第十一章

「え〜、結構おいしそうじゃない?」

 俺がレンジから取り出した弁当を、まじまじと眺めながら逢恋は言った。

「味も栄養バランスも文句ねえよ。ただちょっと物足りないってだけだ」

 父子家庭で二人とも料理の腕に自信がないとなると、必然的にこういった宅食サービスに頼らざるを得ない。レンジで温めるだけで食べられるし、冷凍で届くので日持ちも良く、実際とても助かっている。だが、成長期の男子の胃袋を満たすには、少し物足りなく感じてしまう。

「味付けも健康的な薄さだしな……」

 食卓に解凍した献立たちを並べ、椅子に腰掛ける。そして、メインであるヒレカツにドボドボとソースをかけていく。

「草。トンカツ真っ黒なってんじゃん」

「こんぐらい味濃いほうが米進むんだよ」

 主食は当然パックご飯だ。どうせおかわりするので、最近は二パック同時に温めるようにしている。

「ふ〜ん、よくそれで太んないね〜?」

 向かいに腰掛けた逢恋は、テーブルの上に両肘をつき、組んだ手に顎を乗せている。

「まあな、体質だと思うが。……っと」

「あ、お茶ならアタシが入れたげる!」

「は?」

 腰を上げた俺を制すように、彼女は立ち上がった。

「触れるようになったっぽいし、いろいろ練習しときたいんだよね〜」

 言いながら、彼女はキッチンへと向かう。

「ふー……。んっ!」

 そして一呼吸したあと、気合を入れて冷蔵庫に手を伸ばした。

「……おー! 開けれるー! 見て、すごくない!?」

「お、おう…… 」

 冷蔵庫を開け、中からお茶の容器を取り出す。そんな当たり前の動作にすら、彼女は興奮気味だ。まあ、無理もないだろう。幽霊になってから約八日間、何かに触れることすらできなかった不便な状況に、ようやく光明が差したのだから。

「コップここ? ……ほっ! おー、持てる持てる! ほら見てかおるん!」

「いや、まあ、見てるが……」

 ただ、傍から見てる分にはなんの変哲もない光景なため、リアクションも取りづらい。これは褒めるべきなのか? それとも、一緒に喜んだりすればいいのか? 教えてくれ、ノエル……。

「うーい、帰ったぞー」

「うおっ!?」

「あっやば」

 そんなことを考えていると、突然玄関のほうから、父さんの声が聞こえてきた。

「おー、晩飯中だったか」

「お、おかえり……」

 そしてリビングの扉が開き、父さんがひょっこりと顔を出した。

「……ん? おいおい、棚開けっぱなしだぞ」

「あっ」

「は!?」

 慌ててキッチンに目を向けると、コップが入っていた戸棚の目の前で、逢恋が口をあんぐりと開けたまま立ち尽くしている。

「しょーがないやつだなまったく」

「うっ……わ、悪い……」

 おっちょこちょいな息子の尻拭いをしようと、父さんはキッチンへと向かった。俺は咄嗟に罪を被り、謝罪をしつつも、俺に冤罪を背負わせた真犯人を思いきり睨みつけた。

「ぶふっ……! ご、ごめっ、えひひっ……!」

 しかし、彼女は俺に謝りつつも笑いがこらえきれていない。何が面白いってんだこの野郎……!

