第十六章
電車がカーブを曲がる際の、キーッという金属音で目が覚めた。
いつのまに眠っていたのか、窓の外はすっかり日が落ち、暗くなってしまっている。
「やべっ、乗り過ごしたか……?」
ドア上部の案内板に目をやったが、古い車両なせいか電子化されておらず、今どの駅に向かっているのかがさっぱりわからない。
「……あぁ、まだ六時か……」
慌ててスマホを確認し、安堵とともに軽くため息をついた。スマホをポケットに押し込みながら、座席に深く座り直す。
向かいの窓には、車内の景色が反射して浮かび上がっている。隣でノエルは、逢恋と頭を寄せ合い、二人揃って眠りこけていた。
……それにしても、外が暗過ぎないか? 梅雨時の十八時といえば、まだ西日が眩しい時間帯のはずだ。朝から降り続く雨で雲に覆われていたとしても、車内が映り込むほど暗くなるものだろうか……。
「ん……あれ……? アタシ、寝てた……?」
「ふあぁ……んぅ……。ここどこぉ……?」
不審に思っているうちに、二人が同時に目を覚ました。
「うわっ、外真っ暗じゃん……。もしかして寝過ごした感じ〜……?」
逢恋は眠そうに目を細めたまま、不安そうに俺を見た。
「いや、まだ二十分しか経ってないから大丈夫――」
そのとき、軽快なチャイムの音が、車内に鳴り響いた。
「次はー、飛び込みー、飛び込みです」
その瞬間、俺は全てを思い出した。
同時に、跳ね上がるように席を立ち、慌てて車内を見回した。進行方向側はすぐ運転席に繋がっており、隣に座ったままのノエルと逢恋が、ぎょっとした顔で俺を見つめている。
逆側に頭を振ると、いくつかの人影が目に入った。刹那に見えた顔はどれも虚な表情で、彼らがこの悪趣味な夢のために用意された、ただの傀儡に過ぎないであろうことを、俺は瞬時に悟った。
「か、薫くん……!?」
「ちょっ、どしたんいきなり……!?」
吊り革も持たずにゆらゆらと佇む、不気味な三人の乗客たちから目を離せず、戸惑う二人の声に反応もできない。アナウンスされた『飛び込み』が何を指すかはわからないが、どうなろうが凄惨な有様になるであろうことだけは明確だ。
……待て、これまでの悪夢では、俺と他の乗客が数名という状況ばかりだったはずだ。だが今はそれに加え、ノエルと逢恋までもが夢の中に出てきている。つまり今度は、二人が死ぬ瞬間を見せられる可能性があるということか……!?
慌てて振り返ると、どこか心配そうに俺を見つめる二人と目が合った。その表情は他の乗客とは違い、明らかに生命力を宿している。
そのとき、俺は不思議と、彼らがこの夢のためだけに用意された作り物ではないことを理解した。根拠のない直感だったが、奇妙な確信があった。そしてそれは、悪夢の中で一人きりではないという安心感を与えるものではなく、二人が俺のせいで悪夢に巻き込まれてしまったということを意味していた。
まずはこの状況を伝えなければ。俺は二人に声を――。
「ひぃっ!?」
「わああぁぁっ!?」
俺の背後で、何かが勢いよくぶつかる音がした。同時に二人が悲鳴を上げる。その視線を辿り、振り返って見えた景色は一面、赤に染まっていた。
閉じたドアの前には、形を失った何かが崩れ落ちている。放射状に広がる赤黒い跡と、飛び散った何かのかけら。それはまるで、高速で動く何かに『飛び込み』、ぶつかってしまったような光景だった。
「な、なんでっ!? なんでぇ!?」
状況が飲み込めず、ノエルは座ったまま頭を抱え、体を小さく丸めた。逢恋は恐怖と驚愕に顔を歪め、硬直したまま動けずにいる。
「ふ、二人とも、よく聞いてくれ! これは夢だ……! 俺が見てる、悪夢の中なんだ!」
凄惨な光景から二人の目を逸らすため、正面に移動して片膝をつき、俺は話しはじめた。
「ゆ、ゆめ……!? どういうこと……!?」
