをしようと、もう旗を振ることはない」
「彼らは沈黙しています、大統領。恐怖が彼らを縛っている」
「いや、違うな」 トランプは首を振った。
「恐怖じゃない。そいつらは今、『絶望の清算』をしている最中なんだ。二五万人分の命という資産が、ドブに捨てられた。その穴を、プーチンの演説が埋めてくれるか? 埋められるわけがない。一〇〇万人の怒り……それは、どんな最新鋭の核兵器よりも、どんな精鋭部隊よりも恐ろしい力だ。そいつらが一度、一斉に『もう嫌だ』と呟いてみろ。帝国なんて、一晩で砂の城みたいに崩れる」
トランプの声には、長年ビジネスの修羅場で「倒産の予兆」を嗅ぎ取ってきた者特有の、冷え冷えとした確信があった。
「私は奴らを煽らない。可哀想だとも言わない。ただ、こう呟くだけだ。『清算の時間だ。出口はあっちにあるぞ』とな」
数時間後。 この会談の内容の一部が、まるで意図的な「漏洩(リーク)」のように、インターネットの海へ放流された。トランプが漏らした「一〇〇万人の遺族という軍隊」という言葉。それは、ロシアの厳しい検閲網の網目をすり抜け、青白いスマートフォンの画面を通じて、モスクワやサンクトペテルブルクの中間層へと伝播していった。
モスクワの古いアパート。 夕食のスープから上がる湯気の向こうで、一人の女性が画面を見つめていた。彼女の息子は、一年前から連絡が取れなくなっている。
「出口……」
彼女は、トランプのその言葉を、掠れた声で繰り返した。 その言葉には、不思議な響きがあった。それは救済の約束ではなく、ただ「この悪夢には終わりがある」という、あまりにも当たり前の事実を突きつけるものだった。
これまでのプロパガンダは、ロシア人に「耐えること」を強いてきた。耐えれば勝てる。耐えれば英雄になれる。だが、海の向こうの、あの予測不能な大統領は、勝敗の話などしていない。ただ、帳簿の穴の大きさを指摘し、そこから逃げ出すためのドアがどこにあるかを、指し示しているだけなのだ。
ロシアの中間層――昨日まで、政治を無視し、静かに暮らすことで自分たちの生活を守ろうとしていた人々。彼らの心の中で、プーチンという「絶対的な壁」に、初めて細い亀裂が入った。
「トランプは、私たちの息子を返せとは言っていない」
アパートの暗い廊下で、隣人同士が密やかに囁き合う。
「彼はただ、死んだ二五万人は帰ってこないと言った。そして、私たちがその死を『無駄だ』と認める勇気を持つのを、待っているだけなんだ」
五感に刺さるような冷たい不安が、ロシア全土を包み込む。 だが、その不安の底には、今までになかった微かな「予感」が混じっていた。 出口。 戦争が終わる日は、プーチンが勝利を宣言する日でも、ウクライナがモスクワに攻め入る日でもない。 自分たちが、この巨大な「負の遺産」を背負いきれないと認め、椅子から立ち上がる日だ。
トランプの言葉は、火薬のような爆発力を持たなかった。 その代わり、静かに細胞を壊していく放射能のように、ロシアという国家を内側から変質させていった。
再び、フロリダ。 トランプは、デザートのアイスクリームにたっぷりとチョコレートシロップをかけながら、部下からの報告を聴いていた。
「ロシアのSNSで、トランプ大統領の言葉を引用した投稿が爆発的に増えています。反乱の兆候ではありません。ただ……みんなが、同じ方向を向き始めました」
「ああ、それでいい。それでいいんだ」
トランプはアイスクリームを一口、満足そうに頬張った。その冷たさが喉を通る。
「二五万人の亡霊が、一〇〇万人の生きた遺族を連れて、クレムリンの廊下を歩き始める。そうなれば、もう私が出る幕じゃない。プーチンは、自分の机に座ったまま、自分を支える地面が消えていくのを見るだけだ」
トランプはスプーンを置き、窓の外の、穏やかなマール・ア・ラーゴの夕暮れを眺めた。 夕焼けの赤は、かつての戦場の色に似ていた。 だが、ここで聞こえるのは、風に揺れるヤシの木の葉音と、遠くで鳴る波の音だけだ。
「さあ、次のディールを始めようか」
彼がそう呟いた時、三千キロ先のモスクワでは、一人の若者が、二五万分の一としての自分の死を拒絶するために、初めてその足を一歩、外の世界へと踏み出していた。
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