第4話

​***

 結局、あの後の全力疾走も虚しく。

 俺は転校二日目にして「遅刻」の二文字をその経歴に刻むことになった。

 授業が始まった教室で、先ほどの事態を冷静に分析する。

 あの空に浮かんだ『魔月』は、結界術が展開された証左だ。そして、サップちゃんが観測した魔力の波形からして、あれは【不干渉の結界】。


 つまり、結界内部でどれほど派手に悪魔をぶちのめそうが、現実の地形や一般人に影響はなく、それを認識することもない。――だが、それゆえに問題の根は深い。

 要するに、俺が異世界から夜逃げ同然で帰還した際の後始末が、致命的にガバガバだったということだ。


 向こうとこちらの境界に「穴」が空いている。だからこそサップちゃんもこの世界に顕現できたし、ヘルヴィールドのような刺客も送り込まれてきた。


​ もし魔王軍が本気の戦力をこの穴から注ぎ込めば、この平和な現代社会など数週間で蹂躙されるだろう。

 ……まあ、そんなの俺の知ったことではないけれど。

 アフターケアはあっちの女神様あたりが丸投げで何とかしてくれるはずだ。そうに違いない。

 無理をして俺が率先して働く必要なんて、どこにもないのだ。せっかく掴み取った平穏な日常。魔王軍の野望など、見て見ぬふりをしてやり過ごすのが正解だ。


​「ねえ」

 逃避の迷路を彷徨っていた意識が、隣からの冷ややかな声で現実に引き戻される。


​「はい? 何か御用でしょ――」

「これ、落とすから」

 緋宮さんは至近距離で俺の目を見つめながら、手に持っていたガラスのコップを、迷いなく床に向けて放り出した。

「おいおいおい――!?」

 狂気か。俺の反射神経は、脊髄反射で「瞬き」を選択していた。

「――【静寂】」


​ 反転した色相の世界。

 宙で静止したコップを、俺は溜息混じりにキャッチする。


 彼女は一体何がしたいんだ。検証方法が物理的かつ過激すぎるだろう。

 俺はコップをそっと机の上に戻し、もう一度、瞬きをして術式を解除した。


​「……やっぱり、不思議ね」

 緋宮さんは、いつの間にか机に戻っているコップを凝視し、小さく呟いた。

「あの、どうかしましたか? 急に手が滑ったみたいですけど」

「いえ。何でもないわ」


​ 緋宮さんはそれ以上何も言わず、すぐに前を向いてノートにペンを走らせ始めた。その横顔からは、何を考えているのか一ミリも読み取れない。

***

 今日一日、隣の席で過ごしてみて分かったことがいくつかある。

 まず一つ。緋宮硝子は俺の「能力」に対して、尋常ではない執着心を抱いている。それが単なる好奇心なのか、それとも彼女自身の背景に根ざしたものなのかは不明だが、とにかく目が離せない相手だということだ。

 次に二つ。緋宮さんはあれから一向に「デレ」を見せてくれない。

 昨日のあの情熱的な告白は白昼夢だったのかと思うほど、態度は硬化し、刺すような視線ばかりが飛んでくる。

 おかしいな。一週間の猶予を求めたのが、彼女の逆鱗に触れたのだろうか。それとも、正式な回答をするまでは、デレを安売りしないという彼女なりの矜持なのだろうか。

 ……まあ、俺には知ることはできないが。

 俺は窓の外の平和な空を眺め、二日目にして既に暗雲が立ち込めている自分の日常を呪った。


​ 昼休み。喧騒に包まれる教室。

 購買で買った焼きそばパンを齧りながら俺の思考は今朝の残滓を追いかけていた。


 しっかし、あのヘルヴィールドくん。逃がして大丈夫だったかなぁ……。魔王軍への連絡経路を絶つべきだったか……。

「ヘルヴィールドなら、私が今しがたスクラップにしておきましたよ。安心してください、マスター」


​「え、マジ? 仕事早いな、ありがとう」

​ 反射的に、満面の笑みで返してしまった。


 ……ん? 反射的に、誰に?


​「……って、なんでお前がここにいるんだよ!?」


​「なんで、とは心外ですね。暇でしたから来ました。マスターの側にいるのが、相棒としての最適解ですので」

 そこには、皆さんご存知の通り。スーパー・ウルトラ・ビューティフル・パーフェクトソード略してSUP――こと、サップちゃんが平然と座っていた。


 銀髪碧眼のクォーター美少女は、まるで十年来の友人のような顔をして、俺の前の席で優雅に弁当を突っついている。

「え、ちょっと待て。大丈夫なのか、これ。サップちゃん、勝手に入ってきたの?」

「問題ありません。教室に踏み入る際、クラスメイト全員の脳内ニューロンに微弱な干渉を加え、記憶と認識をチョチョイと書き換えておきました」

「チョチョイとやる規模の術式じゃないだろ……」


​「おかげで皆、私のことを『マスターと一緒に転校してきた親戚の美少女』として認識しています。一般人レベルの精神防御力なら、まず疑いを持つことすら不可能です」

「そんな便利な能力、持ってたのか……」

 異世界では誰もが能力抵抗を持っていたから出番がなかっただけか。千年生きている聖剣のスペックを、俺はまだ底割れまで理解できていなかったらしい。

「さて、それで。マスターの尊い平穏を脅かそうとする不届きな雌は、どこのどいつでしょうか……」

 サップはすっくと立ち上がり、獲物を探す捕食者のような鋭い視線で教室を見回した。


​「今のところ、俺の平穏を最大風速でぶち壊しているのはお前なんだけどね……」

 俺が深いため息とともにツッコんでいた、その時だった。

「あなた――誰?」

 背筋が凍るような、鋭利な静寂。

 背後から響いたその声は、サップちゃんが張り巡らせたはずの偽りの日常を一刀両断にする、緋宮さんのものだった。

「え……」

 驚愕に喉が鳴る。

 なぜだ。サップちゃんの認識阻害は、一般人なら絶対に抗えないはず。


 なのに、緋宮さんは「転校してきた親戚」という嘘の記憶を跳ね除け、目の前の異物を正しく、冷徹に射抜いている。


​ サップちゃんの眉が、ピクリと跳ねた。

 この「平穏な世界」で唯一、俺の聖剣の権能が通じない相手。

 最悪の邂逅が、今、幕を開けようとしていた。

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