第十七章

 前へ前へと送る足が重くなりはじめたころ、霧に煙る薄闇が少し赤みがかって見えた。それを疑問に思う間もないうちに、突然、周囲の霧が晴れた。

「ちょ待って!? 今度はなに!?」

 疲れを感じることのない逢恋だけが驚きに声を上げ、俺とノエルは二人揃ってその場に膝をついた。

 肩で息をしながら周囲を見渡すと、そこは閑静な住宅街だった。依然、足元には線路が続いているが、地面のアスファルトと上がったままの遮断機を見るに、どうやら俺たちは踏切のど真ん中にいるようだ。

「あれ!? 助かったんじゃない!? なんか夕方に戻ってっし!」

 見上げた空は先ほどまでの闇夜とは違い、沈みかけた夕日が厚い雲を鮮やかに色付かせていた。

「はあっ……! だといいがな……! ふぅっ……!」

 背後を見ても、何の変哲もない線路のある風景が広がっているだけだ。その長閑さに、ほっと胸を撫で下ろす。

 ――その視界の中で、ノエルがその場にうずくまっているのが見えた。

「ノエル……? どうした……?」

 体を丸め、ぜえぜえと音を漏らしながら、彼は背中を上下させている。

「のえるん!? 大丈夫!?」

 逢恋が慌てて駆け寄り、身を屈めて彼の背に手を触れると、ノエルは彼女のほうへと倒れ込んだ。必死に喘ぐその顔色は、ひどく青ざめて見えた。

「……Hyperventilation, 『過呼吸』、デスね」

 聞き覚えのある声に振り向くと、そこにはフラヴィアさんが立っていた。

「すぐそこにコウエンがありマス。まずはノエルくんを、そこまでハコびマショウ」


 近くに自販機が見当たらず、ようやく手に入れたスポーツドリンクを携えて公園に戻るころには、ノエルはすっかり落ち着いていた。

「まだワカいんデスから、フダンからウンドウしておかないとダメデスよー?」

「す、すみません……」

 目の前で見下ろすフラヴィアさんに窘められ、ノエルはベンチに腰掛けたまま小さく縮こまっている。

 彼女が言うには、先ほどまでのノエルは急激な運動によって呼吸が乱れ、過呼吸気味になってしまっていたらしい。まだ少し息は荒いままだが、それでも正常な受け答えができるくらいには回復したようだ。

「イマのジキはネッチュウショウにもキをツけないといけマセン。カオルくんにノみモノをカってキてもらいマシタから、しっかりノんでクダサイね」

 それを聞き、ノエルは少し驚いたあと、申し訳なさそうな表情で俺からペットボトルを受け取った。

「まあ、ムリもないデスね。それだけ、コワいオモいをしたということデショウから……」

 俺のいない間に、二人から事情を聞いたんだろう。彼女は複雑な表情を浮かべながら目を伏せた。

「……『去夢』に『きりゆき駅』……。どちらもヒジョウにキケンで……ヤッカイな『怪異』デス」

「し、知ってんすか……!?」

 思わず問いかけた俺に、彼女は静かに頷いた。

「Of course. ワタシのシゴトはそういった、いわゆるチョウジョウゲンショウについてシラべることデスからネ。さっきもヒトつチョウサをオえてカエるところだったのデス。マッタくのグウゼンでしたが、いいタイミングだったみたいデスね」

 そう言って彼女は僅かに微笑んだものの、すぐにその表情を消し、真剣な顔で語りはじめた。

「フタつとも、ミズカらのフィールドにトじコめてからニンゲンをオソうタイプの『怪異』デス。ナマエにもあるトオり、ゼンシャは『夢』を、コウシャは『霧』をツカいマス。トクに『きりゆき駅』は、その『霧』にホウコウカンカクをクルわされてしまうせいで、ノガれるのがムズカしいとイわれていマス。ミナさん、よくブジにカエってこられマシタね」

 彼女の『無事に帰ってこられた』という言葉に、ようやく俺はそれを実感し、深く息を吸い込んだ。同時に、無理やり押し込めていた恐怖がぶり返すように背筋を這い上がり、吐き出した息が微かに震えていた。

