第四章

 雨は止んだが依然雲は厚く、景色は鈍色に溶けている。

「人の顔見て悲鳴上げるとか、マジありえなくない!? ちょー傷つくんですけど!」

「あ、あはは……」

 すぐそばの公園に場所を移した俺たちは、謎の女子高生幽霊(?)に、なぜか滾々と説教されていた。

「急にコケたから心配で見てあげようと思っただけなのに、あんな逃げることないじゃん!」

「ま、まあまあ落ち着いて……」

 ゆるいウェーブのかかった栗色の髪を指先で弄りながら、俺に向かって怒りをぶちまける女子高生幽霊(?)と、なんとか彼女をなだめようと取りなすノエル。そして俺は、なぜかベンチの上に正座をさせられている。さすがに地べたに直接は泥まみれで可哀想だからと容赦してくれたのだが、雨上がりのベンチは表面にしっかりと水気を湛えており、ズボンはじっとりと濡れそぼってしまった。

「とにかく一回謝ってくんない? じゃないとアタシがかわいそうじゃん。でしょ?」

「あ、えと、そう、だね、うん……」

 彼女の圧に負け、ノエルは口ごもりながら俺のほうをチラリと見た。そして苦笑いのまま軽く首を傾げ、俺に謝罪を促す。なんだか釈然としないが、とりあえず謝っておこう。

「その、悪かった……」

「なに? その謝り方」

 冷たく言い放たれたその言葉に、無意識に姿勢が正される。

「ごめんなさい、じゃないの? てかさ、ちゃんと目ぇ見て謝んないとダメじゃんね?」

「うっ……」

 軽く身を屈めて俺の顔を覗き込み、まっすぐ視線を合わしながら彼女は言った。拳二つ分の距離から見る彼女の顔は、度の合わない眼鏡越しであっても、鮮明に映った。

 きめ細やかな肌やハリのある唇、不満げに細めた瞼にかかる、長く整ったまつ毛と、その奥に覗く、黒く澄んだ瞳。

 思わず、目が泳いでしまった。

「もー! また目ぇ逸らす!」

 それを見た彼女は体を起こし、不機嫌そうに腕を組みながら俺を睨みつける。

「こっち見てよ、子供じゃないんだから。でしょ?」

 諭すようなその口ぶりに、情けなさと恥ずかしさが綯い交ぜになって押し寄せてくる。

「ほら、さーんはいっ」

「ご……ごめん、なさい……」

 随分と子供っぽいやり取りに、俺の羞恥心は限界を迎えようとしている。顔から火が出そうだ……。

「……ふふっ、おっけー! 許したげる!」

 一転して笑顔になった彼女から、親指と人差し指で作った丸と、おまけにウインクをいただいた。

 羞恥心によるものであろう動悸をこらえつつ、ようやく許しを得た俺は大きくため息をつき、ベンチを降りた。

「それで、えと、確認なんだけど……」

 ようやく収まった場に、ほっとした様子のノエルが口を開いた。

「昨日薫くんのうちにいた幽霊って、キミ?」

 俺の目の前にいる彼女は、声も、姿も、昨日部屋で見た幽霊そのものだった。だがこれまでの、明るく感情豊かに話す彼女を見ていると、どうにも同一人物であると、彼女が幽霊であるとは、にわかには信じきれずにいた。

「かおるくん……? ほぇ〜、かおるっていうんだ。かわいい名前じゃ~ん」

 ニヤつきながら彼女は俺をからかう。幼い頃から繰り返されてきた名前イジリにはもう慣れたはずだったが、なぜだか無性にむず痒い感じがして、また目を逸らしてしまった。

「ねね、名字は? なんていうの?」

 そんな俺に構わず、彼女はずいっと顔を寄せてくる。

「さ、笹ノ間……」

「ささのまか~……。んー、じゃあ、のまっちかな~」

「のまっち……?」

「あだ名! いいっしょ?」

 いいっしょ、と言われましても……。

「そんでそっちは? なんて名前なの?」

「あ、僕? 僕は聖夜。桝原聖夜だよ」

「のえる!? え、やば! めっちゃかわいいじゃん! のえるんって呼んでいい!?」

 目を輝かせながら話す彼女に、ノエルは満更でもなさそうに微笑みながら頷いた。

「せっかくだから、キミの名前も教えてよ!」

 笑顔でそう言ったノエルとは対照的に、彼女の表情が少し曇る。

「あー、それがさ~……? アタシ、なーんも覚えてないんだよね~……」

 先程と同じく、毛先を指で弄りながら彼女は続ける。

「名前もそうだし、そもそもなんでこうなっちゃったのかとか〜、なーんも思い出せなくてさ〜」

「思い出せない、っていうと……」

「記憶喪失ってことか?」

 俺の問いかけに、彼女は苦笑いを浮かべたまま頷いた。

「そっかぁ、それは大変だね……」

「ま~じ大変だよ? なんもわかんないからとりあえずその辺の人に話しかけてみたけど、みんなに無視されるしさ~? 肩叩こうと思ったらすり抜けるし、意味わかんねーって感じ~」

