第三章
寝ぼけ眼でスマホのアラームを止めたノエルは、俺のほうを見るなり顔を引きつらせた。彼曰く、この前観た映画に出てくるゾンビのほうがまだマシだと思えるほどに、ひどい顔色をしていたらしい。まあ、あれから一睡もできずに寝返りを打ち続けていただけなのだから、当然ではあるだろう。
普段の夜更かし癖のせいで寝付きの悪さには自信があったが、昨晩は絶対に眠れないと確信できるほどに、最悪なコンディションだった。悪夢のせいか妙に昂った精神が落ち着かず、そのせいで余計なことを思い出してしまったからだ。目を閉じれば、俺の部屋に佇むその姿がフラッシュバックし、耳元ではその声が繰り返し聞こえてきていた。なんとか振り払おうと何度も寝返りを打つも、それはしつこく俺のそばに現れ続けていた。
まったく、あの幽霊の野郎め(話し声は女子っぽかったので野郎という表現は適切ではないが)。散々な目に遭わせられたわけだから、慰謝料でも請求してやりたいところではあるが、相手はなにせ存在するかどうかすら怪しまれているもののため、泣き寝入りするしかないというのがなんとも腹立たしいところだ。
というか、あの野郎はまだ我が家に居座っているのだろうか。ノエルとともに部屋に戻ったときには影も形もなかったわけだが、それこそノエルが一緒にいたから、あいつはどこかに身を隠していたのかもしれない。俺が一人になるのを、虎視眈々と待ち構えていたのかもしれない。俺が油断して隙を晒すのを、息を潜めて待っていたのかもしれない。
そもそも、あの野郎の目的はなんなんだ。昨日はなんとか逃げ出すことができたが、もしあそこで逃げていなかったら、俺はどうなっていたのか。どうされていたのだろうか。「たぶん悪い人じゃないよ」と、ノエルは言っていたが……。
それに、そいつの性質が善悪どちらであろうが俺には関係ない。プライベートな空間にずけずけと乗り込んだうえ、その部屋の主を精神、肉体ともに追い詰めるようなやつ、野放しにするわけにはいかないだろう。目的がなんであれ、即刻退去させなければならない。
問題は相手が、いわゆる超常現象の類だということだ。こういうことに慣れているらしいノエルですら、コミュニケーションが取れるわけではないと言っていた。であればここはシンプルに、お祓い的なものを依頼すべきだろうか。そうなってくると、依頼先や費用についても考えなければならない。当然、身内にそのようなツテはない。この場合、頼むべきは近所のお寺でいいのだろうか。
などと思案するうちに、あの野郎に対する恐怖は薄れ、代わりに沸々と怒りが湧いて出てきていた。今度姿を見せたときはどう罵ってやろうか。効果があるかどうかはわからないが、塩を思いきり投げつけてやるのもいいだろう。それであの野郎が少しでも嫌な思いをするのであれば万々歳だ。多少床がざらつくことなど、さして問題ではない。塩の種類にこだわるのもいいだろう。あえてニンニクの風味が付いた塩を使うことで――。
「笹ノ間くーん?」
「――はっ!?」
慌てて顔を上げた。教壇に立つ倉橋が、複雑そうな表情で俺を見ている。
「おはよう。体調は大丈夫?」
「あ、はい、すいません……」
かけられた声に怒気はなく、俺を気遣うように彼は微笑みかけた。
「ならよかった。もう少しで終わるから頑張ってね?」
手首の腕時計にちらりと視線を向けたあと、彼はそう言った。その優し気な声色と甘い微笑に、教室内がにわかにざわめき立つ。
「はい、じゃあ続きね。えーこの文法における――」
寝不足により朦朧としていた意識は、いつのまにか限界を迎えていたらしい。本来ならそのまま、何も言われずゆっくりと眠っていられたはずだが、代理教師の彼は見逃してくれるほど甘くはないようだ。
いまだ興奮冷めやらぬ女子たちは、ひそひそと彼の魅力を讃え合っている。背中にチクチクと突き刺さる視線は、おそらく男子たちのものだろう。
先生に注意されるなんて体験は、ずいぶんと久しぶりだった。好奇と冷笑の入り混じった、いくつもの視線に晒され体が急激に熱くなっていくこの感覚も、できれば味わいたくない類のものだ。
……あのク◯幽霊め、公衆の面前で俺に赤っ恥をかかせるとは。
授業終了まで、残り数分。俺は小さくため息をこぼし、シャーペンを二回ノックした。
「だいぶお疲れって感じだね……」
壁にもたれかかり天井を仰ぐ俺の顔を、ノエルは心配そうに見つめながら言った。
「……まあ、『憑かれ』てるしな」
「そうだよねぇ」
本来なら思いついても口に出さないようなくだらなさだが、今は堰き止める気力もない。