「父さんは先に風呂入るからなー」

 そんな俺たちのやりとりには気付かぬまま、父さんは棚を閉め、買ってきたビールを冷やそうと冷蔵庫に手を伸ばした。

「んおぉ……! またこれか……」

 と、そのとき、父さんが大きく身震いをした。

 先ほどの幽霊講座の中で、フラヴィアさんは豆知識をいくつか披露してくれた。その内の一つが、今父さんが体験した『寒気』に関係するものだ。

 彼女が言うには、幽霊には『周囲の温度を下げる』という性質があるらしい。俺の部屋に初めて逢恋が現れたとき、妙に部屋の中が涼しく感じられたのも、おそらくそのせいだ。

 ついでに言うと、ノエルが一昨日、俺の部屋にはもう幽霊がいないと気付けたのも、彼がその豆知識を知っていたかららしい。

「昨日もリビングで寒気したんだよなー」

「アハハっ! ごめんね〜!」

 元凶である逢恋に謝られるも、気付けるわけもない父さんは、冷蔵庫にビールを入れつつ訝しんでいる。

「……もしや、お化けか!?」

「げっ!?」

「え、マ!? せいか〜い! かおるんパパすごいじゃん!」

 まさかの的中に、逢恋は父さんへ拍手を送っている。

「おおすまん! そういやお前、こういう話苦手なんだったな!」

「あっ、いや、べつに……」

「かおるんビビりだもんね〜?」

 狼狽える俺を、彼女は挑発的な表情で煽ってくる。こいつ……俺がリアクション取れないからって調子に乗りやがって……!

「覚えてるか? 昔、母さんと観てた映画が怖過ぎるって、大泣きしながら逃げてきたの」

「……あっ」

 その瞬間、まるで隙間に挟まっていた糸くずが引き抜かれたように、絡まっていた埃のような記憶が溢れ出した。


 俺の映画好きは母さんの影響だ。週末になると、母さんはリビングで映画を一本観てから、寝室へと向かっていた。その隣で、俺が寝落ちせずに一本観終えられるようになったのは、小学校に上がってからのことだった。

 その日もいつものように隣に座り、母さんの顔をちらっと覗き込んだ。その瞳は期待に輝き、自然と口角が上がっている。そんな母さんの横顔に、俺はどんな作品なんだろうとワクワクしていた。

 始まってすぐ、目の前で流れる映像が、いつもとは違う雰囲気を放っていることに気付く。薄暗く粗い画質に、じとつくような不気味さがまとわりついていた。一向に姿を現さないままに、ただひたすらに恐怖だけを掻き立てられるような、そんな気味の悪さを感じていた。

 そして映画終盤、問題が解決したかに思えたのも束の間、『そいつ』は現れた。

 ブラウン管の外にまで這い出した『そいつ』の、長い黒髪の間から覗く、全てを呪うような怨みの込もった目が映し出されると同時に、俺はたまらず大声で泣きながら、リビングを飛び出してしまった。