「すり抜け……?」

「そ。のえるん手ぇ挙げてみて」

 彼女の指示にノエルは、不思議そうな表情のまま従った。

「ハイターッチ!」

「……あれ!? わわっ!?」

「う、そだろ……!?」

 掛け声とともに二人の手が触れ合う……と思いきや、その腕はそのまま互いの手をすり抜け、結果的に空振りとなったノエルはバランスを崩し、前方につんのめってしまった。

「あはっ! ごめんねのえるん、だいじょぶ?」

「だ、大丈夫……なんだけど……」

 彼女の手と触れ合うはずだった自らの手を、ノエルは目を丸くして眺めている。驚いているのは彼だけじゃない。目を疑うような光景に、俺はただ交互に二人を見ることしかできなかった。

「ね? 意味わかんなさ過ぎてウケるっしょ」

 彼女は笑顔でそう言い放った。あまりにも不可解な現象だったはずだが、当の本人が呑気に笑っているせいか、どうにも深刻さが薄れる。

「昨日、俺の部屋に入ったときも……」

「そ。ドアすり抜けて入ったんだ~。……ってか不法侵入じゃん! やば! アタシも謝んなきゃ、ごめんね~?」

 申し訳なさそうに、彼女は俺に向かって手を合わせた。

「だーれもアタシのこと気付いてくれなかったのに、のまっちはアタシのこと見えてたっぽいからさ、とっさについてっちゃった」

「へぇ、他の人には見えないんだ。……あれ? 薫くんは霊感とかないんだよね? なんで見えてるんだろ」

 確かに、幼少の頃からそういう体験に慣れていたノエルはまだしも、俺にそんな力があるとは思えない。

「ってかさ、アタシってマジで幽霊になってる感じ?」

 彼女は自らを指差し、首を傾げた。

 そもそもの話、彼女が本当に幽霊かどうかなんてのは、俺たちに判断できるようなものではない。幽霊というものの定義すら知らないし、もしあったとしても科学的に解明されていない以上、曖昧な指標だろう。今、彼女を幽霊として扱っているのは、状況証拠による暫定的な措置であり、被害者である俺の独断だ。

「うーん、普通の人には見えなかったり、いろいろすり抜けたりするのは幽霊っぽいけど……」

 そこまで言って、ノエルはふと何かを思いついたように顔を上げた。

「その、そうなったのって、大体いつ頃なの?」

「ん〜、一週間くらい前かな〜?」

 指折り数えつつ、彼女は軽く首を傾げた。それを聞いたノエルは、神妙な面持ちのまま小さく頷く。

「……あぁ、そういえば……」

 そしてようやく、俺もその出来事を思い出した。

「六日前、うちの学校がいきなり臨時休校になったんだ。理由は次の日わかったんだけど……」 

 一瞬の逡巡のあと、彼は目を伏せた。

「どうやら生徒が一人、不慮の事故で亡くなっちゃったみたいで……」


 早朝、ノエルから届いたメッセージを見て、着替える手を止めた。『なんか今日、学校休みらしいよ』と。スマホを手に取り、念のため学校のホームページにアクセスしてみると、赤文字で「臨時休校のお知らせ」と表示されていた。『よっしゃ、二度寝する』とだけ返信し、制服を放り投げてベッドに潜り込んだ。

 次の日、朝のホームルームのためやってきた担任は、ひどく深刻そうな顔をしていた。「一昨日の夜、当校の生徒が校舎内へ無断で立ち入った際に不慮の事故に遭い、亡くなられました」と。悲鳴混じりのざわめきが伝播し、教室中は異様な雰囲気に包まれた。「ご遺族のご意向もありますので、詳細についての詮索は控えてください」だとか、「SNS等での投稿も禁止です」だとか、「突然のことで驚きや不安を感じているかもしれませんが、どうか冷静に、慎重に行動してください」とかなんとか言ってたが、要は大事にしたくなかったんだろう。担任は最後に「今日は授業も部活も中止となりますので、気を付けて帰ってください」と言っていたが、しばらくは誰も、席を立とうとはしなかった。