「……んぇ? あっ、そういうことか……」
やめろ、今さら気付くんじゃない。
「えーっと……んー……あっ!」
そして何かを思いついた彼は、俺に向かって言った。
「授業も終わったし、帰ってゆっくりお風呂に『浸かれ』ば元気になるよ!」
参った、俺の負けだ。だからそんなドヤ顔で俺を見つめるのはやめてくれ。
「くだらねえこと言ってる暇があったら帰ろうぜ」
「えぇ!? 薫くんが始めたんじゃん!!」
さっさと立ち上がった俺を、膨れっ面でノエルは睨みつける。
「まぁいいけど……あっ、帰り、ついてくね」
「ん? なんか用か?」
「用、というか……幽霊、まだいるかもしれないよ?」
どうやら気を遣われているらしい。俺がビビりだってことは、もはや暗黙の了解なのか。
「あぁ、まあ、大丈夫だろ……」
そう手を差し伸べられると、跳ねのけたくなるのが思春期ってもんだ。それに、俺の心の内はあのク〇野郎に対する憤怒と憎悪に埋め尽くされている。今さら恐怖心が入り込む余地などない。
「ほんとに? 油断してると後ろから……わっ! かもよ?」
子供だましのような行動だったが、見事に俺の体は反応し、机がガタッと音を立てる。心の中の憤怒と憎悪が、隅っこで縮こまっているのが見えた。
「……あー、そうだな、昨日泊めてもらった礼もしたいし、ちょっと寄ってってくれよ」
「ふふっ、はーい!」
パラパラと雨粒の落ちる帰路を、他愛のない会話を交わしながら歩く。
「いや、あれも組合のストのせいで製作中止になったはず」
「うぇ、マジぃ? 楽しみにしてたのに……」
身長差があるせいで、ノエルの傘はちょうど二人の顔を遮るような位置にくる。彼はそれに気を遣ってか、自分の肩が濡れるのも厭わず目一杯傘を逆側に傾け、にこやかな顔を見せながら俺に話しかける。せめてものお返しに、俺は自分の傘をなるべく彼のほうへ寄せることにしている。
「この公園、珍しく遊具がいっぱいあるよね」
歩道沿いの小さな公園。危ないからと遊具が撤去される公園も多いなかで、ここはブランコに滑り台、小高い丘のような謎の遊具も、まだ撤去されずに残っている。昨日、ノエルに連れられ座り込んだのも、ここのベンチだ。
「うちの近くの公園なんてさ、もうベンチしか残ってないよ」
「まあ、外で遊ぶような子供も減ってきてるだろうし、しょうがないんじゃないか?」
「そうかなぁ。なんだか寂しい……あれ?」
話の途中で、ノエルは正面を向いたまま不意に立ち止まる。その視線の先に目を向けた。
「――っ!?」
十数メートル先、俺たちの行く手を阻むように、『そいつ』は歩道の真ん中で立ち尽くしていた。
「あの子、傘も差さずになにやってるんだろ」
制服を着た、一人の少女。雨の中不気味に佇むその姿は、夕暮れの部屋の中でじっと俺を見つめていたあのときと、同じだった。
「風邪引いちゃう……って、薫くん……? どうかした……?」
「あ、あいつ……! あいつだ……!」
指差す手は震え、足が勝手に後退りをはじめる。
「あいつ……って、まさか……!?」
俺の異変を察知し、状況を把握したノエルは、すぐさま一歩前に身を乗り出した。
「だ、大丈夫だよ! ぼ、僕がなんとかするから……!!」
「なんとかって、どうするつもりだよ……!?」
「わ、わかんない、けど……!」
「うあぁっ!? こ、こっち来たぞ!?」
慌てふためき、二人揃って傘を取り落とす。そんな俺たちをよそに、『そいつ』はゆっくりとこちらへ近付いてくる。
「に、逃げたほうがいいんじゃないか!?」
「い、いざとなったら、ね……! 僕に構わず逃げていいから……!」
自分より一回り小さいその背中に、俺は身を隠すように縮こまったまま、動けずにいた。情けない話だが、彼にかけられた勇敢な言葉に、俺は縋りつくことしかできなかった。
そして俺たちの前方、一メートルほどのところで、『そいつ』は歩みを止めた。
「……あ、あの! か、彼に、なにか用、ですか……!?」
ノエルの問いかけに、『そいつ』は何の反応も示さず、静かに俯いたまま――。
「なんで……」
「ひぃっ!?」
あのときと同じ声に、思わず悲鳴が漏れた。恐怖に視界は歪み、跳ねまわる心臓が口から飛び出しそうだ。渇きに張りついた喉に生唾を流し込み、俺はじっと『そいつ』の言葉を待っていた。
そして『そいつ』はゆっくりと顔を上げ、口を開いた。
「――なんで逃げんの!? 話くらい聞いてくれたっていいじゃん!!」
「……は?」
「……うぇ?」
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