「確か、『金色の狼』にタスけてもらったとか? そのような『怪異』は、ハずかしながらキいたことがありマセンが……」

 ふっと彼女の眉間の皺が消えると同時に、口元に仄かな微笑みが浮かんだ。

「きっと、ワルいコではないデショウね。ミナさんをタスけるためにキてくれたんだと、ワタシはそうオモいマスよ」

 確かに、あの不気味な空気の中であの狼だけは、どこか穏やかな雰囲気を纏っていたように思う。だからこそ、迷わずついて行くことを決めたんだ。なぜ助けてくれたのかはわからないが、彼女の言うとおりきっと、悪いやつではないんだろう。

「おかげで、スクなくともコンカイのニシュルイの『怪異』はもう、ミナさんをオソうことはないデショウね」

「え、なんでそんなんわかんの?」

「ヒトコエホえられただけでウゴけなくなったということは、それだけチカラのサがあったということデス。そんなカクウエのソンザイがわざわざマモろうとしたヒトたちなんか、アブなくてテもダせマセンよ」

 つまり、あの狼が抑止力にもなってくれているということか……。何から何まで本当にありがたいな。

「Oh, right! ワタシがあげたおマモりは、ちゃんとモってくれてマスか?」

「あぁ、まあ、いちおうは……」

 そういえばそんなもの貰ってたな。……正直、全く効果があったようには思えんが。

「うげっ!? なにこれすっごい汚れてんだけど!?」

 ポケットから取り出したお札を見るなり、逢恋は驚きに声を上げた。

「わっ!? ぼ、僕のもだ……!」

「俺もだ、なんだこれ……」

 慌てて自分のお札を確認すると、白かったはずの表面は何やら赤や黒のシミに塗れ、どこかおどろおどろしい見た目へと変貌してしまっていた。

「Hmm……。いちおう、ヨワい『怪異』はハジけてるみたいデスが……」

 フラヴィアさんは深刻そうな顔で、俺たちの手元を順に見ながら呟いた。

「そのヨゴれは、おマモりがしっかりキノウしてるショウコデス。まだしばらくはツカえマスから、ゼッタイにナくさないようにしてクダサイね。それでも、コンカイのようなキケンな『怪異』にタイしては、コウカはミコめないデショウが……」

 なおも深刻さを表情に刻んだまま、彼女はふと逢恋のほうを見た。

「アイルさんのキオクについては、ナニかシンテンはありマシタか?」

「あ、アタシ? えーっと、手がかりはあったんだけど……。まだなんにも……」

「であれば、イソいだほうがいいかもしれマセンね。キオクのカけたアナタのタマシイは、そのイビツさのせいでツネにユらぎツヅけていマス。そのフアンテイさが……ヨくないものをよりツヨくヒきつけてしまいマスから……」

 言いづらそうに声を落とし、彼女は目を伏せた。そして顔を背けた、その間際に見えた表情が、やけに悲しげに映った。

「……もうすぐヒがクれマス。クラくなるマエにカエりマショウか」


 途中まで送っていくからと言うフラヴィアさんに連れられ、すぐ近くのバス停に向かった。あんな目に遭ったばかりで、電車に乗るのは不安だろう。彼女のそんな気遣いが、シンプルにありがたかった。

 車中でも彼女は気を回し、俺たちと話し続けていた。普段の学校生活や映画の話など、そんな他愛のない会話で、気を紛らせようとしてくれていたんだろう。ほとんどノエルが受け答えをしていたが、それを聞いている間は心が波立たずに済んでいた。

 少し経って、ようやく俺は逢恋の様子に気付いた。フラヴィアさんとノエルが話すその合間に、ちょくちょく口を挟んでは軽く笑って、そしてふと、どこか思い詰めたような表情で俯く。