「……その制服、うちの高校のなんだ。だから、その……」

「その生徒が、アタシってこと……?」

「そう……なんじゃないかなぁって……」

 俯いたまま、ノエルは言った。当の彼女は眉間に皺を寄せ、怒っているような悩んでいるような、複雑な表情のままノエルをじっと見つめている。

「待ってじゃあアタシ、マジ死にってこと? えやばくない?」

 口調は軽いままだが、状況はシリアスだ。かける言葉も見当たらず、つい目を逸らしてしまう。

「え~、マ? さいあく〜……」

 不機嫌そうに体を揺らし、髪の毛を指にくるくると巻きつけながら彼女は言った。そしてそのまま、何かを考え込むように目を伏せた。

「……まいっか! なっちゃったもんはしょうがないよね〜」

「えぇ……」

 と思いきやすぐに顔を上げ、涼しい顔でそう言い放った。そのあっけらかんとした態度に、思わず漏れた困惑の声がノエルと重なった。

「ず、ずいぶんあっさりだね……。悲しくはないの?」

「悲しい? んー、全然? だってなんにも覚えてないしー」

「あぁ、そっか……」

「あとね、道路の真ん中歩いてても、すり抜けちゃうから車に轢かれないし〜、壁とか抜けていろんなとこ行けるから便利だよ?」

「べ、便利って……」

 ポジティブというかなんというか、ずいぶんとたくましいな……。

「えまって、ガチ幽霊系配信者とかめっちゃウケそうじゃない!? テレビの取材とか来ないかな!?」

 目を輝かせながら何かを企む彼女の様子を、なんとも言えない感情のまま、ノエルと並んで眺める。

「……よかったね、悪い人じゃなさそうで」

 不意に、ノエルは俺のほうを見上げ、微笑みながら囁いた。

「ん……あぁ、まあ、そうだな……」

 依然、彼女の存在は謎に包まれたままだが、少なくとも悪意があったわけではなさそうだ。散々な目に遭わされたことについては……まあ特別に不問としておいてやろうか。

「ちょっと、アタシのことなんだと思ってたの?」

「……俺に恨みを持つ悪霊?」

「ひどっ!?」

 信じられないといった表情で彼女は俺を睨みつけるが、いきなり部屋に出てきて脅かされたら、誰だってそう思うだろう。

「まあなんにせよ、危害を加えるつもりがないんなら、なんだっていい」

「ないってそんなの。ってか、触れないんだから危害加えようもなくない? ほら」

「おわぁ!?」

 不意に、彼女は俺に向かって腕を突き出し、その手はそのまま俺の顔面に突き刺さった。それ自体にはなんの感触もなかったが、『他人の腕が自分の頭を貫通していく』という体験があまりにも衝撃的過ぎて、思わず大きくのけぞってしまった。危うく後ろに倒れそうになるのをなんとか立て直す。

「あはっ! ちょっとびっくりし過ぎだって〜! やっぱのまっちビビりっしょ?」

「ぐっ……」

 誰にもバレないようひた隠しにしてきた臆病さが、こんな短期間で二人もの人間に感付かれてしまった。俺はもうおしまいだ。

「あはは……えと、一週間前からそんな状態なんだっけ? ってことはその間、誰にも相談できないままずっとひとりぼっちだったってことだよね……?」

「そだよー!? だからほんっと寂しくってさ~!」

 大きく肩を落とし、辟易といった表情で彼女は続ける。

「気付いたらちょうど、あそこの滑り台の下んとこに座っててさ? なんでこんなとこいるんだろって思いながらこの辺歩き回ってたんだけど、なーんにも思い出せないし、すれ違う人みーんなアタシのこと無視するし、マジしんどかった~。あ、しんどかったって言っても、眠くなんないしお腹も空かないから、精神的にってことね」

「えっ、そうなの?」

「なんかね、どんだけ歩いても足痛くなんないし、走っても息上がったりしないの。すごくない?」

 さっき自分でも言ってたが、ずいぶんと便利な体だな……やはり幽霊は通常の物理法則から外れた、非科学的な存在だということか。

「でもさ~? そのせいで寝ようと思っても寝れないから、毎晩暇なんだよね〜」

 言いながら、彼女はこちらをチラリと見たかと思うと、不意にイタズラっぽい笑顔を浮かべ、さらに続けた。

「ってことで〜、のまっち、今日泊めてくんない?」

「……は?」

 どうしてそうなった?

「スマホ貸してくれたら適当に動画とか見とくからさ~。ね? いいっしょ?」

「い、いいわけないだろ……! そんな、いきなり……!」

 両親ですら数えるほどしか足を踏み入れたことのない聖域である俺の部屋に、同年代の女子が足を踏み入れていいはずがない。しかも、プライバシー満載のスマホを他人に貸すだって……?

「ねーおねが〜い! このままじゃアタシ、退屈で死んじゃうかもしんないよ?」

「んぐっ……!」

 上目遣いで、ねだるようにこちらを見つめる彼女に対し、もう死んでるだろ! と、喉元まで出かけていた言葉を呑み込んだ。その自虐は不謹慎過ぎて触れづらい……。

「それは大変だ! 薫くん、彼女を助けてあげないと!」

 なんでお前から援護射撃が来るんだ。

「ということで、今日は薫くんちでみんなでお泊まり会をしよう!」

「いぇーい!」

 そしてしれっと自分の参加を表明したノエルに合わせ、彼女も手を挙げ歓喜している。

「おい! 勝手に決めるなって……!」

「え〜?」

「ダメなの……?」

 と思ったら二人して、媚びるような表情で俺を見つめはじめた。なんの茶番だこれは?

「……はぁ……。わかったよ……勝手にしろ……」

「やったぁ!」

「うえ〜い!」

 そうしてなぜかとんとん拍子に、お泊まり会の開催が決定してしまった。

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