 ちょうどシャワーから戻った父さんにしがみつき、恐怖に泣き喚く俺に、母さんは何度も何度も謝り続けていた。


「あのあと、お前も母さんも凹んじまって、慰めるの大変だったなあ」

 懐かしそうに目を細め、父さんは言う。

「『トラウマになったらどうしよう』って相当反省してたし、あれからホラーは観ないようにしてたみたいだから、許してやってくれよな」

「いや、まあ、うん……」

 すっかり忘れてしまっていた。その日から、俺は『幽霊』や『ホラー』といったものが苦手になってしまったんだ。

「そういう話も全くしなくなったしな。昔はよく『変なのが見える』とかいってたのに」

「……マジで?」

「マジマジ。母さん霊感あるっつってた」

 避けていた話題とはいえ初耳だ。というか、遺伝とかする能力じゃなくてよかった……。

「……ははっ、懐かしいなぁ。んじゃ、シャワー浴びてくるからな」

 そう言って、父さんは軽く俯き加減でリビングを出た。その表情はどこか寂しげで、けれども少し、嬉しそうに見えた。

「へ〜、かおるんのママもオバケ見える人だったんだ」

「……らしいな」

 キッチンの隅で静かに聞いていた逢恋が、話しながらこっちにやってきた。

「はいこれ、お茶〜」

「うっ……!? あっ……りがとう……」

 不意打ち気味だったせいで、ぎこちないながらも素直に礼を言ってしまった。咄嗟に目を逸らした俺を、彼女はニヤケ面で見つめている。

「にひひ〜! どーいたしまして!」


「ね、かおるんのママって、どんな人だったん?」

 シャワーを済ませ部屋に戻ると、逢恋は俺のベッドに我が物顔で寝転がっていやがった。

「どんな人……と言われてもな」

 昨日も聞かれた気がするが、そんなに他人の母親が気になるのか。

「まあ、明るくて……映画好きだったかな……」

 仕方なく床に座り込み、ベッドに背を預ける。

「へ〜! かおるんと一緒じゃん!」

 そう言って彼女はベッドを降り、なぜか俺の隣に腰を下ろした。

「な、なんだよ……!」

 途端に火照りだした顔を、俺は慌てて背けた。

「かおるんさ、ママのこと、ほんとに好きだったんだね」

「は……!? い、いきなりなんだよ……!?」

 唐突に投げかけられたその言葉に、思わず彼女のほうを見る。

 抱えた両膝に顎を乗せ、どこか儚げな表情で、彼女はじっと前を見ていた。

「だってかおるん、ママのこと話すときいっつも寂しそうな顔してるからさ。大好きだったから、思い出すのもしんどくなっちゃってるんでしょ?」

 少しだけこちらに顔を向け、呟いた彼女の言葉に、大きく心臓が跳ね、体が強張る。

 図星、と言っていいのかすらわからない。俺自身はもう、とっくに乗り越えたものだと思っていたからだ。なのになぜ彼女の言葉に、俺はこんなにも動揺させられているんだろう。

「しんどいならさ、泣いてもいいんだよ? アタシでよければ、ちゃんと慰めてあげるし」

 そう言って、彼女は微かに笑った。その微笑みが、なぜか胸にひどく突き刺さり――。

「……泣きたくても泣けないんだよ」

 つい、余計なことを言ってしまった。

「母さんが死んだあの日から、ずっと……」

 彼女は驚いた様子で、俺を静かに見つめている。

「まあそれでも、いつまでも子供みたいに引きずってるよりはよっぽどいいだろ」


 大人にならないといけないんだ。あの日、母さんに縋りついて泣いていた父さんを見て、俺はそう思った。

 泣いたって母さんは帰ってこない。周りを心配させるだけだ。前に進むためにも、泣いてる暇なんてない。

 そう悟ったとき、込み上げていた涙は、どこかへ消えてしまっていた。

 それからずっと、どれだけ寂しくても、悲しくても、涙が流れることはなかった。


「――子供じゃダメなん?」

 顔を背け、逢恋はそう呟いた。

「アタシらまだ高校生だよ? 大人になるなんて、まだまだ先じゃん」

 まるで駄々をこねる子供のような口調で、彼女は主張する。

「かおるんさ、いっつも落ち着いてて変にはしゃいだりしないけど、そうやって無理に大人になろうとするから、涙もどっか行っちゃうんじゃない?」

 体ごとこちらに向け、ずいっと距離を詰めながら、彼女は言った。その鋭い指摘に、思わず息を呑んだ。

「それにさー? ママはたぶん、かおるんが無理して大人のフリしてるとこよりも、子供みたいに素直に笑ってるとこ見るほうが、よっぽど嬉しいと思うよ?」

 彼女が語ったのは、なんの根拠もない、ただの憶測に過ぎない。それなのに、不思議となんの抵抗もなく、受け入れることができた。

 優しく言い聞かせるような彼女の声が、あの日から凍りついたままだった俺の心を溶かすように、じんわりと染み込んでいく。

「だからさ、もうちょっとだけ、素直になってみたら?」

 そう言って彼女は、不意にこちらへ手を伸ばす。そして俺の頭を、まるで子供をあやすかのように、優しくポンポンと撫でた。

 ――その感覚に、覚えがあった。


 笑顔の絶えない人だった。それこそ棺の中ですら、母さんは微笑んでいた。

 週末の映画の時間は、俺にとって特別な時間だった。正直言って、内容なんてどうでもよかった。ただ母さんの隣で、母さんと同じものを観ていたかった。映像に合わせてコロコロと変わる母さんの表情を、ただ、見ていたかっただけだった。