 気付いたうえで、その寂しそうな横顔に声をかけられぬまま、じっとバスに揺られていた。


 見慣れた駅前で降りるころには、空はすっかり黒に沈み、街は街灯と看板の明かりで煌々と浮かび上がっていた。

「ありがとうございました!」

 深くお辞儀をしたノエルに続き、俺も軽く頭を下げる。

「No worries! キにしなくていいデスよ!」

 フラヴィアさんはひらひらと手を振り、微笑みで返した。

「ワタシはまだスコしやるコトがありますから、ここでおワカれですね」

 そう言って目を伏せた彼女の表情は、ひどく気まずそうで、何か後ろめたさを隠しているように見えた。

「……キをツけて、カエってクダサイね」

 けれどもすぐに顔を上げ、困ったように微笑みながら彼女は言った。そしてそのまま、改札のほうへと去っていった。

 「どうしても言えないこともある」と、彼女は昨日そう話していた。今の不自然な態度も、きっとそういうことなんだろう。

「……ノエル、体調どうだ?」

 募る不信感を振り払いたくて、俺は唐突にそう問いかけた。

 今さら彼女のことを疑いたいわけじゃない。彼女は、何もわからなかった俺たちに的確な情報と細やかな気遣いを与えてくれた、いわば恩人のような存在だ。

 ……だからこそ、何も言ってくれなかったことに、心がざわついてしまうのだろうか。

「……えっ? あっ、えと、も、もう大丈夫だよ! 心配かけてごめんね……!」

 反応が少し遅れたのは、ノエルも同じ思いを抱えていたからだろうか。申し訳なさそうに答えた彼の微笑みは、すぐに萎れてしまった。

「そういや、ずいぶん怪異とやらに詳しかったな」

「……あっ、僕? そ、そうだね……そういうの、結構好きで……。昔からよく、ネットとかで読み漁ってたから……」

 話題を変えてみるも、どこか重い雰囲気は晴れそうにない。

「……腹減ったな。なんか食ってから帰るか?」

「あ、うん、そうしよっか。えと、あいるんも……」

 俺の背後へと声を投げかけたノエルの眉が、僅かに上がる。

「あれ? あいるんがいない……」

 キョロキョロと辺りを見回しながら、彼は呟いた。

 金曜の夜を迎えた駅前は人混みで溢れ、つい先ほど発車したばかりのこのバス停にも、すでに数人の列ができている。

 振り返り見渡した視界の中、行き交う人々の中に、逢恋の姿は見当たらなかった。

「さ、さっき一緒に降りたよね……!? はぐれちゃった……!?」

「……あいつ、まさか……」

 あんなひどい目に遭って、疲れてしまったんだろう。車中で俯く横顔を見て、はじめはそう思っていた。だが、その表情に落ちる影に、俺自身も覚えがあった。

「携帯も持ってないのに、どうやって探せば……」

「いや、大丈夫だ。あいつはたぶん――」


 ノエルの体力に気を遣いつつ、急ぎ足で向かった先で案の定、彼女は立ち尽くしていた。

「あ! いた!」

 門灯の下、ノエルの声に体を僅かに跳ねさせたあと、逢恋はこちらを振り向いた。

「よかったぁ……! 急にいなくなっちゃったから心配したよ……!」

 安堵に顔を綻ばせたノエルとは対照的に、逢恋の表情は驚きに満ち、目元には微かに焦燥が滲んで見えた。

「……学校、行こうとしてたの……? でも、言ってくれれば僕らも一緒に……」

 心配そうに見上げるノエルの視線に耐えられなかったのか、逢恋は僅かに目を逸らした。

「……だからだろ」

 俺がそう呟くと、二人は揃ってこちらを向いた。怪訝そうな表情のノエルと、驚きに目を見開く逢恋。

「俺らがついて来れないように……俺らを、巻き込まないために」

「ま、巻き込まないため……?」

「さっきフラヴィアさんが言ってたろ、急いだほうがいいって。……不安定な魂が、良くないものを惹きつけるって。それはつまり、怪異は逢恋を狙って来てただけで、俺たちは巻き込まれただけだったってことだ」

 逢恋の表情が段々と険しくなっていくと同時に、ゆっくりと俯き加減になっていく。

「なら、自分一人で行動すれば、少なくとも俺らに被害が及ぶ可能性はなくなる……だから、お前は黙って――」

「そこまでわかってんならっ! なんで追いかけてきたの!?」

 俺の言葉を遮るように、彼女は声を荒げた。顔を上げたその表情は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。

「のえるんが過呼吸なったのも! かおるんが毎晩うなされてたのも! 全部アタシのせいなんだよ!? だからっ……! 二人に迷惑かけたくないからっ……! 黙って一人で来たのに……!」