小刻みに揺れる瞳で、逢恋は俺を見つめながら問いかける。
「俺がうなされてたって、お前ら言ってただろ……!? それがこれなんだ……! この、電車の悪夢なんだ……!」
逢恋の不安そうな目と、ノエルの腕の隙間から覗く目を交互に追いながら、俺は息を詰まらせながら続けた。
「今さっきアナウンスで、『飛び込み』って言ってたろ……!? ここではその通りに人が死んで、それを見せられ続けるんだ……!」
俺の話を聞き、ゆっくりと腕を下ろしたノエルの顔は、ひどく青ざめていた。
「う、うそ……!? それって、『去夢』だよ……!!」
「さ、さりゆめ……!?」
俺が聞き返すと、彼は小刻みに震えながら頷いた。
「だいぶ前にネットで流行った、『怪異』の一種なんだ……! 夢の中で電車に閉じ込められて、アナウンスどおり人が死んでいって……! 最後の一人になったあとも起きられないと、その通り殺されちゃうって……!!」
恐怖に駆られ、ガチガチと歯を鳴らしながら、彼は震える声で語った。
「た、ただの都市伝説だって思ってたのに……!! ほんとにあったなんてぇ……!!」
そう言ってノエルは俯き、両手で顔を覆った。
「ゆ、夢ってことはさ……!? 起きれば大丈夫なんでしょ……!? なんか、ほっぺつねったりとかして……!」
顔を引きつらせながら問いかける逢恋に、俺は首を横に振った。
「この前試したけど、ダメだった……どうやっても自分じゃ起きられないんだ……!」
「えっ!? じゃあ、かおるんはなんで無事なん……!?」
「……ぼ、僕が起こしたからだ……!!」
何かに気付いたように、ノエルが顔を上げた。
「一昨日もその前も……! うなされてる薫くんを起こしたのは僕だよ……! だから、誰かに起こされない限り……!!」
そして昨日、俺が悪夢から逃げ出せたのは、逢恋が起こしてくれたからだ。つまり、この悪夢から逃れるには、外部から何か刺激を受ける必要があるということになる……。
「ふざけるな……! こんな……! こんな理不尽なこと、あってたまるかよ……!!」
その場に崩れ落ちそうになるほどの恐怖と絶望を、怒りに転化するように、俺は声を荒げた。
怪異だの夢の世界だの、そんな非現実的なもの、今までの自分なら到底信じたりはしなかっただろう。そういったものはフィクションの中の存在であり、現実にはありえないものだからだ。だが、本物の幽霊との遭遇という体験が俺の意識を大きく変えた今、直感が、本能が、ここから逃げろと激しく叫び立てていた。
「こんな夢、とっとと抜け出して――」
そのとき、軽快なチャイムの音が車内に鳴り響いた。
「次はー、焼身、焼身です」
流れたアナウンスに、俺たちは同時に息を呑む。無意識に、視線は乗客のほうへ向かっていた。
ほんの数秒の静寂のあと、向こうで立ち尽くしていた一人の乗客が、突如として炎に包まれた。激しく燃え上がる炎の中で、乗客はそれを消そうと必死に体中を叩いていたが、やがて力無くその場に倒れ込んだ。
それでも、炎は煌々と燃え続けていた。
「あ、わ、うぁ……!?」
「ふっ、ううぅ……!!」
その衝撃的な光景に、ノエルは口を開けたまま微かに声を漏らし、逢恋は口元で手をぎゅっと握りしめて怯えている。
「……なんとかしてここから逃げるぞ」
この悪夢を見ているのは俺だ。だから二人が巻き込まれた責任は、すべて俺にある。その思いが、恐怖に呑まれかけた心を必死に引き留め、俺を冷静へと引き戻した。
「こんなふざけた電車……俺が止めてやる……!!」
苛立ちと決意を胸に立ち上がり、俺は運転席のほうへ向かった。
ドアの手前に立ち、ブラインドの下ろされた仕切り窓の隙間から、中を覗き込む。薄闇の中、人影らしきものは見当たらない。どうやらこの夢の世界では、運転手は用意されていないようだ。
