第4話|優先順位

​ 夜明け前の第十四補給集積所は、湿った青白い霧の底に沈んでいた。

 事務室の空気は冷え切った石炭の灰と、長年染み付いたインクの臭い、そして湿った軍服から立ち昇る獣のような体臭が混じり合い、肺の奥を重く圧迫する。私は、事務机の上に広げた配分予定表と、睨み合うように対峙していた。万年筆を握る右手の指先には、自覚している以上の力が入り、ペンの先が粗悪な再生紙の繊維を執拗に掻き毟っている。紙面には、幾重にも書き直された数字が、撤退する兵の無残な足跡のように並んでいた。

​ 現在の集積所における、総保有在庫。

 二層式保存水缶、三百四十個。

 

 供給対象は、前方五キロメートル圏内に展開する歩兵三連隊、および二つの魔導支援小隊。

 軍令第十二号が定める、通常戦闘時における最小生存供給量は、一兵員あたり一日一・五リットルだ。これを、後方から送られてきた各部隊の最新の損耗率——つまり、死傷者の数を差し引いた実効兵員数で乗じると、必要な総量は、どれほど切り詰めても三百八十二缶となる。

​ 四十二缶の決定的な不足。

 

 私は、感情を押し殺してその数字を見つめた。不足しているという事実は、嘆くべき悲劇ではなく、対処すべき「負の変数」でしかない。私は、優先順位の決定を下した。

 第一優先:第一歩兵連隊。主力の突破部隊であり、エルヴィンの小隊もここに含まれる。彼らの機動維持こそが、この戦線全体の崩壊を防ぐ物理的な要だ。

 第二優先:魔導支援小隊。魔法発動に伴う代謝亢進を無視すれば、魔導兵の心停止を招く。

 第三優先:後方の設営大隊、および予備兵団。現在、陣地構築任務に就いており、前線に比べれば活動の強度は抑制可能であると判断した。

​ 私は、第三優先への配給を「定量の五割」まで削減するよう、予定表を書き換えた。計算上、これで第一優先のエルヴィンたちの元には、過不足なく一・五リットルの水が届く。残りの五割を失う部隊の喉の渇きは、私の計算式には含まれない。

​ ふと、こめかみの奥に鋭い痛みが走った。

 連日の睡眠不足。配給を削られた現場からの呪詛に近い不満。そして何より、どれだけ緻密に計算を尽くしても、後方からの供給という「現物」が、帳簿上の「正解」に追いつかない不条理。胃の奥が焼けるような不快感に、私は一度だけ深く重い息を吐き、机の隅に置いた冷めきったコーヒーを喉に流し込んだ。泥と鉄錆を混ぜたような、不快な味がした。

​「……少尉。ハンスです。調査の準備が整いました」

​ ノックと共に声をかけてきたのは、私と同時期にこの集積所へ配属された兵站部隊の兵士、ハンスだった。彼は事務作業の正確さと、現場の喧騒に対する程よい無関心さを兼ね備えている。私は彼を、人間というよりは、信頼できる「計測器」の一つとして重用していた。

​「ハンス。昨日あなたが作成した、倉庫C区画の棚卸表を」

「はい。……やはり、少尉の指摘通りです。保存水缶、帳簿残高三百四十に対し、実数確認は三百二十二。……十八缶、消えています。出庫記録は一切ありません」

​ 十八缶。兵士三十六人の一日分の命が、霧の中に溶けて消えるはずがない。

「情物一致。兵站の根幹です。帳簿の数字と現物の質量が一致しない状態は、軍という巨大な機械に砂を流し込んでいるのと同じです。幽霊在庫の行方を追います。付いてきてください」

​ 私は椅子を立ち、事務室を出た。廊下ですれ違った補助魔導兵のニコ・ラングが、何かを言いたげに、不安と好奇心の混じった目で私を見たが、私は一瞥もくれなかった。今の私には、彼の未熟な感情的なノイズに付き合う余力など、一グラムも残されていない。

​ 霧が不気味に沈殿する倉庫の裏手、荷役兵たちが火を囲む休憩所。

 近づく私を見て、一人の髭面の伍長がゆっくりと立ち上がり、面倒そうに、あえて崩した姿勢で敬礼をした。彼は私よりも軍歴が長いだけの、無能な先任兵だった。

​「少尉さん。朝早くから何の御用で? こんな泥臭い場所に、あんたのような人は似合わない」

「伍長。冗談は不要です。昨夜の出庫記録と現物の間に、十八缶の不一致があります。この周辺を調査させてもらいます」

「……調査? 藪から棒に。我々は泥にまみれて、毎日死ぬ思いで荷物を運んでるんだ。少々の数え間違いなんて、この戦場じゃ日常茶飯事でしょう」

​ 私は伍長の言い訳を遮り、休憩所の隅に乱雑に積み上げられた空の木箱に歩み寄った。兵士たちの足元を注視する。そこには、集積所の正規の配送ルートとは違う、裏門へと向かう細い、しかし深い轍があった。

「ハンス。その木箱をどけてください」

「……少尉、これは伍長の私物だって……」

「命令です。ハンス」

​ ハンスが私の威圧に押され、重い木箱を動かした。その下には、不自然に土が盛られた場所があった。掘り返すと、そこには帝国軍支給の、封も開けられていない保存水缶や物資が整然と隠されていた。

​「伍長。これは何ですか。なぜ軍の資産がここに隠されているのですか」

 私の声は、氷のように平坦だった。伍長は顔を引きつらせ、私を威圧するように一歩踏み出した。

​「……少尉さんよ。あんた、わかってないな。この缶を村に持っていけば、安物の酒や、肉と替えられるんだ。俺たちはいつ死ぬかわからない。これくらいの役得がなきゃ、やってられるかってんだよ」

