第3話|帳簿の正しさ
万年筆の先が、粗悪な再生紙の上で硬質な音を立てる。
私は、昨日完了した「現地調達分による物資欠損の補填」に関する最終報告書を書き終えた。インクが乾くのを待つ間、私は窓の外に目を向けた。ヴァルデリア帝国第十四補給集積所の空は、常に低く垂れ込めた灰色の雲に覆われている。それは石炭の煙と、遠くの砲声が揺り動かす塵の色の混じり合いだった。
報告書の内容は完璧だ。
第百三号列車による水缶の不足分四十個。これに対し、集積所裏手の枯井戸より、補助魔導兵一名を動員した魔法的操作による抽出および濾過を実施。結果、計五十缶分の飲料水を確保。十缶は予備費として計上。
帳簿上の数字は、一点の曇りもなく「正常」へと回帰した。
管理官のデスクにその報告書を提出したとき、彼は初めて満足げに鼻を鳴らした。
「いい仕事だ、ヘイル少尉。中央の連中は、この一枚の紙を見て安心する。物資が予定通り届き、予定通り分配される。その事実こそが、彼らにとっての戦争だ。現場で誰の喉が焼けていようと、紙が綺麗ならそれは『勝利』への一歩となる」
「私は、ただ規則に従って不足分を埋めただけです。再送要求が却下されるリスクを考慮すれば、現時点での最適解だと判断しました」
「その通りだ。感情を挟まず、処理だけを考えろ。お前のような人間が、この泥沼の戦場を回すための潤滑油になる」
管理官は、私をよく手入れされた「事務機器」として評価していた。それは私にとって、最も心地よい評価だった。私は敬礼し、次の作業へと向かうべく退室した。
廊下に出ると、補助魔導兵のニコ・ラングが壁に寄りかかって立っていた。彼は私を見つけると、気まずそうに視線を逸らし、それから決心したように、あどけなさの残る顔を強張らせて近づいてきた。
「……カレン少尉。いや、ヘイル少尉。あの、さっきの報告……結局、あれで終わりなんですか」
「作業は完了しました、ラング二等兵。あなたの出力した水は、本日早朝、前線への定期便に載せられました。数字上の問題は解消されています」
ニコは、私の無機質な視線に射抜かれ、言葉を詰まらせた。彼は一昨日の作業以来、私に対してある種の恐怖と、それ以上に割り切れない感情を抱いているようだった。
「でも、僕……あの後、前線から戻ってきた伝令から聞いたんです。僕が井戸の底から水を無理やり引き抜いたせいで、下流の駐屯地の泉が完全に止まったって。あそこには、怪我をした馬や、重傷を負った歩兵たちが寝かされていたのに。……僕のしたことは、本当に『いい仕事』だったんですか?」
「ラング二等兵。魔法は物理法則の操作です。あなたが水を『移動』させた結果、他所の水位が下がるのは自然界の必然です。私たちは、管理外の不定形な水源を、管理可能な正規の物資へと変換したに過ぎません。その判断を下したのは組織であり、構造です。あなたの良心が介入する余地はありません」
「……少尉は、怖くないんですか。自分がペンを動かすたびに、どこかで誰かが死ぬかもしれないってことが」
「私は、ペンを動かさないことで軍全体が麻痺し、より多くの死者が出ることを恐れています。全体最適は、時に局所的な犠牲を強います」
私はそれだけ告げると、彼を置いて検収場へと向かった。
検収場には、前線から戻ってきた空の荷車と、それとは対照的に、後方へ搬送される「負傷者」が詰め込まれたトラックが並んでいた。
ヴァルデリア帝国軍の兵站は、行きは弾薬と食料を運び、帰りは血に染まった肉体と、使い古された装備品を運ぶ循環系だ。
そこへ、一人の伝令兵が馬を飛ばして入ってきた。
泥を全身に浴びたその兵士は、息も絶え絶えに私の前に立ちふさがった。
「ヘイル少尉か! 第四歩兵連隊、エルヴィン小隊からの伝言だ!」
「承ります。報告内容を簡潔に」
私は検収簿を開き、記録の準備をした。伝令兵は、私のあまりにも事務的な態度に、一瞬呆然としたが、すぐにその顔を怒りで赤く染めた。
「『報告』だと? ふざけるな! エルヴィン小隊長からの伝言はこうだ! 『貴様が送ってきたあの魔法濾過水は、砂の味がする。しかも量が全然足りねえ。拠点の泉を枯らしておいて、配給されるのがたったこれだけか。数字の辻褄を合わせるために兵士を殺すつもりか、この氷の人形め』……以上だ!」
周囲の兵士たちの視線が一斉に私に集まった。
氷の人形。
「伝令兵。感情的な形容詞を除外してください。配給量は、部隊の構成員数に基づき、軍令第七号に従って算出されています。不足しているのであれば、部隊の兵員数が公式記録よりも多いということですか?」
「そんな理屈が通るか! 傷口を洗う水も、魔導兵の脱水を防ぐ水も、すべてがギリギリなんだよ! あんた、このトラックの中を見たことがあるのか? 数字に載らない『痛み』がここにはあるんだ!」
伝令兵は、荷台に積まれた負傷兵たちを指差した。
私は、そのトラックの荷台へと視線を向けた。
そこには、泥と血で判別がつかなくなった布切れに包まれた、かつて人間であったものが重なり合っていた。
魔法による回復。
それは「生成」ではなく「促進」だ。失われた肢体が魔法で生えてくることはない。重傷者の細胞を無理やり活性化させ、傷口を塞ぐ。だがそれは、患者自身の生命力を激しく消耗させる行為でもある。十分な栄養と水分がなければ、魔法的処置を受けた兵士は、傷が塞がった直後に衰弱死する。
