第5話

​***

「マスター、伏せてッ!!」


​「え――」

 緋宮が唇を微かに震わせ、死神の囁きを漏らした、その刹那。


 サップが悲鳴に近い声を上げ、俺の身体を強引に突き飛ばした。直後、背後から迫った「何か」が俺の下腹部を浅く、だが確実に切り裂く。

 焼けるような熱。そして、痺れるような痛みが全身の神経を逆撫でした。


​「クソが……っ!」


​ さらに追撃の蹴りが腹部を見舞う。

 衝撃波に似た重い一撃。俺の身体は教室の壁を突き破り、そのまま二階から運動場へと放り出された。


​「……サップちゃん、説明してくれ。これは、何事だ」


​ 土煙を上げながら着地し、膝をつきながら問う。隣に立つサップの顔は、かつて魔王軍の幹部と対峙した時よりも険しい。

「襲撃です! それも、極めて手際が良いです。おそらくは魔王軍が放った、対勇者用の特化暗殺者かと」


​「相手は……どこだ」

「分かっているのでしょう? 蜜柑川」

 深い闇の底、凍結した海から響くような声。

 二階の開いた穴から、緋宮さんが――いや、緋宮硝子が、吸い込まれるように音もなく降り立った。彼女はフゥーッと長く、肺の毒を吐き出すように息を漏らす。

「この期に及んで、まだその『余裕』を維持するつもり?」

「緋宮……。お前が、刺客だったのか」


​ 昨日、頬を赤らめて告白してきたはずの少女が、今は細い針のような暗殺ナイフを弄んでいる。その瞳に宿るのは、熱を失った氷の殺意だ。


 なぜだ。なぜ、この最悪のタイミングで牙を剥いた。

「『なぜ、今なのか』――。顔にそう書いてあるわよ。理由は単純、観察が完了したからだ」


​ 彼女は身体を気だるげに揺らし、蛇のような足取りで間合いを詰めてくる。

 応戦しようと右脚に力を込めるが、膝が笑い、力が抜ける。


​「動けないでしょう? そのナイフには特製の魔毒が塗ってある。死ぬほどではないけれど、神経伝達を著しく阻害するわ。……それと勇者の剣。あなたは【神なる剣】として完成されているけれど、それは使い手が万全であってこそ。置物になった勇者に、何ができるかしら?」


​「なぜ……そこまで、俺を知っている……」

 まだだ。まだ意識を保て。

 極限まで引きつけて、奴が踏み込んできた瞬間に時を止める。

 一撃。一撃だけ入れれば、逆転の芽はある。


​「そこまで、ね。愚問だわ、勇者。殺しにおいて最も大切なのは、不確定要素の排除よ。相手の手札をすべて暴き、平坦な盤面で詰む。例えば――そう、あなたの能力」


​ やはり。彼女はそこまで辿り着いていた。

 あの一見無意味な「実験」の数々は、俺の能力の正体を暴くためのスキャンだったのだ。

「最初は重力、あるいは引力の操作だと思った。けれど、それなら屋上から落ちた私を救う際、わざわざ自分まで身を投げる必要はない。物理法則の干渉なら、私を屋上へ引き戻す方が遥かに確実で、低コスト。なのにお前は、一緒に落ちることを選んだ」

 ……なんなんだ、この女。


​「能力の発動条件を疑った。重量制限があるのか、それとも接触が必要なのか。だからあらゆる物を落として、お前の対応を記録した。けれどお前は常に、対象に直接触れて解決していたわ」


 緋宮はまだ続ける。


「……さらに言えば、私の目はお前を捉えられない。戻ってくる瞬間すら。ならば超高速移動かとも考えたけれど、もっと決定的な証拠があった。――あの日落としたガラスのコップ。あれには本来つくはずのない、お前の指紋がしっかりと付着していたわ」


​ 獲物を追い詰める猟犬のような、冷徹な分析。

「見えない動き、そして直接の接触。ここまで来れば、仮説は『時間干渉』に絞られる。可能性は二つ。『時間停止』か、あるいは『時間遡行』か」


 サップちゃんは、動いていない。

 ただ真剣な目で、敵をにらむ。


「……私は当初、お前が過去に戻って事象を上書きしているのかとも疑ったわ。けれど、弁当箱や筆箱といった瑣末な事象に、莫大なコストがかかるはずの『遡行』を使うかしら? いいえ、あり得ない。極め付けは、今朝のあの刺客よ」

 刺客……ヘルヴィールドまでもが、彼女の手駒だったというのか!?

「刺客を送り、あえて消耗させた。もしお前に『時間遡行』ができるなら、あの場で聖剣を手に入れるために、最初からやり直したはずよ。お前はそれをしなかった。……いいえ、できなかった」

 すべて。すべてが見透かされていた。

「導き出される答えは『時間停止』。それならばすべての辻褄が合う。……そして、発動のトリガーは――『瞬き』。そうね?」

 俺の心臓が、大きく跳ねた。

 愕然とした。彼女は俺の隠し札を、まるで解剖図を読むように完全にバラバラにしてみせたのだ。


​「……反応したわね。肉体は強くても、精神の揺らぎまでは隠しきれなかった。やはりあなたは、動揺という隙を曝け出す『人間』だ」

 彼女はサップのリーチが届く限界、コンマ数ミリ手前の境界線で足を止める。

 そして、毒に濡れたナイフを俺の瞳にかざした。

「その目を潰してしまえば、お前の世界はどうなるのかしらね?」


​「……サップ、頼むッ!!」

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