第二章

 ただいまも言わず、戸を閉めた。さっさと汗を流したくて、リビングには目もくれず自室へ急ぐ。階段を一段飛ばしで上がりきり、部屋のドアへ手をかけた。

 後ろ手にドアを閉め、バッグを放り投げたそのとき、無性に寒気を感じて、思わず身震いをした。

 とっさにエアコンのほうを見るが、パネルは閉じたままだった。カーテン越しだが、窓はきちんと施錠されているように見える。

 というか、部屋に入った時点では何も異変はなかったはずだ。梅雨時の夕暮れ、締め切った部屋らしい蒸し暑さに、顔をしかめながらドアを閉めたからだ。だがそのあと、投げたバッグが床に落ちる、ドサッ、という音とともに感じた妙な寒気が、今も消えずに体中を這いまわっている。

「……熱中症とか、勘弁してくれよ……」

 言いようのない違和感と、脳裏をよぎる非科学的な存在への恐れを振り払おうと、そう呟いた。そして部屋の中央、小さなテーブルの上にあるリモコンへ手を伸ばす。シャワーでも浴びて、冷えた部屋で休めば治るだろう。そう思いながらリモコンのボタンを――。

「ねぇ」

 背後から、声がした。

「キミさ」

 心の底から恐怖したとき、人は悲鳴を上げることすらできないらしい。全身を鳥肌が走り、首筋を流れ落ちる汗がひどく冷たく感じる。頼むから気のせいであってくれ。そう祈りながら、ゆっくりと振り向いた。

「見えてるよね、アタシのこと」

 ドアの前に、人が立っていた。ほんの数秒前に、この手で閉めたドアの前に。開く音も、閉まる音も聞こえなかった。なのにこいつは、もとからそこにいたかのように立っている。ありえない、そんなわけない。

 耳元で鳴っているのかと思うほどに、心臓の音が頭に響いてくる。自分が今、息を吸っているのか吐いているのかわからない。部屋の中はまだ蒸し暑いはずなのに、手足が凍ったように冷たくて、感覚がない。

「――がっ!? 痛ッ!?」

 急に視界がブレて、少しの浮遊感のあと、腰のあたりを蹴り飛ばされたような衝撃を感じた。痛みに耐えながら片目を開けると、足首にバッグの紐が絡みついているのが見える。無意識に後退りしていたせいで、バッグに足を取られてしまったようだ。。

 仰向けで腰骨の辺りをさすりながら、はっと気付く。あいつがいない。

 慌てて部屋の中を見回すが、ベッドの上にも勉強机のほうにも姿が見当たらない。……やはり見間違い、あるいは幻覚、幻聴の類だろうか。だとすれば先ほどの映画は、俺の精神に凄まじいほどの悪影響を与えたということになる。まったく、なんてことをしてくれたんだ……。いまだ小刻みに震えるままの手で、胸の上にずり落ちていた眼鏡を取った。

 そして鮮明になった視界の端に、そいつはいた。俺を覗き込むそいつと、目が合った。影の落ちた顔の中、そいつの目は確かに、俺を見つめていた。


「うわああああ!!」

 肺の中の空気全てを悲鳴に変え、飛び跳ねるように立ち上がった。ノブを引き抜くほどの勢いでドアを開け、転がり落ちるように階段を降りた。玄関を飛び出て、ただひたすらに走り続けた。とにかくあいつから逃げないと、それだけを考えていた。

