第5話|管理粒度
第十四補給集積所の事務室は、夜明け前の沈黙に支配されていた。唯一、私の手元にある計算尺がカチカチと微かな摩擦音を立て、羊皮紙を滑る万年筆の先が繊維を掻く音だけが、この部屋が機能していることを示している。
私は、ハンスが夜を徹して各部隊から吸い上げ、整理した「魔導資源動態報告書」の束をめくっていた。そこに並ぶ数字の列は、前線が喧伝する「華々しい防衛成功」の裏側に隠された、再起不能な資源の摩耗を冷徹に告発していた。
現在の集積所保有在庫。
魔法触媒石(低純度):六十二個。
魔法触媒石(中純度):八個。
これに対し、前線の第一連隊および第二連隊からの本日分の請求量は、中純度だけで三十個を超えている。
魔法は、現代の戦争において「万能の代替手段」と勘違いされがちだ。しかし、その本質は極めて非効率なエネルギー変換に過ぎない。周囲の熱、大気中の水分、土壌の硬度。それらを「操作」し、軍事的な物理現象として指向性を持たせるには、触媒石という限定的な消耗品と、それを出力するための媒介――魔導兵という生身の人間の代謝機能が必要不可欠となる。
「少尉、このグラフを見てください。もはや限界値という言葉すら、現場の惨状を表現しきれていません」
ハンスが、インクの乾ききっていない一枚の図表を私の机に置いた。そこには、過去一週間の「魔法行使回数」と「魔導兵の後送率」の相関関係が描かれていた。
「魔法の使用回数が増えるにつれ、魔導兵の離脱率が指数関数的に上昇しています。特にここ三日、敵の夜間砲撃に対抗して大規模な結界維持を行った部隊では、魔導兵の半数が過呼吸による代謝異常、あるいは重度の低血糖状態で戦線を離脱しました。彼らの肉体は、魔法という過負荷な出力を支えるための燃料供給、すなわち栄養価の高い食糧と十分な休息が、物理的に追いついていないんです」
魔導兵が疲弊し、再起不能になるのは、兵站学校の初等教科書にも載っている「常識」だ。しかし、戦場という極限状態において、その常識は最も早く遺棄される。
私は計算尺を滑らせ、昨日第一連隊が実施した「霧散化魔法」のコストを再計算した。陣地隠蔽のために大気中の水分を強制的に散らしたその一回の作戦で、中純度触媒石が十五個消費された。同時に、担当した魔導兵三名が心不全に近い衰弱で後送されている。
「ハンス、前線の指揮官たちは魔法を『打ち出の小槌』のように扱い続けています。水が足りなければ魔法で結露させればいい、弾が足りなければ魔法で防げばいい、工兵が足りなければ魔法で泥を固めればいいと。彼らにとって、魔法は予算外の奇跡なのです。だが、その奇跡一個を動かす触媒石の重量枠は、保存水二缶分に相当する。魔法を使えば使うほど、彼らの生命線である食糧や水の輸送枠は圧迫され、さらに魔導兵は動けなくなる。これは、未来の生存を切り売りして今の一時間を買っているに過ぎない」
「現場にそれを説明しても、『魔法のおかげで今この瞬間に死なずに済んでいるんだ』と言われれば、我々後方の人間には返す言葉がありません」
ハンスの言葉は正しい。恐怖は論理を凌駕する。だが、その恐怖の結果として在庫が底をつけば、翌日の恐怖にはもう誰も対応できなくなる。
魔法は、現時点での帝国軍における最悪に燃費の悪い補給品だ。
私は報告書を閉じ、事務室を出た。廊下を歩きながら考える。本来、ロジスティクスの全体最適化という概念は、集積所という「点」で完結してはならない。前線の戦術、魔法の行使タイミング、兵士の疲労度。それらすべてを「兵站資源」の一部として一元管理し、統制しなければ、この戦争という巨大な機械は内部の摩擦熱で焼き切れるだろう。戦場そのものを、ロジスティクスの支配下に置かなければならないのだ。
しかし、私は自分の足音を聞きながら、その思考を意識の底へ沈めた。今の私には、それを具申する地位も、周囲を納得させる実績も、戦場の「士気」を代償にするだけの発言権もない。一少尉が戦術に口を出せば、それは「現場を知らない臆病な後方の女の戯言」として、泥の中に踏みつけられるのが関の山だ。
今はまだ、その時ではない。私は自分の手が届く範囲――この集積所の「仕組み」から、物理的な制約で彼らを縛る方法を見つけなければならない。魔法を「奇跡」から「箱入りの消耗品」へと引きずり下ろすための作業が、私の目の前には山積していた。
私はハンスと共に練り上げた「物資動態管理システム」の草案を胸に抱き、集積所管理官の執務室の重いドアを叩いた。
部屋の中は、安価な煙草の煙で薄暗く、壁には古びた戦域地図が力なくかかっている。管理官は、机の上の書類の山に埋もれながら、忌々しそうに私を迎え入れた。
「ヘイル少尉、また数字の羅列か? 前にも言ったはずだ。無い袖は振れん。在庫が足りないのはお前のせいではないが、それを私に突きつけても事態は改善せんのだ」
「いえ、管理官。本日は供給不足を嘆くためではなく、その『袖』を誰にも盗ませず、管理コストを最小化するための提案に参りました」
私は、現在のバラ管理を廃止し、「梱包単位(ロット)管理」へ移行する案を机に広げた。管理官の目が、一瞬だけ数字の列を追う。