「これは軍の資産です。横流しは軍刑法上の重罪です」

「るせえんだよ、この小娘が!」

​ 伍長が怒号と共に、私の胸倉を掴もうと太い腕を振り上げた。

 ハンスが声を上げる暇もなかった。私は反射的に重心を落としていた。

 兵站学校で叩き込まれた、最小限の力で自己を保護するための護身術。振り上げられた伍長の腕を、外側から円を描くように柔らかく受け流す。相手の突進する勢いをそのまま利用し、手首の関節を極めて、地面へと誘導した。

 鈍い音と共に、伍長が泥の中に激しく這いつくばった。私は彼の右腕を背後に回し、膝で正確に肩甲骨の動きを固定する。

「……っ、この、クソ女、離せ!」

「抵抗は無意味です。不当な身体的接触への対抗措置を完了しました。ハンス、憲兵を呼びます」


 一時間後。事務室で管理官へ報告を終えた直後、扉が勢いよく開かれた。

 入ってきたのは、後方搬送を担う衛生兵長だった。泥と血、そして消毒液の臭いを全身から漂わせた彼は、私の机を強く叩いた。

​「ヘイル少尉! 設営大隊への配分を五割カットしたというのは本当か!」

「事実です。総在庫の不足に対し、軍令に基づく優先順位を適用しました。現在、第一連隊の機動維持が最優先事項です」

「優先事項だと? 冗談じゃない! あそこの連中は連日の塹壕掘りで既に脱水寸前だ。計算上は五割でも、現場に届くのはそれ以下なんだよ。輸送中に缶が壊れ、戦闘の混乱で兵士が水筒を失い、さらにこうやって誰かが盗んでいる! あんたの帳簿を合わせるために、兵士の血管を干上がらせるな!」

​「衛生兵長。感情的な抗議は非効率です。水を与えすぎて第一連隊が弾薬運搬不能になれば、戦線は崩壊し、あなたの守るべき患者もろとも全滅します。私は全体最適を選択しました」

「全体最適……。あんたには、血の通った人間がただの数字に見えてるんだろうな。いつかその数字に殺されるぞ」

​ 衛生兵長は吐き捨てるように去っていった。私はその言葉を「不満という名の環境音」として処理しようとしたが、こめかみの痛みは一段と増した。

​ そして数時間後、追い打ちをかけるような報告が届いた。

 管理官が苦々しい顔で戻ってきた。

「伍長は釈放された。……証拠不十分だ。裏金を憲兵に掴ませたんだろう。書類は『廃棄予定品の移動』に書き換えられた。お前が手を上げたことも問題視されている」

​ 奥歯を噛み締める。物理法則に基づかない「人的なバグ」が、システムを浸食している。私の内側で、何かが激しく摩耗していく感覚があった。

​ 夕刻、集積所に一台の荷馬車が転がり込んできた。

 後方の設営大隊の兵士が、土気色の顔で私の軍靴を掴んだ。

「水を……。少尉、配分された半分じゃ、とても足りないんだ……。途中で荷崩れして失った分、それに戦闘のどさくさで行方不明になった缶……。重なったんだ、全部。もう、みんな動けない……」

​ 伍長の横領。輸送中の事故。現場の管理ミス。

 個々には小さな誤差に過ぎない「バグ」が、極限まで削り取られた配分計画の上で、破滅的な欠損となって顕現した。私の計算は正しかった。しかし、その計算は「人間が正しく動く」という、最も不確実な前提の上に立っていたのだ。

​「ハンス。伍長から押収した十八缶。直ちに彼らに配分してください。元々、彼らに割り当てられるべき物理量です」

​「えっ……でも少尉、あれは証拠品として……」

「書類上、証拠品は存在しないことになりました。ならば、それは単なる『未処理の在庫』です。本来の受給先へ、本来のスケジュールより数時間遅れで引き渡す。これは修正作業に過ぎません」

​ 回収されたばかりの水缶が、瀕死の兵士たちの手に渡る。彼らは震える手で蓋をこじ開け、魔法抽出された無機質な水を、命の糧として喉に流し込んだ。

​ 私は、彼らを背に事務室へ戻り、扉を閉めた。暗闇の中で椅子に深く腰を下ろす。心臓の鼓動が耳の奥で、警鐘のようにうるさかった。

​ 十八缶は返還した。帳簿は整合した。

 だが、伍長を合法的に排除することはできなかった。個人の正しさや体術といった矮小な力で対抗しても、組織という巨大な澱は止められない。

 

 ――必要なのは、個人の判断や善悪を介在させない「仕組み」そのものだ。

 

 無能な人間が私財を肥やす余地を物理的に無くし、汚職を行えば自動的にロジスティクスの循環から切り離され、淘汰されるような、非人間的で冷徹な管理システム。

 私は、万年筆を再び握り直した。

 感情というノイズを殺し、ただ「人的資源の最適化」と「腐敗排除の自動化」について、膨大な計算と構想を開始する。

​ 人は間違える。人は裏切る。だが、システムは裏切らない。

 窓の外では、また冷たい雨が降り始めた。

 世界がどれほど不条理に歪もうとも、帳簿だけは真っ直ぐでなければならない。

 私は、自分が磨き上げた軍靴の、兵士が掴んだ手の跡という「汚れ」を、白いハンカチで丁寧に、跡形もなく拭い去った。

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