第1話|帰ってきた「変数」

湿った雪の匂いが、ホワイトハウスの大統領執務室――オーバルオフィスを支配していた。


 二度目の着任。窓の外、ワシントンD.C.の冬は、かつて去った時よりもどこか重く、煤けて見える。ドナルド・トランプは、チーク材の重厚なデスクに深く背を預け、目の前の山を眺めていた。それは情報の山であり、同時に「死」の山だった。


「二五万、か」


 トランプが低く呟いた。その声は、かつての集会で見せた熱狂的な煽動者のものではない。喉の奥にこびりついた、乾いた砂を噛むような、ひどく現実的な実業家の声だった。


「ええ、CSISの最新の推計です。ロシア軍の死者数だけで二五万。負傷者を含めれば、一〇〇万に届く勢いだ。大統領、これが『勝利』の原価ですよ」


 デスクの対面に立つ大統領補佐官は、淹れたてのコーヒーの湯気の向こうで、顔を顰めた。執務室には、高級な革の香りと、わずかに焦げたような暖房の匂いが混じり合っている。


「原価だと? 笑わせるな」


 トランプは、指先でレポートの端を弾いた。パサリ、という紙の音が、不気味なほど静かな室内に響く。


「これは原価じゃない。これは『ディールに失敗したツケ』だ。プーチンは算数ができなかった。バイデンは、帳簿の書き方を知らなかった。そして世界は、この数字がゼロになるまで踊り続けようとした」


「マスコミも、同盟国も、あなたが今日にもゼレンスキーとプーチンを電話で繋ぐと踏んでいますよ。『二十四時間で終わらせる』。あなたの言葉だ」


 補佐官の言葉に、トランプは唇を歪めて笑った。それは、獲物を前にした狩人の笑みというよりは、あまりにも馬鹿げた欠陥商品を見せられた熟練バイヤーのそれだった。


「電話? そんなもの、今さら何の役に立つ。いいか、連中が期待しているのは『和解の抱擁』だ。だが、死んだ二五万人は誰とも抱擁できない。彼らはもう、数字の中にしかいないんだ。私がやるのは和平交渉じゃない。清算だ」


 トランプは立ち上がり、ゆっくりと窓の方へ歩いた。窓ガラスに触れると、指先からしんしんと冷たさが伝わってくる。


「……連中は私を予測不能だと恐れている。カオスだとな。だが、本当のカオスは、終わらせる方法を知らずに弾丸を垂れ流し続ける、あの臆病な『秩序』の方だ。見てろ、私は今日、一言も『平和』とは言わない」


 一時間後、彼は全世界が注目する勝利演説の壇上にいた。


 冷たい風が、彼のトレードマークである金髪を乱す。カメラのフラッシュが、かつての派手な光景とは違い、どこか処刑台の閃光のように鋭く突き刺さる。群衆の熱狂、叫び、期待。それらが肌に刺さるのを感じながら、彼はマイクの前に立った。


 聴衆は、劇的な和平合意の宣言や、あるいはロシアへの最後通牒を期待して息を呑んだ。だが、トランプの口から出たのは、あまりにも散文的で、冷え切った言葉だった。


「世界中に、私の友人だった者、敵だった者、そして今、ただ怯えているだけの者がいる。彼らに伝えよう。……帳簿を閉じる時間だ」


 会場が、一瞬の静寂に包まれた。熱狂が、困惑という名の冷水によって急速に冷えていく。


「我々は、計算を間違えた。誰もが勝とうとしたが、誰も『負け方』を学ばなかった。アメリカはもう、他人の不渡り手形を買い取ることはしない。二五万人の命が、冷たい土の下で眠っている。彼らは二度と立ち上がらない。それが、このディールの最終的な収支報告だ。私は、これ以上一ドルの無駄も、一人の命という資産の毀損も許さない」


 彼は一度も、ウクライナという名を出さなかった。プーチンの名も。  ただ、「コスト」と「時間」の話だけをした。


 演説を終え、再び執務室に戻ったトランプは、椅子に座るなり、ネクタイを緩めた。その指先は、わずかに震えていた。怒りでも、興奮でもない。この巨大な、目に見えない「負債」の重みを、誰よりも早く察知してしまった者の戦慄だった。


「大統領……今の演説では、何も解決しません。市場は混乱し、クレムリンは沈黙し、キエフは絶望するでしょう」


 補佐官が、恐る恐る口を開いた。


「それでいい。それでいいんだ」


 トランプは、デスクに置かれた一枚の写真――荒野に放置された戦車の残骸と、その傍らに落ちた名前も知らぬ兵士のヘルメットの写真を、じっと見つめた。


「絶望が一番の良薬になることもある。プーチンはいま、私が何を言い出すか必死に分析させているだろう。バイデンなら、こう言う、NATOなら、こう動く。だが、私は何もしない。ただ、彼に『自分がいかに高くつきすぎる存在か』を、鏡の前で思い出させてやるだけだ」


 トランプは、高級なペンを手に取り、CSISのレポートの「二五万」という数字を、太い黒線で囲んだ。


「二五万人……これだけの人間を殺して、まだ椅子に座っていられると思っているのなら、彼はビジネスを分かっていない。私は彼を更迭しない。彼を更迭するのは、彼自身の重みだ。私はただ、その重みを支えている杖を、音もなく取り上げるだけだ」


 執務室の窓の外で、雪が激しさを増していた。  すべてを白く塗りつぶし、音を奪っていく雪。


 トランプは、淹れ直されたコーヒーを一口飲み、その苦さに顔をしかめた。


「……冷えているな。世界も、このコーヒーも」


 彼は背もたれに身を預け、目を閉じた。  耳の奥で、まだ誰も聞いたことのない、巨大な氷山が内側から崩落するような音が、確かに聞こえた気がした。


 それは、英雄による劇的な勝利でもなく、正義による裁きでもない。  ただ、世界という巨大な機構が、あまりの疲労に耐えかねて、きしみを上げ始めた音だった。


 トランプは、その音を指揮するように、指先で小さくリズムを刻んだ。  第1話、変数は戻ってきた。  だが、その変数が導き出す答えは、誰にとっても救いのない、残酷なまでに公平な「計算結果」でしかなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る