「物資の最小単位を、個別の『缶』や『個』ではなく、規格化された『梱包(ロット)』に固定します。今までは現場の請求に合わせて十缶、十五缶と端数まで数えて渡していましたが、これが作業の遅滞と不正の温床でした。これからは、二十缶入りの木箱単位でのみ供給します。端数は切り上げ、あるいは切り捨ての『丸め数量』で処理します。例えば二十五缶必要だという請求には、四十缶(二箱)を渡すか、二十缶(一箱)で我慢させる。その判断は供給側が握ります」
「現場の不満が出るぞ。余分な重さを運ぶ労力も、足りない分の苦情も、すべてこちらに来る」
「その通りです。ですが、管理官。管理コストの削減を見てください」
私は在庫の不一致データと、検品プロセスの簡略化による人件費削減の予測値を指し示した。
「集積所での検品は『抜き取り』に限定します。ランダムに選んだ箱を開封して中身を確認し、直ちに私の印章が入った魔導封印テープで『再封印』を施します。前線に届くまでは、この封印が破れていれば即座に輸送兵の横領として軍法会議へ回せる。バラ管理を辞めるだけで、荷積みと棚卸の時間は三分の一になり、先日のような小規模な抜き取り横流しは物理的に不可能になります。箱ごと盗むのは目立ちすぎますから」
管理官は椅子に深くもたれかかり、天井を見上げた。彼は正義感や愛国心には乏しいが、上層部から「効率的な管理を行っている」と評価されることには執着があった。
「……なるほど。バラで数える手間を省き、責任の所在を箱単位で明確にするか。集積所の運営効率が上がるなら、私の実績としても悪くはないな。しかし、端数の切り捨てで前線が干上がったらどうする?」
「それは現場の管理責任です、管理官。箱単位で届くからこそ、彼らは自分たちの取り分を正確に把握せざるを得なくなる。魔法の触媒石も、二十個入りの専用ケース単位でのみ供給します。奇跡をバラ売りするのを辞めるのです。これにより、集積所は単なる『物流のハブ』として機能し、事務作業は自動化に近づきます」
「よかろう。試験的に導入を許可する。ただし、現場の小隊長たちが怒鳴り込んできても、私を巻き込むなよ。それはお前の『数字の正しさ』でねじ伏せろ」
私は敬礼し、執務室を辞した。
ハンスが廊下の影で待っていた。私の顔を見て、彼は小さく頷いた。
「通りましたか」
「ええ。バラ物資という『流体』を、梱包という『固体』に変える。これで、不正のハードルは跳ね上がり、管理の精度は向上します。ハンス、梱包資材の規格統一と、既存在庫をすべてロットに詰め直す作業を直ちに開始してください。人手が足りなければ、例の横流しに関与した疑いのある連中を最優先で作業に充てなさい。彼らに自ら、盗みにくい箱を作らせるのです」
救済はない。あるのは、最適化だけだ。私は事務室へ戻る足取りの中で、すでに明日の出庫スケジュールを箱単位で再構成していた。
事務作業の全てが終わり、集積所の一角にある私の寝所に戻ったのは、深夜の二時を過ぎた頃だった。
寝所といっても、弾薬箱の残骸で囲いを作り、薄汚れた布で仕切っただけの、湿り気とカビの臭いが充満する空間だ。床からは冬の気配を含んだ冷気が這い回り、軍用寝袋のざらついた感触が、汗と脂で汚れた肌を不快に刺す。
私は寝袋の中に身を沈め、天井の木材を見つめた。
遠く、数キロメートル先の第一線からは、断続的に乾いた発砲音が聞こえてくる。パチパチ、と爆ぜるようなその音は、まるで誰かが乾いた枯れ枝を折っているかのようだ。静寂の中に響くその音の一つ一つが、誰かの命の終わりを、あるいは貴重な弾薬の一発を意味している。
壁一枚隔てた隣の区画からは、作業を終えた荷役兵たちの低い話し声と、金属製の食器がぶつかる音が漏れてきた。
今夜の食事の内容は把握している。水で薄めすぎて灰色の粘液のようになった馬肉のスープと、鋸でなければ切れないほど硬く焼かれた黒パン。そして、砂の混じった代用コーヒーだ。彼らはそれを泥にまみれた手で掴み、獣のように喉に流し込む。そこには食事を楽しむ感情など存在せず、ただ明日の重労働をこなすための「燃料補給」という、機械的な動作だけがあった。
不意に、集積所の裏手の暗がり、輸送兵たちの宿舎のあたりから、高く鋭い悲鳴が聞こえた。
連れ込まれた娼婦のものだろう。あるいは、近隣の村から物資と引き換えに売られてきた、名前も持たない女かもしれない。男たちの下卑た笑い声、罵声、そして湿った肉のぶつかる音が霧の中に溶け、夜の静寂を汚していく。
兵士たちは、死の恐怖を束の間だけ忘れるために、あるいは明日には失われるかもしれない生きている実感を得るために、自分より弱い者の尊厳を消費する。それもまた、この戦場という生態系における「エネルギー代謝」の一環なのだ。倫理や道徳といった上位概念は、空腹と絶望の前には、魔法触媒の殻よりも脆い。
私は寝袋の中で、意識的に呼吸を整え、目を閉じた。
悲鳴に対しても、銃声に対しても、私の心は波立たない。同情や憤りは、明日の計算精度を狂わせるノイズでしかないからだ。
明日の配分計画。二十缶入り木箱、百四十個。
触媒石の残数。中純度、残り八個をどう割り振るか。
新しい梱包規格の導入による、積載時間の削減率の予測。
私の思考を満たすのは、あくまで冷徹な数字と、誰もが誠実であることしかできない仕組みの構築だけだ。
この不条理で、醜悪で、湿りきった世界を、一ミリでも正確に、一秒でも長く稼働する計算機に変えること。それが、私がこの泥濘の中に立っている唯一の理由であり、唯一の「正しさ」だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます