『更迭は命令されなかった』 ――戦争が終わった日、誰も勝者ではなかった

『更迭は命令されなかった』

――戦争が終わった日、誰も勝者ではなかった


凍てついた帳簿が 執務室の机で音もなく閉じられる 二十五万という数字は インクの染みとなって 歴史の頁を汚した


誰かが王に 剣を置けと言ったわけではない 誰かが民に 顔を上げろと叫んだわけでもない ただ、風向きが変わったのだ 金と、鉄と、体温の 損益分岐点を超えて


海を隔てた男は 何も約束しなかった ただ 沈黙という名の毒を 回路に流し込み 「効率が悪い」とだけ 背中で語った その冷徹な合理が 祈りよりも速く 鎖を断った


王の電話は鳴り止み 廊下からは 跫音(あしおと)が消えていく 「更迭」という言葉すら 贅沢すぎる終焉 彼はただ 昨日までの自分という影に 置き去りにされただけだった


前線に 突然の静寂が訪れる 勝鬨(かちどき)をあげる喉は とうに枯れ果て 兵士たちは 泥にまみれた銃を杖に 帰るべき場所のない 地図を眺めている


戦争が終わったのではない 世界が これ以上の痛みに耐えられなくなっただけだ 二十五万の空席が 食卓のあちこちで口を開け 勝利という名の空虚を 飲み込んでいく


祝杯の酒は 砂の味がした 英雄はどこにもおらず ただ 生き残ったという重荷だけが 灰色の空から しんしんと降り積もる


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