第5話|王は命令されない

クレムリンの廊下は、まるで深い水底のような静寂に沈んでいた。  かつてそこには、野心に燃える靴音や、権力の甘い香りに群がる者たちの囁きが絶えなかった。しかし今、廊下を支配しているのは、ただ重苦しい冬の冷気と、誰とも視線を合わせようとしない廷臣たちの「気配」だけだ。


 ウラジーミル・プーチンは、広大な執務室の窓際で、凍りついたモスクワ川を眺めていた。背後には、署名を待つ書類が山を成している。だが、彼が椅子に座り、万年筆を手に取っても、その先にあるはずの「結果」が、霧のようにぼやけて見えた。


「……ショイグはどうした。弾薬の増産計画の報告が、三日遅れている」


 プーチンの声は、かつての鋭さを保とうとしていたが、広い室内で虚しく反響した。  扉のそばで直立していた若手の副官が、微かに喉を鳴らした。彼の軍服からは、安っぽい煙草と、拭いきれない焦燥の匂いが漂っている。


「閣下……ショイグ長官は現在、製造ラインの『再点検』を行っております。トランプ政権による新たな金融規制の影響で、基盤部品の輸入ルートが不明確になり、現場が混乱しているとのことで……」


「再点検だと? 一週間前にも同じことを言っていたはずだ」


「申し訳ございません。各部署との調整に、想定以上の時間がかかっております」


 プーチンはゆっくりと振り返った。その眼光は、裏切り者を即座に見抜くかつての「皇帝」のそれだった。だが、副官は目を伏せたまま、石像のように動かない。反抗しているのではない。ただ、彼の中に、命令を完遂しようという「熱」が、どこにも存在しないのだ。


「調整……。貴様たちの言う『調整』とは、誰が責任を取るかを押し付け合っている時間の別名か?」


 副官は答えなかった。  権力とは、物理的な力ではなく、下位の者が上位の者の意志を「自分自身の未来」と信じることで成立する幻想だ。しかし今、クレムリンを覆っているのは、究極の無気力だった。


 トランプが放つ「沈黙の毒」が、ロシアという組織の神経系を麻痺させていた。  アメリカは攻撃してこない。対話も拒まない。ただ、ロシアという存在を「清算待ちの不良在庫」として、淡々と眺めている。その視線が、ロシアの官僚たちに、自分たちの忠誠がいかに「無価値」であるかを、残酷なまでに理解させてしまった。


 命令が、届かない。  プーチンが「攻撃しろ」と言えば、現場の将軍は「燃料の品質を確認中だ」と答える。「増産しろ」と言えば、工場の管理者は「電力供給の安定性を精査している」と答える。  誰も「できない」とは言わない。ただ、実行の歯車が、目に見えない砂を噛んだように、ギリギリと音を立てて停止していく。


 これが、摩擦係数の最大値だ。  プーチンが力を込めれば込めるほど、組織は熱を帯びて摩耗し、一歩も前に進まなくなる。


「二五万人の死……。CSISのあの数字が、連中の足を鈍らせているのか」


 プーチンは、デスクの端に置かれた報告書を、払いのけるように床に落とした。  紙が散らばる音さえも、この部屋の沈黙を破るにはあまりに弱々しかった。


「閣下……」


 副官が、震える声で付け加えた。


「外務省のラブロフも、トランプの側近からの『返信がない』という事実を、重く受け止めております。彼らは我々を敵としても、パートナーとしても扱っていない。ただ……存在しないものとして扱っている。このままでは、我々の次の命令が、誰に、何のために出されるべきなのか……現場が、その根拠を見失っております」


 プーチンは、冷え切った指先を組んだ。  かつて、彼は恐怖でロシアを統治した。恐怖は、人を動かす。  だが、トランプが持ち込んだのは「虚無」だった。  どんなに叫んでも、どんなに核のボタンに手をかけても、海を隔てた男はゴルフをしながら「それは高くつきすぎる」と、鼻で笑うだけだ。


 王は更迭されていない。  だが、王が座る玉座から伸びるはずの無数の糸が、一本、また一本と、暗闇の中で音もなく断ち切られていく。


「……誰も、私を更迭しろとは言わない。そうだろう?」


 プーチンの問いに、副官は答えなかった。ただ、一礼して、音を立てずに部屋を去った。    残されたのは、世界で最も孤独な王と、二五万人の死者が吐き出す、氷のような沈黙だけだった。    プーチンは再び窓の外を見た。  雪は、すべてを優しく、そして冷酷に覆い隠していく。  彼はまだ王だった。だが、彼が発する「命令」が、扉の外に届くことは、もう二度とないのだ。


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