「……確認します。現在の治療プロセスにおいて、魔法使用後の水分補給量は、一人あたりどの程度に設定されていますか」
「設定だと? そんなもの、現場にある分を全部ぶち込んでるだけだ! それでも足りないからこうなってるんだろうが!」
伝令兵は吐き捨てるように言うと、私の足をわざと泥で汚して馬に飛び乗った。
私は汚れた軍靴を眺め、それから一言も発さずに負傷兵のトラックへと近づいた。
「少尉、近寄らないほうがいいですよ。死臭が移ります」
作業中の衛生兵が言ったが、私は無視した。
私は一人の負傷兵の手を取った。皮膚は異常に乾燥し、ひび割れている。
魔法による「加速」を受けた肉体が、その燃料としての水分を枯渇させている。
私の帳簿にある「一人あたり二リットル」という計算式は、戦闘継続を前提としたものであり、魔法的治療による過剰な代謝を想定していない。
私は、倉庫の隅に移動した。
そこには、昨日ニコに抽出させた予備の十缶が保管されている。
私はそれを指差し、ニコに命じた。
「ラング二等兵。この十缶を開封し、後送トラックの負傷者に分配してください。一等重症者を優先」
「えっ……でも、これ、予備費として計上して、管理官に報告済みですよね? 勝手に使ったら、また数字が合わなくなります」
「数字は後で修正します。これは慈善ではありません。後送される負傷者が移動中に死亡することは、兵站における『搬送資産の毀損』に該当します。死体になれば、埋葬と消毒という余計なロジスティクス負荷が発生する。生存させたまま後方基地へ引き渡す方が、全体の作業コストが低いと判断しました」
ニコは、私の言葉を聞いて、救われたような顔をするべきか、それとも呆れるべきか迷ったようだった。だが、彼はすぐに水缶を運び始めた。
私は、負傷兵たちが泥水の混じったような魔法抽出水を、必死に喉に流し込むのを淡々と眺めていた。
彼らは私に感謝の言葉を投げかけることはなかった。ただ、幽霊のような目で、私の何の慈悲も湛えていない顔を眺めていた。
その夜、私は自室で膨大な過去の補給記録を調べ始めた。
集積所に配属されてから感じていた、あの「数は合っているのに、足りない」という違和感。
水だけではない。
魔法触媒用の鉱石。
止血用の魔法包帯。
これらもすべて、帳簿上は適正に配分されているはずなのに、前線からの不満は増大し続けている。
私は、ヴァルデリア帝国とレンボルグの国境線をなぞる。
戦線は膠着している。広大な塹壕と鉄条網。
魔法は、その均衡を破壊するために使われるのではなく、その均衡を辛うじて維持するために、物理リソースを前借りする手段として消費されていた。
魔法で熱を産めば、薪がその何倍も消費される。
魔法で水を運べば、地層の安定が損なわれる。
帝国は、魔法という「レバレッジ」をかけることで、本来なら財政的に維持不可能な戦争を無理やり延命させているのではないか。
私は、古い集積記録の束から、ある奇妙な点を発見した。
半年前と比較して、物資の「腐敗率」と「破損率」が不自然に上昇している。
記録上は届いているが、届いた時点で使い物にならなくなっている物資。
それは輸送工程の劣化か、それとも――。
「少尉、まだ起きていたのか」
管理官が、事務室の鍵を閉めに来た。
私は書類を隠すことなく、彼に問いかけた。
「管理官。この集積所に届く物資の質について、調査の権限をいただけますか。特に、魔法触媒における有効魔力含有率の低下が、記録上の供給量と現場の効力の乖離を招いている可能性があります」
管理官は、深く、長く煙草を吸い込み、私の顔をじっと見つめた。
「ヘイル少尉。お前は、数字を合わせるのが仕事だと言ったな。ならば、帳簿に記載された『量』だけを見ていればいい。中身が砂だろうが、魔力のないただの石ころだろうが、それが『一個』として数えられるなら、お前の仕事は完了だ」
「それは全体最適を損なう行為です。砂を運ぶために燃料を消費するのは、ロジスティクスの死を意味します」
「……お前は真面目すぎるな。いいか、この戦争はな、もう誰かが勝つためのものじゃない。止めることができなくなった機械が、部品を削りながら回っているだけなんだよ。余計なことを調べるな。お前の頭を、これ以上泥に突っ込むな」
管理官は、それだけ言うと部屋を出て行った。
私は一人、暗闇の中に残された。
管理官の言葉は、ある意味でこの世界の構造を正しく射抜いていた。
正しい判断は人を救うが、同時に人を殺す。
そして、正しさそのものが、もはやこの巨大な戦争というシステムにおいては、不要なエラーとして扱われ始めている。
私は、自分の指先を見つめた。
ニコ・ラングに「怖いか」と問われた指。
私が数字を合わせるたびに、世界は確実に悪化していく。
だが、私はペンを置くことはできない。
私は、この戦争を回すための、たった一つの、しかし代えのきかない部品なのだ。
翌朝、私は再び検収場に立っていた。
昨日よりもさらに多い負傷者のトラック。
昨日よりもさらに激しい、エルヴィン小隊からの督促。
私は、昨日汚れた軍靴を完璧に磨き上げ、無表情のまま、新しい伝票を手に取った。
「第百四号列車、着荷。作業開始」
私の声は、霧の中に冷たく響いた。
誰も救われず、何も改善しない。
ただ、帳簿の上の数字だけが、今日もしなやかに並んでいく。
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