 声を震わせながら、彼女はまた顔を伏せる。

「これ以上アタシと一緒にいたら……! もっとひどい目に遭うかもしんないのに……!」

 そして消え入るような声で、彼女は呟いた。

 街灯の、ジーっという音がはっきりと聞こえてくるほどに、辺りは静まり返っていた。

「……だからって、お前一人に全部押しつけてのうのうとしてられるほど、俺は薄情にはなれない」

 俺の言葉に、俯いたままの逢恋の肩が、僅かに跳ねた。


 ――フラヴィアさんの話を聞いて、俺は心の中で、安堵してしまっていた。二人を巻き込んでしまったことへの負い目や罪悪感が、一気に晴れたからだ。それがそのまま、全てを逢恋に押しつけることになるということに、気付かぬままに。

 バスに揺られる彼女の思い詰めたような横顔が、それを俺に気付かせてくれた。同時に、彼女が何を考えているのかが、手に取るようにわかった。俺も、同じことを考えていたからだ。だからこうやって、俺は彼女を見つけられたんだ。


「足、震えてんじゃねえかよ、さっきからずっと。怖いんだろ、中に入るのが」

「――っ……!」

 逢恋の喉から、微かに息を呑むような音が漏れた。

「……昨日だってそうだ。あんな……子供みたいに怯えて泣いて……。あんなの、もう見たくないんだよ……」

 ひどく青ざめた彼女の顔が、悲痛な叫び声が、今も脳裏に焼きついて離れずにいる。

「無理してんじゃねえよ……。頼れよ、俺らに。一緒に怖がってやるくらいなら、できるんだから……」

 こんなときぐらいはっきりと言い張って、かっこつけるべきなんだろう。なのにどうしてか、声が萎れていく。わかっちゃいたが、俺はそんなに器用じゃなかったらしい。

「……あと、学校がひた隠しにしてる真実にもう少しでたどり着けるかもしれないってんだから、ここで逃げ出すわけにもいかないしな」

 そして、早口でまくし立てるように、ふざけてしまう。真面目になりきれない自分にうんざりしながら、無理やりにでも口角をつり上げた。

 訪れた静寂。耐えきれず顔を背け、横目で逢恋を見る。自らの腕を掴み、俯いたままの彼女は、今何を思っているのだろうか。

「……ふふっ、なにそれ。意味わかんない」

 そう呟き、彼女は目元を手の甲で拭った。

「はぁ〜……。せっかく巻き込まないようにって、逃げてきたのに……」

 ため息混じりに、彼女はゆっくりとこちらに歩み寄ると、俺のシャツの裾をそっと指で摘んだ。

「じゃあ……アタシが全部思い出すまで、かおるんのこと、離さないかんね?」

 そう言って、俺の顔を軽く見上げた彼女はなぜか、睨むような目をしていた。

 けれどもその頬は、うっすらと赤みを帯びているように見えた。

「うっ……!? お、おう……」

 至近距離で見た彼女のその……可愛いさ、に……耐えきれず声が漏れ、顔を背けながら生返事を返した。

 ……背けた先では、ノエルがニヤケ面で俺を見ていた。

「……ってことで俺らは行くけど、お前は危ないから帰れよ」

「えぇ!? この流れで!?」

 反撃の意味も込め、すっぱりと切り捨ててやると、たちまち彼は動揺に顔を歪ませた。

「そんないきなり仲間外れにっ……! ってか、もしここで帰ったら僕っ、完全に薄情者ってことになるじゃん!! ヤダよそんなの!! ぜっっったいついてくからね!?」

「……ぶふっ! アハハっ!」

 そんな俺たちのやり取りを見て、逢恋は楽しそうに笑いはじめた。その様子を、ノエルと二人黙って眺める。

「ふー……! うん、ごめんね、ありがと。じゃあ二人とも、一緒について来てくれる?」

 そしてひとしきり笑ったあと、俺たちを交互に見ながら、彼女はそう言って首を傾げた。

「もっちろん!」

「おう」

 彼女の問いかけに短く答えたとき、胸の奥が静かに熱を帯びていくのがわかった。

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