ノブに手をかけ、カタカタと上げ下ろししてみるが、しっかりと施錠されている。
そこから一歩離れ、軽く深呼吸したあと、俺はドアに向かって思い切り体をぶつけた。
「ちょっ、薫くん!? なにやってんの!?」
ノエルがこちらに駆け寄り、心配そうに声をかけてきたが、俺は構わず体当たりを繰り返す。
「電車に乗ってんのがっ、ヤバいってんなら……! 電車止めてこっからっ、逃げるんだよ……!!」
ドアをぶち破ろうと体を打ちつけるたび、芯に響くような重い痛みが蓄積されていく。
「で、でもそんな……! 怪我しちゃうよ!!」
ノエルの言うとおり、骨が軋むような痛みが走り、思わず顔をしかめる。しかし他に方法がない以上、止めるわけには……。
「ま、待ってかおるん! アタシが開けるから!」
助走をつけようと一歩下がった俺の腕を、逢恋が引いて止めた。
「アタシならすり抜けて中入れるから……! 無茶しないで……!」
目元を潤ませ、縋るように俺の手を抱きながら、彼女は必死に訴えかけた。
どうやら、冷静にはなりきれていなかったようだ。ズキズキと疼く腕の痛みに耐えながら、上がった息を整えようと軽く深呼吸をした。
「そう、だな……。頼めるか……?」
俺の問いかけに、逢恋は力強く頷いた。
ドアの前に立ち、彼女は大きく息を吐いたあと、恐る恐る手を伸ばした。
しかしその手は、ドアに阻まれてしまった。
「う、うそ……!? なんでまたっ……!!」
彼女は焦りを顔に滲ませ、狼狽えるようにドアを叩く。どうやら今朝のように、すり抜ける状態へと上手く切り替えられないようだ。
「お、落ち着け! 大丈夫だ! まだ焦る必要はない!」
心の動きによって魂の形を変える、幽霊という存在にとって、動揺や焦燥という負の感情が良い影響を与えるはずがない。俺はなんとか彼女を落ち着かせようと声をかけ続ける。
「フラヴィアさんも言ってたろ!? 当然だと思い込むことが大切だって! それにさっきだって、雨をすり抜けながら帰ってきたじゃないか!」
励ます俺の言葉も虚しく、彼女はドアを一向にすり抜けることができないまま、その表情が絶望にどんどん歪んでいく。
「はっ、はあっ……! なんでっ……!! はやくしなきゃっ――」
そのとき、軽快なチャイムの音が車内に鳴り響いた。
「次はー、入水ー、入水です」
「ひいっ!?」
ノエルが大きく悲鳴を上げ、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。
「じゅすい……!? って、なに……!?」
逢恋は引きつった顔で呟き、ゆっくりと振り向こうとする。
その肩を、俺は両手で掴んで止めた。
「み、見るな……!! 見たって、気持ち悪いだけだぞ……!!」
突然肩を掴まれ、彼女は驚きに目を見開いた。しかし、小刻みに揺れる潤んだ瞳は、まるで吸い寄せられるかのように最後の乗客のほうへと向かっていく。
その異様な感覚を、自分でも確かに感じていた。顔も体も、意思とは無関係に動き出し、向こう側を無理やり見せつけようとしている。
それがこの怪異、『去夢』の目的だからだろう。死の間際を見せつけ、怯えさせてから殺す。そんな悪趣味な思想を、こいつは持っているんだろう。
「逢恋……!! 向こうに気を取られるな……!! 俺の目を見ろ……!!」
俺は歯を食いしばり、彼女と額が触れるほど顔を近付け、目を逸らさず言った。
向こうを見れば、彼女はさらに精神的に追い詰められてしまう。そうやってこいつは、この怪異は、俺たちの反応を楽しもうとしているんだ。
「大丈夫だ……! お前ならできる……! 俺は、お前を信じてる……!」
なんとか落ち着かせたくて、一言ずつゆっくりと、逢恋に伝えた。
彼女は唇を噛み締めながら、じっと俺の目を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「うん……ありがと……! アタシ、もっかいやってみる……!」