「……あれ? 薫く――」

「ノエル!! た、助けてくれぇ!!」

 ほんの一、二分走ったところで、見知った顔に出会った。その瞬間、気が緩んだのか、腰が抜けてしまった。

「えっ!? ちょっ!? ぐえっ!!」

 目前で足に力が入らなくなり、ほとんど倒れ込むような形で、彼の腹部へと抱きついた。

「げほっ! うぅっ……! ど、どうしたの……いきなり……」

「助けてくれ!! 部屋に! 部屋に!!」

「部屋がどうしたの……? ダゴンでも出た?」

 勢い余って尻餅をついたノエルに縋りつきながら、俺は必死に助けを求める。

「さ、寒気がして、見たら、人が、閉めたのに!!」

「閉めた……?」

「い、一回、消えたのに、横に……! 俺を見てた!!」

「ちょ、ちょっと待って! 一旦落ち着いて! ほら、深呼吸して……?」

 俺の肩を押さえ、優しく語りかけるノエルの声に合わせ、深く息を吸い込む。

「そう、吐いてー……ゆっくりー……もう一回……」

 一息吸うたびに、頭がハッキリと、一息吐くたびにだんだんと、震えが治まっていく。

「大丈夫? 落ち着いた? ……歩道の真ん中だと危ないし、あそこまで歩ける?」

 そう言って彼は、道路脇の公園内に設置されたボロボロのベンチを指差した。深呼吸を続けながら俺は頷き、ノエルに支えながらも、なんとか歩きはじめた。


「そ、れは……やばい、ね……」

 経緯を聞き、青ざめた顔でノエルは呟いた。

「不審者……泥棒とかって可能性は?」

「……姿を消す能力でも持ってない限り、それはないな……」

 俺が目を離したのは、倒れ込む間の数瞬だけだった。どこかに身を隠すには短過ぎる時間であり、そもそも俺の部屋には人ひとり隠れられそうな物陰はない。それに、眼鏡を掛け直すほんの一瞬で俺の真横に現れたのも不可解だ。

「じゃ、じゃあつまり、それって……」

「……幽霊、だと思う」

 口に出した途端、鳥肌が体中を這い回った。そんな胡乱な存在、全く信じてなんていなかったのに。というか、自分の身に起きたことなのに、正直言って今も信じ切れていない。

「信じられない、よな……こんな話……」

 そう言って、背もたれに体重を預けながら深くため息をつく。ギシギシと、何かが軋む音が聞こえた。心身ともに疲れきっているのが、自分でもよくわかる。それほど強烈で、最悪な体験だった。

「うーん……正直、百パーセント信じろっていうのは、ちょっと難しいかなぁ……。でも、薫くんが嘘をついてるとは思えないし……」

 腕を組み、首を傾げながらノエルは唸る。

「……とりあえず、確かめに行こうよ。僕も一緒に行くからさ」

 やがて顔を上げ、彼はそう言った。

 本音を言えば、行きたくなんてない。ノエルの手前、必死に取り繕ってはいるが、はっきり言って死ぬほど怖い。

 だが、このままここでじっとしていたって何も解決しない、ということもわかっている。わかっちゃいるが……。

「なにかいるなら、それこそ警察に通報すればいいよ。不審者ならそれで解決だし。幽霊だとしても、とりあえず対応はしてくれるでしょ、たぶん。もしいなかったら……」

「……いなかったら?」

「ま、まあとりあえず行ってみよ! ほら、立って立って!」

 ノエルは勢いよく立ち上がり、俺に向かって手招きをした。……なんでお前はそんなに乗り気なんだ。怖いもの知らずか?


「お邪魔しまーす! ご両親は仕事?」

「……出張で、帰ってくるのは明日らしい」

「そっか。なにげに、薫くんち来るの初めてだなぁ」

 自分の家にも関わらず警戒を強める俺とは違い、普段と変わらぬ陽気さで、ノエルは家の中へと足を踏み入れた。玄関口で少しの間、キョロキョロと辺りを見回していたが、やがて小さく鼻を鳴らしたあと、おもむろに靴を脱ぎはじめた。

 軽く身を屈め、靴を揃える。視界に映る彼の細かな仕草に育ちの良さを感じつつも、その間俺は廊下の奥に見える階段から、一瞬たりとも目を離すことができなかった。

 ……つい数分前の出来事だ。意識せずとも映像が再生されてしまうほど、脳裏にこびりついている。汗の冷たさも、息苦しさも、全て鮮明に思い出せる。

 体の奥底から込み上げてくる恐怖を必死に抑え込もうと、拳を強く握りしめていた。

「……えーっと、二階、かな?」

 俺の視線を辿り、現場を察知したノエルは、さっさと階段のほうへ向かおうとする。

「え? ちょ、おいおいおい……!」

 そしてそのまま、慌てる俺をそっちのけで、つかつかと二階へ上がっていってしまった。

 自分の家なのに、廊下の真ん中で俺は一人取り残されてしまった。

「薫くーん! どの部屋ー?」

 二階から聞こえてくる声は変わらず潑剌としていて、張り詰めていた緊張の糸が少しだけ、緩んだ気がした。

「はぁ……クソ、わかったよ……。今行くから、ちょっと待っててくれ!」

 それでも、怖いものは怖い。竦む足を引きずるように、一歩一歩、階段を上っていく。

 一段上がるごとに鳥肌が立ち、半分上がったところで心臓が早鐘を打ちはじめ、二階に上りきるころには、体の震えが止まらなくなっていた。頭の中は完全に、恐怖に支配されていた。もし、このドアの向こうにまた、あいつがいたら……。