 時が経ち、内容がなんとなく理解できるようになった頃、それまでは「おもしろかったよ」としか言えなかった俺が、拙いながらも感想を伝えたとき、母さんは涙を流して喜んでくれた。そして笑顔で「すごいね」と言って、頭を優しくポンポンと撫でてくれた。それが、何よりも嬉しかった。

 それから何度も、母さんは俺の頭を撫でてくれた。三時間近い長編作品を寝ずに観れたとき。推理もので犯人を的中させたとき。大人でも理解するのが難しい作品について、自分なりの考察を披露したとき。母さんに撫でられるたび、嬉しくて、幸せで、満ち足りた気分になっていた。

 中学に上がる頃には、さすがに自ら頭を差し出すような真似はしなくなっていた。それでも、不意に撫でられたときの恥ずかしくさとむず痒さの裏で、微かな喜びと充足感を感じていた。

 母さんが病気で入院してからは、頭を撫でられたのは、たった一度きりだった。それも、末期を迎え寝たきりになった頃の、痩せ細って骨張ってしまった手でだ。「母さんの分まで、楽しんでね」と、力の入らなくなった手でぎこちなく撫でられたとき、俺の胸には、ただ悲しみだけがあった。

 何度も、何度も、母さんは俺の頭を撫でてくれた。僅かに揺れる視界と、髪が擦れる微かな音。優しく微笑む母さんの顔と、嬉しそうな声。胸の奥が、じんわりと温かくなる感覚。その全てを、今もなお鮮明に覚えている。


「……ん。いいよ、我慢しなくて」

 気付けば俺の視界は、涙で滲んでいた。

「あ、あぁ……! はぁっ、ううぅ……!!」

 目の前に逢恋がいるのに。こんな情けない姿、見られたくなんかないのに。意思とは関係なく、とめどなく涙が溢れ出てくる。

「ずっと一人で頑張ってたんだもんね。すごいよかおるん、えらいえらい」

「うっ、ぐうぅ……!! うああぁ……!!」

 優しく頭を撫でながら、俺がずっと欲しかった言葉を、逢恋はそっと手渡してくれた。それが、何よりも嬉しかった。


「どお? 落ち着いた?」

 逢恋の問いかけに、俺は天井を見上げるのをやめ、軽くため息をつきながら頷いた。

「そっか」

 短く返答したあと、彼女はまた、静かに膝を抱え込んだ。

 しばらくの間俺たちは、秒針の音だけが響く沈黙の中にいたが、不思議と気まずさは感じなかった。

「……ふふっ、泣いたらスッキリしたっしょ?」

 不意に、逢恋は俺に笑いかける。彼女の言うとおり、俺がずっと胸の内に抱えていた、なんとも言えないざらつくような感覚は、跡形もなく消えてしまっていた。

 ――しかし、いざ冷静になって考えてみると、とんでもないことをやってしまった気がする。さっきまで俺は、同い年の女子に頭を撫でられ、慰められながらボロボロ泣いていたのか。……誰か俺を殺してくれないか?

「……ちょっと、なんで目逸らすん?」

 ただでさえ顔から火が出そうなくらい恥ずかしいのに、逢恋の顔なんて見られるはずもない。

「ね〜! アタシはこっちなんですけど〜?」

 あんまり話しかけないでくれ。俺は今、入る穴を探すので忙しいんだ。

「……てかさ、なんも考えてなかったけど、さっき普通に触れてたっぽくね?」

 そういえば、当然のように逢恋は俺の頭を撫でていたが、生きてる人間に触れるのは難しいんじゃなかったか? 確かフラヴィアさんは、触れられるほうの気持ちも大事だとか、お互いを受け入れろとか言ってたような。……嫌な予感がする……。

「ってことは〜、かおるん、アタシのこと好きになってくれたんだ〜?」

 案の定、彼女は明らかに人をおちょくるような口調で、俺をからかいはじめた。

「も〜照れんなって〜! うりうり〜!」

 やけに楽しげに、彼女は俺の脇腹を小突いてくる。上手いあしらい方も思いつかないので、俺は大きくため息をつき、ガン無視を決め込んだ。

 ――しょうがないだろ。事実なんだから。

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