顔を上げた彼女の瞳には、確かな決意の光が宿っていた。
彼女の肩を掴んだ手のひらから、感触が消えた。そっと彼女から離れ、俺は頷く。
どこかから水が溢れるような音が、微かに聞こえてきている。だが俺は、彼女から目を離す気はなかった。
「――やった!! か、鍵どこ!?」
彼女の体がドアの向こうへとすり抜けていったあと、仕切り越しにくぐもった声が聞こえてきた。そしてすぐあとに、カチャンと何かが開く音が聞こえた。
「開いた!! かおるん!!」
開いたドアの向こうで、逢恋は感極まったような表情で待ち受けていた。彼女に向けて力強く頷き、俺は運転席の中へと飛び込んだ。
「ブレーキは……! これか!?」
「か、薫くん、運転したことあるの!?」
俺の手元を覗き込み、ノエルは驚いた声で問いかけた。
「こんなもん見たこともねえよ! でも、どう考えてもこれだろ!」
よくわからない計器や速度調整用であろうレバーに混じり、赤地に白文字で「緊急」と書かれたボタンが目についた。
「クソっ、なんだこれ!!」
即座に押そうと伸ばした指が、透明な何かに阻まれてしまった。どうやら誤操作防止用のカバーが付いているらしい。触るとカタカタと動くため、取り外せはするだろうが……。
「これっ、どうやって――」
そのとき、軽快なチャイムの音が鳴りはじめた。
「うわあぁ!? か、薫くん!!」
「かおるん早く!!」
「マジかよふざけんなっ!!」
声を荒げながら無理やりカバーを引っぺがし、俺は叫んだ。
「止まれええええ!!」
ボタンに向け、勢いよく指を突き刺した。
――と同時に、凄まじい轟音が鳴り響き、俺の体は前方へと投げ出された。
「どわあっ!?」
勢いをそのままに、俺は地面へと倒れ込んだ。
「わああぁぁっ!?」
「きゃああっ!?」
すぐそばで二人の悲鳴が聞こえ、俺は慌てて顔を上げた。
「は!? どうなって……!?」
そこはまだ、電車の中だった。それも、さっき飛び込んだはずの運転席ではなく、あの惨劇が起きた先頭車両内に、俺たちはいた。
「な、なんでここに!?」
急ブレーキの反動で窓に叩きつけられたか、あるいは窓を突き破って外に投げ出されたか。どちらかを想定していたのにもかかわらず、全く予想外の状況に、俺の頭は混乱した。
立ち上がって周囲を見回すが、車内にはなんの異常も見当たらず、向こうには血の一滴すら残っていない。
「ゆ、夢! 覚めたんじゃない!?」
「そ、そうだよ! 僕らっ、助かったんだ!!」
逢恋は床に座り込み、安堵の色を浮かべてうなだれ、深く息を吐いた。一方、ノエルは歓喜に満ちた表情で立ち上がり、両手を高く掲げて喜びを全身で表している。
「た、助かった……か……」
大きくため息を吐き、膝から崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえ、向かいの座席へと腰掛ける。深くうなだれた視界の端で、ノエルが飲んでいたコーラの缶が床に転がっているのが見えた。
どうやら無事、あの悪趣味な夢の世界から抜け出すことができたようだ。それにしても、まさか二人まで巻き込まれるとは思わなかった。まあ、おかげで助かったわけでもあるが……。なんにせよ、二人に危害がなくてよかった。
そのとき、空気が抜けるような音とともに、外へ続くドアが開いた。
「ここどこだ……?」
首を伸ばして周囲を見渡すが、近くに駅名を記した看板は見当たらない。
「僕ちょっと見てくるね」
そう言って、ノエルは電車を降りていった。
後を追う気力が湧いてこない。疲労感からまた、大きくため息をついた。
「……すまん、大丈夫か?」
床にへたり込んだままの逢恋に声をかけた。
「あー……うん、大丈夫……。てか、なんでかおるんが謝んの?」
顔を上げた彼女は、疲れ切った表情で聞き返す。
「いや、そもそも俺が見た悪夢に、お前らが巻き込まれたわけだから……」
「巻き込まれた……? アタシらもおんなじ夢見てただけじゃないん? なんでかおるんのせいになんの?」
気怠げな表情を浮かべ、怪訝そうに見つめる彼女に、言い返す理屈も浮かばず、俺はただ黙って俯いた。
「よくわかんないけどさ〜、助かったんだからなんでもいいじゃん?」
そう言って、逢恋は微かに笑みを浮かべた。
自分たちの身に何が起こったのか、俺はまだ全く理解できていない。彼女の言うとおり偶然同じ夢を見ていただけなのか、それとも『怪異』とかいう謎の怪奇現象に襲われたのか、はたまた集団幻覚のような症状に見舞われただけなのか……。けれども彼女の言うとおり、無事助かったのならなんでもいいのかもしれない。
疲労のせいか頭が回らない……。何か、甘いものでも飲みたい気分だ――。
「わああぁぁ!!」
突然、外からノエルの叫び声が聞こえた。
「ノエル!? 大丈夫か!?」
「のえるん!? どしたん!?」
逢恋と揃って声を上げ、同時に立ち上がって電車を飛び出した。
外は完全に夜の闇に落ち、まばらに設置された照明と、微かな月明かりだけが、ひび割れたコンクリートの床を照らしている。簡素な屋根と壁だけの寂れたホームを飲み込まんばかりに、木々が空へと張り出している。都心から三十分程度の距離のはずだが、まるで山奥の無人駅に迷い込んでしまったかのような、不気味な雰囲気を感じていた。
視界の端、ホームの中程でへたり込んでいるノエルを見つけ、俺は慌てて駆け寄った。
「のえるん!! 大丈夫!?」
逢恋は彼の顔を覗き込むように屈み、心配そうに声をかける。
「あ、あぁ……! うあぁ……!!」
怯えに引きつった顔で目を見開き、ノエルは震える指先を前方へと伸ばしている。指差す先には駅名の表示板があったが、見た目にはおかしなところは見当たらない。
「霧……逝……? これが、どうかしたのか……?」
見慣れぬ駅名を読み上げた俺に、ノエルは怯えた表情のまま顔を向けた。
「『きりゆき駅』だよ……!! 『去夢』と同じで、ネットで広まった怪異の一つなんだ……!!」
全身をガタガタと震わせ、頭を抱えながら彼は言った。
「この駅に迷い込んだ人は……ここに閉じ込められたまま、元の世界に戻れなくなっちゃうって……!!」
「な、なんだよそれ……!? またかよ!!」
ようやく悪夢から逃げ出せたと思った途端、これか。背筋を這い上がる恐怖を怒りに変えようと、俺は吐き捨てた。
「ね、ねえ……! あれ、なに……!?」
そんな中、逢恋が突然どこかを指差し、呟いた。
停車中の電車の後方、木々の生い茂る中を、闇に向かって線路が伸びている。その途中で金色の何かが、ぼうっと浮かび上がっているのが見えた。
「ノエル……! あれも怪異か……!?」
「わ、わかんない……! あんなの知らないよぉ……!」
首を大きく横に振り、泣きそうな声で彼は言った。
「い、犬……!? ってか、オオカミ……!?」
ぐっと目を凝らし、かろうじて捉えたその輪郭は、逢恋の言うとおり大型犬のような形をしていた。人の背丈の半分ほどはあろうその金色の塊は、じっとこちらを見つめているように見える。
――その最中、背後で何かが擦れるような音が聞こえ、俺は振り返った。
「うわあ!? な、なんだこれ!?」
俺たちが乗ってきた先頭車両、その開いたドアから、人一人くらいなら軽く握り潰してしまえそうなほど大きな手が、何本も飛び出してきている。その表皮は茶色く短い毛に覆われており、まるで巨大な『猿』の腕のようだった。
「ヤバい……! マジでヤバい……!!」
呟いた俺の背後で、二人が悲鳴を上げる。抗えぬ恐怖が、容赦なく俺たちの心を支配していた。