「大丈夫だよ薫くん。僕に任せて」

 いつのまにか、目の前にノエルが立っていた。手すりを強く握りしめ、浅い呼吸を繰り返すだけの俺に、彼はそっと微笑みかけてくれた。

「この部屋だよね? 勝手に開けちゃってもいい?」

 俺の視線の先、ドアノブに手をかけながら、ノエルは言った。ゆっくりと頷き、俺はそのまま目を閉じてしまった。少しの静寂のあと、カチャリと、ドアの開く音。

 目を閉じたのは失敗だったか。暗闇の中、ひたすらに恐怖だけが増幅されていく。次に目を開けたとき、もしも目の前に何かがいたら……そんな考えが頭をよぎる。ダメだ、もう二度と目を開けることは――。

「……うん! やっぱり誰もいないや!」

 案の定といった声色で、ノエルは高らかに宣言した。……いや、安心するにはまだ早い。

「は、入ってすぐ左に、く、クローゼットがあるだろ……? そこに、か、隠れてるんじゃ……!」

 目をつぶったまま、部屋の中へと呼びかける。すぐさま、スライド式の扉を開ける音が聞こえた。

「いないよー。ここ、本棚になってるんだね」

「じゃ、じゃあ、ベッドの下だ!」

 はいはーい、と彼は二つ返事で答える。

「いないねー。あと、机の下とかにもー」

「だったら、窓の外だ! ベランダに潜んでるんだろ!」

 鍵の開く音と、窓の開く音。途端に家の中を、雨上がりの柔らかな風が通り抜けた。

「んー、涼しー。あ、誰もいないよー」

 気の抜けた声で、ノエルは言った。いつのまにか、体の震えは止まっていた。

「そ、そうか……」

 長く、深く息を吐く。痛いほど跳ね回っていた鼓動も、徐々に治まりつつあった。恐る恐る瞼を開くと、ノエルが部屋の中で、にこやかに微笑んでいた。


 年季の入った勉強机を背に、真新しい椅子へと腰を下ろした。大きく息を吐きながら、背もたれに体を預ける。

「少なくとも、この家の中にはいないね」

 俺のベッドに腰かけたまま、ノエルはそう言い切った。

「……実は僕、霊感があってさ。小さい頃はよく、なにもないところに向かって話しかけたりしてたらしいんだ。今でもたまに、変だなって思うときがあって……そういうときは多分、誰かが近くにいるんだなって」

 どこか懐かしそうに、彼は顔を綻ばせた。

「だからさっき、家の中に入った時点で、誰もいないってわかってたんだ」

「それで、やけに落ち着いてたんだな……」

 だとすれば、隣でひとり戦々恐々としていた自分が、なんとも恥ずかしく思えてくる。両手で顔を覆い、また深くため息をついた。

「あのさ……その、疑ってるわけじゃないんだけど……僕はそうやって、霊におどかされたこととかなくて、それで……」

 言葉に詰まり、少し俯くノエル。だがすぐに顔を上げ、俺の目をじっと見つめる。

「……薫くんが見たのも、たぶん悪い人じゃないと思うんだ。だから、きっと大丈夫だよ」

 そう言ってまた、ノエルは俺に微笑みかけた。……きっと彼なりに、俺を励まそうと、勇気付けようとしてくれているんだろう。

「まったく……なんの根拠もないな」

 嫌味ったらしく、けれども少しだけ口元を緩めながら、彼のほうを見る。

「悪いな、付き合わせて。……ありがとう、おかげで助かった」

 彼に倣い、精一杯の微笑みを返した。


「あっ! そうだスマホ!」

 玄関口で突然、何かを思い出したかのようにノエルは立ち止まり、こちらを振り返った。

「スマホ?」

「そうだよ! うちに忘れてったでしょ」

 彼がポケットから取り出したのは、紛うことなき俺のスマホだった。レビューサイトを見たあと、バッグの中へ投げ入れたはずだったが……どうやら目測を誤っていたらしい。

「僕からのメッセージが入ってるけど気にしないでね。スマホ忘れてるよって、連絡しようと思って」

「それ、意味なくないか?」

「だよね……。手元のスマホに通知が来て初めて、自分のバカさに気付いたよ……」

 彼の言うとおり、スマホには通知が一件。そのままにするのも味気ないので、ありがとうの意味を込めたスタンプを送っておいた。

「あはは、どういたしまして……」

 自分のスマホを取り出し、画面を見た彼は、苦笑いを浮かべながらそう言った。

「で、無いと困るだろうなと思って届けにきたんだ。そしたらちょうど、薫くんが走ってきたから」

「それであんなところ歩いてたのか」

 ノエルの家は、校舎を挟んで反対側の住宅街にある。そこまで離れているわけではないが、それでも歩いて十五分はあるだろう。

「この辺だって聞いてたし、表札見ればわかるかなと思って」

「そんなわざわざ……置いといてくれれば取りに戻ったってのに」

 どこまでも親切なやつだ。他人への思いやりの心だけでできてるのか?

「じゃ、任務も完了したし、帰るね。また明日!」

「おう、ありがとな」

 軽く手を上げ、別れの挨拶を交わす。玄関の戸が開き、すっかり日の落ちた薄闇の中へと、ノエルは消えていった。

 一歩身を乗り出し、伸ばした手で鍵をかけた。今、この家には俺一人だ。そう、俺一人、きり。

 きっと大丈夫。ノエルの微笑みを心に思い描きながら振り返る。廊下は電灯に照らされ、階段はいつもと同じように、俺が上がるのを静かに待っている。きっと、大丈夫……。

 気がつくと俺は鍵を開け、家を飛び出していた。すぐ前を歩く彼の背中に手を伸ばしながら、必死に叫んでいた。

「まっ、待ってくれノエル!!」

 もはやハリボテと化した体裁を気にする余裕など、俺にはなかった。

「……今日一日だけ、お前ん家に泊めてくれないか……?」


 八十インチのスクリーンの前、三人掛けの大きなソファの両端に、俺とノエルは座っていた。下から上へと流れるスタッフロールを、ぼんやりと眺めるのにも飽きたころ、ふと横に目をやった。

「……そろそろ寝るか?」

 うとうとと船を漕いでいたノエルに声をかける。

「んー……わかったぁ」

 間延びした声で答える彼の瞼は、もはや閉じているも同然だった。

 ソファの中央、無造作に置かれていた二つのリモコンに、彼は手を伸ばす。右手のリモコンを押すと、部屋がオレンジ色の薄明かりに包まれた。そして左手のリモコンのボタンを押すと、背後のプロジェクターから聞こえていた微かなファンの音も消え、部屋の中は一気に静かになった。

「ふあぁ……ねむ……」

 ソファの足元、敷いておいた布団の上へ、ノエルは倒れ込むように寝そべった。ソファを後ろへ目一杯下げたおかげで、二人が十分寝転がれるほどのスペースを確保できていた。

「……今日はいろいろと、ありがとな」

 布団に腰を下ろしながら、ノエルに向かって改めて礼を言う。幽霊事件にスマホ、寝場所まで世話になってしまった以上、言い過ぎるということもあるまい。

「お礼なんていいよぉ。僕も、お泊まり会なんて初めてで楽しかったしぃ」

 布団の上でもぞもぞとうごめきながら、彼は言った。実際のところ、俺が泊めてくれと頼んでから、つい数十分ほど前まで、随分とはしゃいでいたように見えた。

「それより、その……今日はごめんね、薫くん……」

 心当たりのない謝罪に戸惑い、硬直する俺をよそに、彼はさらに続ける。

「薫くんがああいう映画、苦手だって知らなくて……」

 申し訳なさそうに話す彼の声色には、いつもの快活さはない。

「その、怖かった……よね?」

「いや、そんなことない」

 強がりがつい口をついて出た。

「あれはデカい音に驚いただけで、べつにビビってたわけじゃない」

「あっ、そうなんだ……」

「作品を悪く言いたくはないが表現は一貫しておくべきだったな。あそこでジャンプスケアに逃げたせいで格が落ちるというか……」

 ペラペラと薄っぺらな批評を並べ立ててみたところで、夕方の一件があった以上、俺がビビリだということはすでにバレているとは思うが……。

「……寝るか」

「あ、うん。えと、おやすみ……?」

 なんだかバカらしくなり、途中で諦めてしまった。突然話を打ち切られ、ノエルは困惑気味だったが、五分ほどの静寂のあと、彼は微かに寝息を立てはじめた。その安らかな音色に耳を傾けているうちに、俺の意識も夢の中へと消えていった。


