第十四章
電車に揺られること、およそ三十分。雨の降りはじめた駅前で、俺は地図アプリと周囲の景色を見比べていた。
「あっちだな。だいたい十分くらいか」
スマホをしまい、傘を広げて肩に軽く預けるように持ち直した。
「ね〜、アタシも傘持っちゃダメ?」
「ダメだろ。傍から見れば怪奇現象そのものになんだから」
それどころか、浮遊する傘と一緒に平然と歩く俺たちまで、怪しまれる可能性もある。
「雨粒全部すり抜ければいいんじゃないのか?」
「いやまあ、そうすんだけどさ〜、目のとこ通るときすごい気持ち悪いんだよね〜……」
「気持ち悪い? どうなるんだ?」
「なんか一瞬だけ、水ん中で目開けたときみたいな? そんな感じになんだよね〜……。雨強いと何回もそうなるから、だんだん車酔いみたいになってくるし……」
興味深い話だ。透過能力にそんなリスクがあったとは。
「そうか。なら、濡れながら行くしかないかもな」
「え、ひど〜! なんかいい方法考えてよ〜!」
とはいえ、そんな状態で歩かせるのも忍びない。逢恋が傘を持たずに雨を凌ぐには……。
「……ん! いいこと思いついた!」
そう言って逢恋は突然、俺に詰め寄ってきた。
「な、なんだよ……!?」
ずいっと顔を寄せ、戸惑う俺にイタズラっぽく笑いかけたかと思うと、彼女はそのままくるりと身を翻し、俺の隣にすっぽりと収まった。
「にひひ〜! これでいいじゃん!」
「ちょっ……!? お、押すなよ……!」
楽しげに笑いながら、逢恋は俺の腕にぴったりと肩を寄せている。
互いの制服越しに伝わる、彼女の肌の柔らかさ。そしてその奥の、微かな骨の輪郭。彼女が幽霊であることを、一瞬忘れてしまうような、不思議な感触だった。
「アハハっ! ごめんごめん! すり抜けんの忘れてた〜!」
彼女がそう言うと、途端に腕にかかっていた重さが、ふっと消えてしまった。ふとそちらに目をやると、俺の腕が彼女の肩にめり込んでいるのが見える。
この胸の高鳴りが、腕を伝って彼女にバレずに済むことに、少しだけ安堵した。
「顔に雨かかんなきゃいいから、傘こっち寄せなくて大丈夫だかんね〜」
傘の中、俺の隣で逢恋は楽しそうに微笑んでいる。
「わ、わかったからとっとと行くぞ……!」
くっついたままで歩くという、気恥ずかしいにも程がある状況はなんとか免れたが、よく考えれば相合傘をしていることには変わりないため、どうにも落ち着かない。
「ふふっ! はーい! のえるん行くよ〜?」
不意に振り返り、彼女は駅の構内に向けて声をかけた。
「……ん? なんであいつあんなとこ……」
改札の手前、広告の張り出された四角い柱に、ノエルは身を隠しながら、キョロキョロと辺りを窺っている。
「わかんな〜い。こっち着いてからずっとああやって隠れてんの。のえる〜ん!? 置いてくよ〜!?」
逢恋が声を張り上げると、ノエルはなぜかビクッと体を震わせ、どこか怯えた様子でこちらを見た。そして、屋根のない場所まではまだ大分距離があるにも関わらず、持っていた傘を広げると、前が見えるか怪しいほど目深にかざしながら、こちらへ駆け寄ってきた。
「なあ、何コソコソしてんだ?」
「え!? な、なんでもないよ! ちょっと、考え事してただけで……!」
少し突っついただけで彼はあたふたと慌てふためき、目すら合わせようとしない。どう考えても「ちょっと考え事してただけ」には見えないが、かといって無理に踏み込むのも違うだろう。それにこちらとしては、男女が一つ傘の下という、いかにもな状況を茶化されずに済むぶん、彼が何かに気を取られているのはむしろありがたい。
「……まあ、時間ももったいないし行くか」
雨の中を歩くこと、およそ十五分。ズボンの裾がすっかり湿り気を帯びてしまったころ、ようやく目的地が見えてきた。
「アプリに載ってんのはここまでか」
到着を告げる音声が流れ終わる前に、スマホをしまい込んだ。
俺たちの前には、コンクリート造りの無機質な建物がいくつも建ち並び、そのどれもが同じ表情のまま、じっと雨に堪えている。いわゆる『団地』と呼ばれる地域に、俺たちはいた。
一番手前の棟を見上げると、外壁の隅には大きく、『1』と書かれている。
「二の三〇七って言ってたか?」
「……え。やば、覚えてない」
このポンコツエージェントめ……。
「合ってるよ! いちおうメモも取ってあったから!」
「お〜! のえるんさっすが〜!」
ようやく平静を取り戻したであろうノエルが、スマホ片手に微笑んでいる。
「んじゃ、あっちだな」
一つ奥の建物を指差し、俺は歩き出した。
「三〇七……ここか」
ドアの脇、黒いインターホンの上に掲げられた表札には、部屋番号の下に、『舘入』と書かれていた。
「えっ!? も、もう押しちゃうの!?」
インターホンに手を伸ばした俺に、ノエルは慌てて声をかけた。
「ダメなのか?」
「いや、ダメっていうか……まだ心の準備が……!」
緊張からか、ノエルの顔は少し引きつっているように見えた。が、俺はお構いなしにボタンを押した。
「あー!? もう!!」
「アハハっ! かおるんわっる〜!」
「話を聞くだけだぞ? 心の準備なんざ必要ないだろ」
怒りに頬を膨らませながら、ノエルは俺を睨みつけている。そんなノエルの頬を、逢恋は楽しそうに指でつついておちょくっている。
「……遅いな」
そんな二人の様子を眺めていたが、中からはいつまで経っても返答が来ない。
「留守かなぁ」
「それか、そもそも出る気がないかだな」
倉橋の言うとおり、友達を失って塞ぎ込んでいるのであれば、十分可能性はあるだろう。
「だとすると、お手上げってことになっちゃうよね……?」
「アタシ、見てこよっか?」
せめて本人が在宅かどうかくらいは知っておきたいところだ。そう思い、逢恋に向けて頷き返す。
ちょうどそのとき、ドアの向こうでガチャリと音がした。
「……誰?」
ほんの少しだけ開いたドアの隙間から、低く唸るような女性の声が聞こえた。
「あ、えと、舘入さんのお宅ですよね……?」
「……見ればわかるでしょ」
念のため確認しただけのノエルに対し、彼女は刺々しく吐き捨てた。
「す、すみません……! えと……時音さんは、いらっしゃいますか?」
謝るノエルの背後からそっとドアの隙間を覗いてみると、チェーンの向こうからこちらを睨みつける彼女と目が合った。
「……私が、何?」
さらに警戒心を強め、怒気すらも孕んだような声色で、彼女――
「この子が、アタシの友達……?」
同じく隙間を覗き込みながら、逢恋は怪訝な顔で呟く。その反応を見るに、何かを思い出すには至らなかったようだ。
「あ、あの……! 僕ら、あいるんの……周郷さんの、友達……なんですけど……」
逢恋の名前が出た途端、舘入は目を見開き驚いたように見えたが、次の瞬間には、より一層その目つきは厳しくなっていた。
「……友達? あんたらなんか見たことない」
「それは、えと……僕ら、別のクラスで……あっ、中学は、同じだったんですけど……」
関係性を偽ることは、あらかじめ決めていた。赤の他人のままでは、舘入から話を引き出せるとは思えなかったからだ。ただ、逢恋が記憶喪失である以上、彼女の過去に関しては完全に当てずっぽうで臨むしかなく、でたらめな関係性を構築せざるを得なかった。そのため、あまり深く追及されると確実にボロが出てしまうのだが、果たして……。
「は? 私だって同じ中学なんだけど。なんなの、お前ら」
「え゛……」
「あ、マジ……?」
マズイな、完全に裏目った。
「ふざけんなら帰ってくんない? でなきゃ警察呼ぶから」
「ま、待ってください! 友達なのは本当なんです! 僕らはただ、あいるんになにがあったのか知りたいだけで……!」
必死に弁解するノエルに、舘入は明らかな敵意を含んだ目を向けている。
「……お前らなんかに話すことなんて無い。帰って」
「ど、どうすんのこれ……? めちゃめちゃ怒ってっけど……」
舘入の態度に、逢恋は慌てた様子で俺を見つめている。
「お願いします! なにか、知ってることがあるなら……!」
「チッ……もういい、警察呼ぶから」
舌打ち混じりに舘入はそう吐き捨て、俺たちから視線を切った。
顔を伏せ、ドアを閉めようとしたその隙間に向け、俺は声をかけた。
「……髪を、触る癖があるだろ」
閉まりかけたドアが、ピタッと動きを止めた。
「イラついてるとき、嘘をつくとき、居心地が悪いとき……。ストレスを感じると、あいつはいつも、毛先を右手で弄ってた」
『周郷逢恋』という人間について、俺は何も知らない。二日前、俺の前に現れたときには、彼女はすでに幽霊で、記憶喪失だったからだ。だがこの二日間、すぐそばで彼女を見続けていたことで気付いた、些細な癖。この状況において俺が切れるカードは、たったこれだけだった。
「……嘘をついたことについては……悪かった、謝るよ。俺たちの関係性は、ちょっと変わってて……複雑な事情があるんだ」
先ほどからの様子を見るに、彼女も『見えない人間』のようだ。正直に話せば、かえって警戒心を煽ることになるかもしれない。ならばここは虚実を織り交ぜつつも、真摯な態度で臨むべきだ。
「ただ、さっきこいつが言ったとおり、俺たちと逢恋は友達なんだ。そこに嘘はない」
「友達になろう」と、明確に言葉にしたわけではない。けれどもこの二日間、共に過ごした濃密な時間の中で、逢恋という人間がノエルと並ぶほど……大切な人と呼べるほどに、大きくなっていた。
「癖を一つ挙げたところで、信じてもらえるとは思ってない。むしろ、疑ったままでも構わない」
つまるところ、自分は信用するに値しないと白状しているようなものだ。それでも、俺が取り繕おうとしなかったのは、せめて外側だけでも誠実でありたかったのかもしれない。
「……逢恋に何があったのか、俺たちはただ、真実が知りたいだけなんだ。だから、頼む」
そう言って、その場で深く、頭を下げた。
「――あっ……! ぼ、僕からも、お願いします!」
遅れてノエルが頭を下げる。
訪れた沈黙の中で、少しの間、鳴り落ちる雨音だけを聞いていた。
「……私だってわかんないよ……! なんで、なんで逢恋が……!」
ドアの向こうで、舘入は微かに声を震わせていた。
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