第3話|臨界点のノイズ
モスクワの冬の夜は、すべてを凍らせる。吐き出す息は白く、街灯の光に舞う粉雪は剃刀のように冷たい。だが、地下鉄の深いエスカレーターを降りていく人々が手に持つスマートフォンの画面は、異様な熱を帯びていた。
「おい、見たか。また更新されたぞ」
駅のホームの隅、安酒の匂いと古びたコートの湿り気が混じり合う場所で、二人の若者が声を潜めていた。一人の画面には、西側のシンクタンク『CSIS』のロゴが入った、簡素なグラフが表示されている。
「二五万。……二五万人だぞ、ボリス。僕たちの町が二つ、丸ごと消えたのと同じ数字だ」
「しっ、声を出すな。……だが、これ、加工されてない本物らしい。大統領府のプロパガンダじゃなくて、ただの『集計』だ。アメリカの新しい大統領は、これを隠そうとも、声高に非難しようともしていない。ただ、そこに置いてあるだけだ」
かつては「西側のデマ」として一蹴できた。しかし、今やその数字には血の通った「実感」が伴っている。隣の部屋の息子が帰ってこない。工場の同僚が音信不通だ。二五万という数字は、ロシア全土の食卓にある「空席」の数と、残酷なまでに一致し始めていた。
一方、ワシントン。 ドナルド・トランプは、執務室のソファに深く沈み込み、テレビの音を消して、手元の分厚いレポートをパラパラと捲っていた。
「大統領、SNSでの拡散が止まりません。ロシアの若者たちは、あなたがこの数字について、いつ声明を出すのかと手ぐすね引いて待っていますよ」
補佐官が、タブレット端末を差し出す。そこには『#250000』というハッシュタグと共に、ロシア国内から発信される悲痛な投稿が並んでいた。
「声明? そんなもの、出すわけないだろう」
トランプは、手元のチェリーコークを一口啜り、ゲップを一つ漏らした。
「私が『お気の毒に』なんて言ってみろ。プーチンはすぐに『西側のプロパガンダだ!』と叫んで、国民の愛国心に火をつける。だが、私が黙っていればどうなる? 奴らは、自分の鏡に映る自分の顔を見るしかなくなる。私は関心がないんだ。二五万人が死のうが、五〇万人が死のうが、ディールが成立しないなら、それはただの『悪い数字』に過ぎない。……その『無関心』こそが、奴らを一番狂わせるんだ」
トランプの瞳には、かつてのショーマンシップとは違う、冷徹な観察者の色が宿っていた。彼は知っている。恐怖よりも、怒りよりも、人を変えるのは「見捨てられた」という実感であることを。
モスクワ、大統領府の通信局。 そこは、機械が発する熱気と、極度の緊張がもたらす酸っぱい汗の匂いで満ちていた。
「検閲が追いつきません! VPN経由で、数字が、ノイズが、どんどん入り込んできます!」
若手の局員が叫んだ。彼の目の前のモニターには、トランプの最新の投稿が映し出されている。そこには政治的なメッセージは何一つなく、ただゴルフコースを歩くトランプの後ろ姿と、『素晴らしい日だ!』という一文だけが添えられていた。
「なんだ、これは……。我々の国で二五万人が死んでいるというのに、奴は……奴はゴルフの話をしているのか?」
その「無視」は、ロシアのプライドを根底から打ち砕いた。かつての冷戦のように、敵として対等に扱われているのなら、まだ耐えられた。だが、今、アメリカという巨大な存在にとって、ロシアの悲劇は「ニュースの隅」にすら載らない、取るに足らない出来事として扱われている。
プーチンの執務室。 彼は、深夜の静寂の中で、インターネットの海を漂う「ノイズ」を独りで見つめていた。 画面の中では、戦死者の母親たちが、言葉少なに自分たちの街の墓地の写真を上げている。
「……トランプ。お前は何を企んでいる」
プーチンの指が、震えた。 彼がどれほど核の威嚇をしても、トランプは「ああ、そうか。ところで、来月の貿易赤字の話だが」と、別の帳簿を開くだけだ。ロシアが命を懸けて守ろうとしている「帝国の誇り」を、トランプはただの「効率の悪いコスト」として、ゴミ箱に捨てようとしている。
「閣下、国内の不満が……臨界点を超えようとしています」
側近の声は、もはや恐怖に震えていた。
「人々は、プーチンが悪いと言っているのではないのです。……『自分たちは、無駄死にしているのではないか』。その疑念が、ノイズとなって国中を覆っている。トランプが何も言わないせいで、私たちは、自分たちの正しさを証明する相手さえ失ってしまった」
プーチンは、執務室の大きな窓を開けた。 凍てつく風が入り込み、卓上の書類を散らす。
遠くで、深夜のモスクワを走るパトカーのサイレンが聞こえる。 それはかつての秩序の音ではなく、崩壊を予感させる断末魔のように響いた。
「二五万……」
プーチンは、初めてその数字の重さを、自身の肺に吸い込む冷気と共に感じた。 アメリカは、攻撃してこない。 ただ、背中を向けて、自分たちが消えていくのを待っている。 その「静かな無視」という名のノイズが、どんな弾道ミサイルよりも正確に、ロシアという国家の精神的な防壁を、内側から食い破っていた。
「帳簿を閉じるのは……私ではないというのか、トランプ」
闇の中で、王は独り言ちた。 返る言葉はない。ただ、スマートフォンの青白い光に照らされた、名もなき二五万人の影が、部屋の隅々にまで満ちていた。
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