第54話 悪鬼

 真っ暗な闇の中を進む。

 禍々しい空気が、暗闇の奥から吹き抜けていく。


 天照大御神あまてらすおおみかみが光を放っても、数メートル先は暗闇のままだ。

 どこまで続くかわからない闇の道を進む。


 ひとつ、気がかりなことがある。


「なあ、神様ってのは、その……死んじゃったら、身体っていうか、骨とか残ったりするのか?」


 このまま進めば、天手力男命あめのたぢからおのみことが力尽きた、その場所に出ることになる。


「何も残らねぇよ。今まで散々倒してきた蛇と似たようなもんだ」


 須佐之男命すさのおのみことが答えてくれた。が、例え方!


「……案ずるな、ユウキよ。タヂカラの魂は、おぬしと共にある」


 俺が気にしていたことは、見透かされていたようだ。

 天照大御神あまてらすおおみかみが、振り返らずに言った。

 いつも通りの声色で。


 『案ずるな』か。確かに、あれこれ考えても意味はない。





 やがて、道の先が赤く染まり始めた。


 闇の中に、じわりと滲むような色。

 血のような、夕焼けのような、それでいてどちらとも違う、濁った赤だ。


 足を進めるごとに、その色は濃くなっていく。


 そして――


 視界が開けた。


 天井も、壁も、はっきりとした境界はない。

 ただ、赤黒い光が満ちている。


 地面は、ひび割れ、抉れ、焼け焦げたように黒い。



 この場所で、天手力男命あめのたぢからおのみことは――



 根ノ国側にあったような、を探してみたが、見当たらない。



 少し前を歩いていた須佐之男命すさのおのみことも、きょろきょろしている。

 考えることは同じらしい。


 須佐之男命すさのおのみことは振り返り、視線を上に向けた。

 そして、固まった。


「お、おい、ユウキ……見てみろ」


「え?」


 振り返る。



 そこにあるのは、

 ただの岩の壁だった。



 今通り抜けてきた道が口を開けた、洞窟の岩壁。

 黒く、滑らかな岩の壁だ。


 そう見えていた。


 だが――


「……違っ」


 気付いた瞬間、背筋が冷えた。


 それは、じゃない。


 岩だ。


 とてつもなく巨大な、一枚岩。


 そして――


 その中央に、ぽっかりと開いた穴。

 俺たちが通ってきた道。

 それは、一枚岩に穿だった。


「……これ……タヂカラが?」


 声が震える。


 須佐之男命すさのおのみことが、ゆっくりと頷く。


「ああ。タヂーは……こいつを動かして、塞いだんだ」


 喉が、鳴る。


 こんなものを?

 これほどの質量を?

 一人で?


 そして――


 ここに、残ることを選んだ。

 逃げずに。

 退かずに。


 その事実が、

 胸の奥に、鈍く沈み込んだ。



 天照大御神あまてらすおおみかみが巨岩に何かを見つけて、ゆっくりと歩み寄った。


 そこには、大きな手の跡が残されていた。


 この巨岩を動かしたときに付いたのであろう、天手力男命あめのたぢからおのみことの手の跡。

 それだけが、ここに刻まれていた。


 天照大御神あまてらすおおみかみは、そっと手を添えて目を閉じた。


 俺と、須佐之男命すさのおのみこと月読命つくよみのみことは、静かにその場を離れた。





「すまぬ。待たせたかの?」


 天照大御神あまてらすおおみかみの声がした。

 その声は、いつも通りだった。


 月読命つくよみのみことが「いいえ」と柔らかく答え、すぐに黄泉の国の奥へと向き直った。


 そして、


「それでは、中枢の位置を探ります」


 と言って、目を閉じた。



 待つ間、少しだけ奥へ進んでみた。

 そこはすぐに切り立った崖になっていて、当然のように底は見えない。


「ユウキ、あんま離れんなよ。……しかし、すげー崖だな」


 横から須佐之男命すさのおのみことの声がした。

 その姿は暗闇に溶け込んでいて、あと少し離れたら視認できなくなるほどだった。



「おおよその地形は把握できました」


 月読命つくよみのみことが近づいてくるのがわかった。

 すぐ後ろに、光を放つ天照大御神あまてらすおおみかみが立っていた。


「この先は、すり鉢状になっております。その最低部に禍々しい気配が凝縮されております」


 ドックン。


 イザナギの勾玉が脈を打った。

 すり鉢状の底に、伊邪那美命いざなみのみことがいるとでも言いたげな脈を。


「(イザナミ……ご要望どおり、イザナギの魂を連れてきたぜ……)」


 心の中で呟いてみた。

 しかし、どこからも、何の反応もなかった。


 それでも、ここを降りるしかない。



「この崖を降りるのか?」


 須佐之男命すさのおのみことが崖を覗き込んでいる。


「どれ――」


 前へ出た天照大御神あまてらすおおみかみは、大きな光の弾を放った。

 淡く浮かび上がった崖の内壁に、下へと続く道のような足場が見えた。


「こっちじゃな」


 どこまで降りられるのかは分からないが、その道を降りていくしかなさそうだ。


「それにしても、何もいないんだな。

 禍蛇とか、わんさか待ち構えていると思ってたけど……」


「全て、根ノ国の禍津日神まがつひのかみに向かったようです。

 この先、蛇ではない気配が多数ありますので、警戒してください」


 おっと――

 完全に油断していた。


 蛇じゃない気配。

 なら、この先にいるのは、また禍津日神まがつひのかみみたいなヤツか?