 ふと、目が覚めた。やけに明るい照明に違和感を抱きながら、目を擦り顔を上げた。

 背を預けたシートから伝わる、規則的な振動。それに合わせ、視界上部で揺れる吊り革たち。曇ったガラス窓の向こうは真っ暗で、反射した車内の景色の中に、俺がいた。

 車内には乗客が、俺を含め三人。一人はスーツ姿の、サラリーマンらしき男性だ。連結部近くの座席に浅く腰掛け、手元のスマホを、顔がくっつきそうなくらいの近さでぼーっと見つめている。

 もう一人は髪が長く、服装からしても、おそらく女性だろう。俺に背を向けるように、ドアに向かって立っている。車内は依然揺れ続けているが、彼女は何にも掴まらず、直立のままじっと、扉に向かって立ち尽くしている。

 寝起きのせいか、頭の中はぼんやりと霞がかかったかのようだ。状況の飲み込めないままに、ただ電車に揺られていた。

 そのとき、軽快なチャイムの音が車内に鳴り響いた。

「次はー、首吊りー、首吊りです」

 淡々とした口調に似つかわしくない、異常なアナウンス。そんな縁起の悪い駅名が本当にあるのだろうか。

「……うっ、ぐっ……げっ……」

 するとドアの近く、女性が立っていたほうから、まるで喉の奥から絞り出しているかのような、そんな声が聞こえた。反射的に目をやった俺の視界の中で、彼女の体はなぜか少しだけ宙に浮き、フラフラと横に揺れていた。

「じっ、じぬ゛っ……だず、げっ……」

 首のあたりには不自然な凹みがあり、彼女はそこに向かって必死に爪を立てていた。つま先を真っ直ぐに伸ばし、床を捉えようと必死にもがく彼女の体が前後左右に揺れるたび、ぎしっ、ぎしっと、何かが軋む音がする。

 助けに行こうにも、なぜか体が縫いつけられてしまったかのように、動けない。ただじっと、痙攣しながら助けを乞う彼女の姿を見つめていた。

「だれ゛、がっ……だ……ず……」

 その声が途切れたあと、彼女は腕をだらりと下ろし、宙吊りのまま動かなくなった。

 そしてまた、チャイムの音が鳴り響く。

「次はー、飛び降りー、飛び降りです」

 そしてほんの数瞬ののち、重い何かが地面に叩きつけられたような鈍い音が響いた。音の出所のほうへ、思わず視線が吸い寄せられた。

 床一面を塗りつぶす赤、その中心にスーツ姿の男性が横たわっている。顔の半分は形を失い、見るも無惨な姿へと変貌していた。

 かろうじて損傷を免れた側の、彼の虚ろな目は、じっと俺を見つめていた。

 そのとき、軽快なチャイムの音が、辺りに鳴り響いた。

「次は――」


「――はっ!?」

「わっ!? あだっ!?」

 ゴチンッ。跳ね起きると同時に、額に強い衝撃を受けた。

「い、いだだだだ……」

 裸眼なせいでぼんやりとだが、ノエルの姿が見える。彼は額を押さえて痛がっていた。

「あ……あぁ、悪い……大丈夫か……?」

「うん、平気……それより、薫くんこそ大丈夫? なんだか、うなされてたみたいだけど……」

「うなされて……?」

「そうだよ? だから揺すって起こそうと思って……わ、汗だくだね」

 言われて気付く。首筋を伝い落ちていく、やけに冷たい汗の粒。

「悪い夢でも見た……?」

「……あぁ、いや、うーん……」

 手のひらで汗を拭いながら、ついさっき見た夢の内容を思い出そうとするが……。

「まったく覚えてないんだよな……」

「ありゃ、そうなんだ……まあ、そういうこともあるよねぇ……」

 苦笑いを浮かべるノエルを横目に、枕元のスマホに手を伸ばす。表示された時計を見るに、眠りについてからまだ一時間も経っていない。

「悪い、起こしたよな」

「いいよ、気にしないで。ふあぁ……」

 大きくあくびをしながら、ノエルはまた布団の中へと戻っていった。

 かけらも記憶に残ってはいないが、心配されるほどうなされていたぐらいだから、相当怖……変わった夢だったんだろう。思い出そうとするのは止めて、さっさと寝るか……。

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