不気味に蠢く猿の腕が、ピタリとその動きを止めたかと思うと、突如としてこちらに向かって伸びてきた。
「う、うわあああ!!」
叫びを上げ、恐怖に駆られて目を閉じた。
真っ暗闇の中、何かが風を切るような音を耳にしながら、俺は身構えたままじっと立ち尽くしていた。
――だが、数秒が過ぎても何も起きず、恐る恐る目を開けた。
「……はっ、はあっ……!? なんだ……!?」
俺の目の前には、先ほどまで線路上にいたはずの金色の狼が、体を低くしてこちらに尻尾を向けていた。そして、こちらに向かって来ていたはずの猿の腕は、軒並みホームにだらりと横たわっていた。
「さ、さっきの狼……!? いつのまに……!?」
狼狽える俺をよそに、狼は姿勢を低く保ったまま、小さく唸り声を上げた。すると垂れ下がったままだった猿の腕がゆっくりと持ち上がり、まるで怒りに打ち震えるように指を慌ただしく暴れさせはじめた。
直後、狼は体を大きく反らせ、空へ向けて遠吠えを放った。
「いっ!? ぐあああっ!?」
それはもはや咆哮と言っていいほどの大音量で鳴り響き、たまらず俺は耳を塞いだ。ビリビリと空気が震え、肌にまで伝わる振動に思わず膝をつく。
その音は、どうやら猿の腕にも多大なる影響を及ぼしたようで、遠吠えが鳴り止んだあと、全ての腕がピクピクと痙攣したまま動かなくなった。
狼はそれを確認すると、凄まじい跳躍力で俺たちを軽々と飛び越え、電車の後方へと降り立つ。
線路の上で狼は振り返り、俺たちに向かって一声吠えた。
「あ、あれって……ついて来いってこと……?」
「きっとそうだよ! 僕らを助けてくれるのかも!」
「……なんにせよ、こんなバケモンからはとっとと離れるぞ!」
なおも固まったままの猿の腕を尻目に、俺たちはホームを駆け抜けた。
端に着き、線路に飛び下りる。思った以上の高さに、着地の衝撃が頭へと突き抜けた。
「ちょっ、ここ走りにくいんだけど……!」
大小様々な石が敷き詰められているうえ、レールと枕木があるせいか足場が悪く、照明も届かないためひどく足元が心許ない。
「ま、真っ暗でなにも見えないよぉ……!」
俺たちを先導するように、狼は線路上を駆けていく。後を追おうにも、進む先は闇に沈んでいて、どうしても足が竦んでしまう。
「いや、行ける……!」
だがその闇の中で、狼の姿だけが不思議な光を帯び、浮かび上がっているように見えた。金色に輝くどこか温かなその光と、足元を僅かに照らす月明かりを頼りに、俺たちは走り出した。
「なんだ……!? 霧……!?」
しかし先へと進むにつれ、周囲にうっすらと霧のようなものが立ち込めはじめた。狼狽えているうちに急速に視界がぼやけはじめ、後ろを走る二人の姿すら見えなくなってしまった。
「か、薫くん!? あいるん!? どこ!?」
「ヤバいって!! なんも見えないんだけど!!」
近くで二人の声が聞こえるが、なぜか反響して聞こえるせいで方向が全くわからない。探そうと周囲を見回したせいで、狼の姿も見失ってしまった。
一気に焦燥感が押し寄せ、冷や汗が吹き出す。呼吸は勝手に荒くなり、歯を食いしばって必死に耐えるしかなかった。
――そのとき、どこからか狼の遠吠えが聞こえてきた。
「い、今の!! 聞こえたよね!?」
逢恋の声がすぐそばで聞こえた。そしてまた、遠吠えが響く。
「あの狼の声だ!! 僕らを呼んでるんだよ!!」
ノエルの声も近くで聞こえる。遠吠えは俺の前方から響いてくる。
「聞こえた方向に走るぞ!!」
そう叫び、俺は霧の中を走り出した。二人の息遣いと足音を聞き逃さないよう、遠吠えを見失わないよう、耳に全ての意識を集中させ、必死に走り続けた。
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