第3話

​***

 風呂。それは文明の極致だ。

 肌を包み込む適温の湯に、溜まっていた日常の澱が溶け出していく。

 これだよ、これ。この「何も起きない時間」こそが、俺が血を流してまで求めていた真の報酬なのだ。

 ふと、湯気に煙る天井を見つめて自問する。

 せっかく平穏な暮らしに戻れたというのに、なぜ俺は今日、あんなに能力を多用してしまったのだろうか。


 能力を使うということは、秘匿すべき過去を晒すリスクを伴う。それは俺の嫌う「非日常」を招き寄せる呼び水ではないのか。

 サップちゃんという同居人がいる時点で、完全な平穏はもう望めないのかもしれない。だが、俺はサップちゃんが好きだ。――もちろん、生死を共にした「相棒」として。だから、彼女の存在は例外でいい。


 けれど、能力の行使については俺の意志で制御できるはずだ。

 やはり、能力は封印し、目立たず生きるのが得策だろう。

​ そう心に決めた、その時だった。

「マスター、お背中流しましょうか?」


​ 浴室の扉越しに、サップちゃんの無邪気な声が響く。

「絶対ダメだ! サップちゃん、俺が公然わいせつ教唆で警察に連行されてもいいのか!?」

 それこそ、俺の望む平穏の対極にある結末だ。

「……ちぇ、分かりました。今日のところは勘弁してあげます」

「…………?」

 随分とあっさり引き下がる。その潔さが、逆に俺の心に小さな「引っかかり」を残した。

***

「おはよう、サップちゃん……って、なんだその寝相は」

 翌朝。リビングの隅、部屋の角に体を完璧にフィットさせて眠るサップちゃんを見つけた。詳細を語るのは彼女の武具としての名誉のために伏せておくが、実に「面白い」としか言いようのない格好だった。


 あまりに安らかな寝顔だったので、起こさないよう静かに家を出る。

「ああ、朝日が目に沁みる……」


​ 思わず独り言が漏れる。異世界では常に禍々しい魔雲が空を覆い、太陽を拝むことすら稀だった。この輝きを享受できるだけで、生きて帰ってきた甲斐がある。

 そんな感傷に浸りながら、昨日と同じ通学路を歩いていると――違和感に気づいた。

「……なんだあれ、月か?」

 真っ昼間の青空に、太陽と見紛うばかりの巨大な「黒い円盤」が浮かんでいた。

 記憶の奥底に眠っていた、忌まわしい光景が蘇る。

「――魔月まげつ――?」

 呟いた瞬間、背筋に凍りつくような殺意の奔流が走った。

「キィィィィィィィィ!!」

 耳を劈く咆哮。そこには黒い翼と歪な角を持つ、見るからに邪悪な人型の魔物が滞空していた。


​「……なんでこんなところに、こいつが……っ」


​「キィィィィィ! 魔王様のお告げだ。貴様をここで完全に仕留める。またあの忌々しい【時間遡行】を使われては面倒だからな……!」

「お前、喋れたのか……」

「黙れ! 我が名はヘルヴィールド! そこらの有象無象の低級悪魔と一緒にされるのは心外だ!」

 状況は最悪。だが、相手は異世界なら中ボスの前座レベルだ。今の俺でも、あいつさえいれば――。

「いくよ、サップちゃん!」

 習慣とは恐ろしい。俺は掲げた左手に意識を集中する。

 だが、掴み慣れた黄金の柄は、そこにはなかった。

「あ……忘れてた。寝かせてたんだった……」

「キィィィィ! 武器も持たずに我の前に立つとは! 貴様の墓場はここだ!」

「クソ、こんな噛ませ犬の化身みたいな奴に遅れを取るなんて……!」

 俺は決断し、強く瞬きをした。

「――【静寂】」


​ 世界から音が消え、色彩が反転する。

 これは世界全体の時間を停止させ、俺と俺が触れているものだけが動ける能力。

 だが問題は、今の俺の出力では維持時間はわずか10秒。全盛期なら一分は止められたというのに、平和ボケとは残酷なものだ。


 ​――とにかく、家に戻ってサップちゃんと合流しないと話にならない……!

 肺が焼けるような感覚。全力で疾走するが、家まではまだ距離がある。

 10秒の猶予が、砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。

「ガハッ……」

 急激に重力が増した。能力の限界だ。

 俺は諦めとともに、もう一度瞬きをする。世界が動き出す。


​ ……ああ、ここまでか。短かったけど、まあ、悪くない人生だったよ。……いや、正直言うとマジでゴミみたいな人生だったなあ……。生まれ変わるならナマケモノか次点でコアラがいい……。


​「……サップちゃん……」

「おはようございます、マスター。ずいぶん息を切らせて、ジョギングですか?」

 そこに立っていたのは、銀髪碧眼の、俺の愛剣だった。

「え!? なんで、ここに――」

「はあ。お忘れですか? 私はマスターの魂の片割れ。マスターが止めた時間の中だって、自由自在に動けるんですよ」

「……そんなご都合主義な設定、あったっけ?」

「細かいことは良いんです。ほら、使ってください」

 サップちゃんの体が眩い光に包まれ、少女から一振りの黄金の剣へと姿を変える。


 掌に伝わる馴染み深い熱量。悔しいが、握った瞬間に「勇者」としての細胞が歓喜に震えるのが分かった。

「さあ、お掃除を始めようか、ヘルヴィールドくん♡」

「あ、ああああああ……!?」

 そこから先は、もはや蹂躙だった。

 逃げようとする悪魔を、静止した時間の中で斬り刻み、地面へと叩き伏せる。

「生きてる? ヘルヴィールドくん」


​ 道端の木の棒でツンツンと死体(仮)を突っつく。

「……おのれ……。今回は、不覚を取ったが……次は、覚えておけよ……!」


​ 負け惜しみのセリフと共に、悪魔は黒い月の消滅に合わせ、煤のように消えていった。

「最後まで教科書通りの噛ませ犬だったな……」


​ だが、笑い事ではない。魔王の命令? 異世界からこの現代日本に、追っ手が送られてきたというのか?


 平和への理想が、ガラガラと崩れ落ちる音がした。

「マスター」

 少女の姿に戻ったサップちゃんが、俺の意識を引き戻す。

「ああ、ありがとうね、サップちゃん。助かったよ」

「いえ……ですが、その……」

 サップちゃんは俯き、自分の足の甲を見つめながらモジモジと指を絡めている。

「マスター。……最後には、私の方へ戻ってきてくれますよね?」


​ 絞り出すような、震える声。

 それを聞いて、俺は不意に笑ってしまった。昨日の「浅ましい女」への対抗意識を、まだ引きずっていたのか。

「当たり前だ。お前は俺の最高の相棒だろ?」

 そう言って、銀色の柔らかな髪を撫でる。

「……『相棒』ではなく、もっとこう、恋愛的なカテゴリーでの言葉を期待していたのですが……。まあいいでしょう、今はそれで我慢してあげます」

 サップちゃんはジト目で俺を睨むと、満足げに鼻を鳴らして家の方へ歩き出した。

「では、いってらっしゃいませ。今度は武器を忘れないように」

「ああ、いってきます。サップちゃん」

 俺は一抹の不安を抱えながらも、再び通学路へと歩き出した。

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