 俺は気を引き締めて、周囲の暗闇に注意しながら進んだ。





 どれだけ下っただろうか。


 ――カツン。


 乾いた音が響いた。


 全員同時に反応した。


 音の方向。


 闇の奥。


 そこに、があった。

 人の形。

 それが、ゆらりと揺れる。


 顔は見えない。


 でも、笑っているのが分かる。


 ぞわり、と背筋が粟立つ。


「……久しいなぁ」


 その声は、高くもあり低くもある。

 耳の奥にまとわりつく、不快な声だった。


「ア・マ・テ・ラ・ス」


 名前を呼ばれた瞬間、空気が変わった。

 天照大御神あまてらすおおみかみの気が、煮えたぎるように溢れ出した。


「貴様は……」


 それ以上を口にすれば、抑えが利かなくなる。

 だから、そこで止めたのだろう。



 須佐之男命すさのおのみことが、舌打ちした。


「……出やがったな。雑魚が」


 月読命つくよみのみことは、無言で構える。


「おんやぁ~? 後ろにいるのは、ツクヨミか? 元気そうじゃないか」


 その影は、クククと喉を鳴らす。


「何者ですか?」


「クククッ そうだよなぁ~。だったなぁ~!

 ヒャーッハッハッ!」


 笑いながら、その影は近づいてくる。

 闇の中から、ゆっくりと輪郭が浮かび上がったそいつは、


 灰色の肌をした鬼だった。


 左右非対称の歪な角が、不気味さを際立たせている。



 俺は剣を握りなおし、身構える。

 すると、ぽんと肩を叩かれた。


「ユウキ、ここは姉者に任せよう」


 須佐之男命すさのおのみことはそう言って、天照大御神あまてらすおおみかみ月読命つくよみのみことの後ろへと下がった。

 俺もそれに従う。


 胸の奥で、勾玉が激しく脈打つ。


 ドクン。

 ドクン。

 ドクン。


 まるで、警告を鳴らしているようだ。


 鬼が、さらに一歩、前に出てきた。


「三千年ぶりか」


 その声には、愉悦が滲んでいた。


「天岩戸では世話になったのぉ。悪鬼よ」


 ――天岩戸事変を引き起こしたという『悪鬼』か!


 それが今、

 俺たちの前に、立ち塞がった。





「こやつが、姉様を幽閉したという悪鬼、ですか?」


 月読命つくよみのみことは、まるで無警戒に一歩前へ出る。

 そして悪鬼を冷ややかに眺め――


「それほどのチカラを感じませんが――」


 と、不思議そうに首を傾げた。


「ヒャハッ 知りたいのか? オレ様がどーやってアマテラスを閉じ込めたのか」


 ニタニタと不快な顔で、耳障りな音を発する。


「オレ様は、たった一言、アマテラスに言ってやっただけさ。

 『ツクヨミの命が惜しくば、大人しくしていろ』

 ってな! ヒャハッ ヒャハッ」


わたくしの命?」


「そうさ、あの時、お前の姿が見えなかったんでなぁ。ちょいと言ってみたのよ。

 そしたら、お前の姉ちゃん、真っ青になってな。オレ様の言いなりってわけよぉ。

 あんときのアマテラスの表情、忘れらんねぇぜぇー!

 ヒャハッ ヒャハッ ヒャハハハ――ッ」


「姉様――」

「耳を貸すでない、月読。あれはわらわの弱さが招いたことじゃ」


「あの時――わたくしは――姉様――――」


 どうやら、天岩戸事変の真相には、もうひとネタあったようだ。

 詳しいことは分からないが、月読命つくよみのみことの雰囲気が変わっていくのは分かる。

 いつもスンとして、感情を表に出さない月読命つくよみのみこと

 しかし今、黒くしなやかな髪が、静かに逆立ち始めている。


「ヒャハッ ヒャ」


 シュオン――――


 一瞬、辺りが青白い光に照らされたかと思うと、目の前で笑っていた悪鬼の身体が、細かいサイコロ状になって、ベチャベチャと崩れ落ちた。

 そして、塵となって消えていく。



「姉様――ごめんなさい。わたくしはあのとき、葦原中つ国あしはらのなかつくにへ観光に出かけていて――」


「もう、過ぎたことじゃ。気に病むでない。

 あ奴の戯言に惑わされたわらわにも弱さがあったことじゃしの」


 天照大御神あまてらすおおみかみは、月読命つくよみのみことの肩を優しく抱き寄せた。


 その時――


「ヒャーッハッハッ」


 不快な笑い声が響き渡る。


「反吐が出るような美しい姉妹愛。いいねぇ~」


 ヒタ、ヒタ、ヒタ――


 暗がりから姿を現したのは、今さっき細切れになったはずの悪鬼だった。

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