第2話|沈黙のアービトラージ(裁定取引)

モスクワ郊外、ノヴォ・オガリョボの大統領公邸。  暖炉の中で爆ぜる白樺の薪の音が、重苦しい沈黙をかえって際立たせていた。部屋を支配しているのは、古びた書物の埃っぽさと、高級なコニャックの鼻を突く芳香、そして、目に見えない「停滞」の予感だった。


 ウラジーミル・プーチンは、革張りの椅子の肘掛けを指先で叩いていた。そのリズムは、彼が苛立ちを隠すときにだけ現れる、軍隊のような正確な刻みだ。


「……トランプは、まだ何も言ってこないのか」


 部屋の隅に控えていた側近が、苦虫を噛み潰したような顔で首を振った。


「公式な通信は途絶えたままです。首脳会談の打診も、制裁緩和の条件提示もありません。ただ、米国財務省が昨夜、奇妙な『通達』を市場に出しました。ロシアの天然ガスを扱う第三国の銀行に対し、『今後の規制対象になるか否かは、我々の気分次第だ』という内容です」


「気分次第だと?」


 プーチンは、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。  かつてのバイデン政権は、予測が可能だった。彼らは「正義」や「人権」という物差しを振り回し、明確な制裁のラインを引いた。ラインがあれば、それを回避する「抜け穴」を作ることもできた。だが、今のホワイトハウスから届くのは、不透明な霧のような不気味な沈黙だけだ。


「彼は制裁を強化もしなければ、解除もしない。ただ、市場に『明日の朝、すべてがゴミになるかもしれない』という毒を撒いている。……これは、戦争ではないな。経済的な拷問だ」


 同じ頃、ワシントンの執務室。ドナルド・トランプは、マクドナルドのフィレオフィッシュの包み紙を乱暴に開きながら、電話の受話器を肩で支えていた。


「いいか、交渉っていうのは、相手にカードを見せることじゃない。相手の持っているカードを、ただの紙切れだと信じ込ませることだ」


 相手は、ウォール街の巨大ファンドを動かす旧知の親友だった。


「ドナルド、市場はパニックだよ。君がロシアの石油を市場に戻すのか、それとも完全に封鎖するのか、誰も読み切れない。原油先物は一時間ごとに十ドル単位で乱高下している。投資家たちは君のTwitter……いや、公式声明を、飢えた狼みたいに待っているんだ」


「待たせておけ。腹が減れば減るほど、人間は安いパンでも飛びつくようになる」


 トランプは、タルタルソースが少しはみ出したバーガーを頬張り、咀嚼しながら笑った。


「プーチンは数学が得意なつもりだろうが、奴が使っているのは古い教科書だ。西側が怒っている間は、奴は自分が強いと確信できる。だが、西側が『退屈だ』と言い始めたら、奴の価値はゼロになる。私は奴を怒らせない。ただ、奴を無視して、市場に『不確実性』という毒を混ぜるだけだ。奴が売ろうとしている石油に、誰が値を付けられる? 明日の朝、その石油が違法になるかもしれないという恐怖がある中でな」


 電話を切ると、トランプはデスクの上のモニターを眺めた。そこには刻一刻と変化する世界の株価指数と、ロシア軍の死傷者数推計が並んで表示されている。


「二五万人……。これだけの男たちが死んで、手に入れたのは市場から見捨てられた荒野だけか。プーチン、お前は本当にディールが下手だな」


 再び、モスクワ。  プーチンは、窓の外の深い雪を見つめていた。  かつて彼を熱狂的に支持したオリガルヒ(新興財閥)たちからの連絡が、目に見えて減っていた。彼らは今、モスクワの権力者に媚びを売るよりも、ワシントンの「気まぐれ」で自分たちの海外資産が凍結されるのを防ぐため、独自のルートでアメリカに接触を図ろうとしている。


「閣下、前線の補給に滞りが出ています」


 軍の将官が、冷や汗を拭いながら報告を続けた。


「中国経由の半導体調達が止まりました。北京側は『トランプ政権の貿易方針が不明確なため、リスクは負えない』と回答しています。彼らは、アメリカとの大規模な貿易摩擦を避けるため、我々を一時的に『棚上げ』にしたようです」


 プーチンは、グラスをテーブルに叩きつけた。鋭い音が、静かな部屋に響き渡る。


「棚上げだと? 私を、ロシアを、ただの不良在庫のように扱うというのか」


 怒りで視界がわずかに赤く染まった。しかし、その怒りを向けるべき対象がどこにもいなかった。トランプは宣戦布告をしていない。ただ、「何もしない」という権利を行使しているだけなのだ。


 敵がこちらを睨みつけているうちは、まだ対等だった。  だが、今、トランプが見ているのは、自分ではなく、その背後にある「市場」という巨大な怪物だった。


「……アービトラージ(裁定取引)か」


 プーチンは、絞り出すように呟いた。  価値の歪みを突き、リスクなしに利益を得る手法。トランプは、戦争という巨大な不条理を、ただの「市場のバグ」として処理しようとしている。


「奴は、私の二五万人の兵士の死すら、コストの一部として計算しているのか。……許しがたい」


 公邸の廊下を歩くプーチンの耳に、遠くで鳴る電話のベルが聞こえた。  それは彼への報告ではなく、誰かが誰かに「逃げ道」を確認するための密談のように感じられた。    冷たい汗が、プーチンの背中を伝う。  かつての冷戦のような、核の影を背負った緊迫感はない。  ただ、自分の足元にある国家という巨大な船が、浸水しているのではなく、いつの間にか「無価値」という名の底なし沼に沈み込んでいることに気づいたのだ。


 ワシントンのオーバルオフィス。  トランプは、食べ終わったバーガーの包み紙を丸めて、ゴミ箱に放り投げた。見事な放物線を描いて、紙屑は収まるべき場所に収まった。


「さて。次は、誰が最初に『ギブアップ』と言いに来るかな。……プーチン、お前じゃない。お前の周りにいる、金と命が惜しい連中だ」


 トランプは、窓の外の冬の空に向かって、静かにウインクをした。    世界を操っているのは、正義でも理想でもない。  明日を信じられなくなった者たちの、さもしい「計算」なのだ。  不確実性という名の毒は、すでにモスクワの心臓部にまで回っていた。


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