第2話|井戸の水位
朝の霧は、冷えた鉄の味を帯びている。
ヴァルデリア帝国第十四補給集積所の朝は、太陽が昇るよりも早く、泥の底から這い出すような倦怠感とともに始まる。私は、支給されたばかりの質の低い羊毛の外套を羽織り、検収場へと向かった。昨日の未解決事項が、鉛のように胃の腑に溜まっている。
事務室に入ると、管理官は既に席に着いていた。彼は、昨夜から一度も火を落としていないらしい、煤けた薪ストーブの横で、冷めたコーヒーを啜っている。部屋の中は、湿った紙と兵士たちの体臭、そして安物の煙草の煙が重く沈殿していた。
私は、昨日書き記した報告書を、彼の机の上に音もなく置いた。
「管理官。昨日の検収結果の最終報告です。第百三号列車による納入水缶に、帳簿上の数字と現物の間で四十個の乖離を確認しました。五パーセントの欠落です。至急、後方兵站基地へ不足分の再送要求を、軍公式回線にて送付されることを具申します」
管理官は、私の顔を見ようともしなかった。彼は報告書の隅を指先で弾き、鼻先で短く笑った。
「再送要求だと? ヘイル少尉、お前は兵站学校で何を学んできた? 後方の官僚連中がこの報告書を見れば、こう答えるだけだ。『輸送は完了し、受領印も押されている。紛失はお前たちの管理能力の欠如である』とな。そうなれば、次回の優先順位は下げられ、この集積所は無能の烙印を押される」
「ですが、事実として現物は足りません。昨夜、エルヴィン小隊長という機能単位から、供給不足による運用能力の低下について、極めて攻撃的な抗議を受けています。数字を放置すれば、戦線の維持に支障をきたします」
管理官は、手にしたペンを机に叩きつけた。その濁った瞳がようやく私を射抜く。
「数字など、合っていればいいんだよ、少尉。……裏の枯井戸を知っているな? 十年以上前に水脈が途切れた、あの石積みの穴だ。あそこに、今日派遣されてくる補助魔導兵を放り込め。魔法で地層の深層から残水を操作し、濾過させろ。それで四十缶分、いや、予備を含めて五十缶分を作れ」
「……枯井戸からの抽出ですか。それは、一時的な取り繕いに過ぎません。本来、兵站の健全性は物理的な供給源の透明化によって……」
「命令だ、少尉。不足分を『現地調達』として計上し、帳簿を適正化しろ。お前の言う『正解』よりも、私の机の上の『無欠陥な書類』の方が、この帝国軍においては価値がある」
私は、彼の言葉に含まれる非論理的な保身を理解した。同時に、軍という組織において、上官の命令が規則の一部であることを再定義する。私は直立不動で敬礼を捧げた。
「了解しました。これより枯井戸を兵站管理下に置き、水資源の再集約作業を開始します。補助魔導兵の使用についてはどなたに連絡をすれば良いでしょうか?」
*
事務室を出て、集積所の裏手へと向かう。
そこには、一人の若い男が立っていた。泥に汚れた補助魔導兵の制服は、彼の痩せた体格には少し大きすぎ、肩の線が頼りなく落ちている。彼は私の軍靴の音を聞くと、弾かれたように背筋を伸ばしたが、その動作はひどくぎこちなかった。
「あ、本日……第百二十二補助魔導大隊より派遣されました、ニコ・ラング二等兵です。少尉、僕に、その……何をすればいいか、指示をいただけますか」
ニコ・ラング。私は彼の名前を、単なる「魔法出力の操作端末」として脳内のリストに登録した。
彼は私の顔を見た瞬間、言葉を喉に詰まらせた。視線が定まらず、私の首筋や肩、そして一点を見据える瞳の間を忙しなく泳いでいる。
ニコは、私の無機質な視線に射抜かれたまま、耳の裏まで赤く染め上げた。彼は不器用に敬礼の角度を直し、視線を伏せた。
「ラング二等兵。作業内容は単純です。この枯井戸の深層、岩盤の下に眠る水脈を魔法によって操作し、地表まで引き上げてください。その後、濾過魔法を並行して発動し、不純物を分離、飲料水として保存缶へ集約します。可能ですか」
「あ、はい! 操作は……座学でも実技でも、得意な方でした」
「作業効率こそが唯一の評価指標です。直ちに開始してください」
ニコは慌てて井戸の縁に歩み寄り、震える手で懐から魔法触媒となる小さな鉱石を取り出した。
魔法は「生成」ではない。
彼が行うのは、地層の奥底に分散しているわずかな水分を、魔法的な圧力勾配によって一箇所に凝集させ、重力に逆らってせり上げる「物理的移動」に過ぎない。
彼が詠唱を始め、触媒に魔力を流し込むと、空気が微かに震え始めた。
ゴボリ、ゴボリ。
十数年も沈黙していた井戸の底から、粘り気のある、重苦しい音が響いてくる。
やがて、井戸の口からドロドロとした黒い泥水がせり上がってきた。それは水というよりは、地層の排泄物のように見えた。
「濾過操作を並行してください。砂礫、雑菌、重金属を魔法的に分離し、透明な液体のみを隣のタンクへ」
「わ、分かりました! ……くっ、結構、手応えが……重いです。どこか遠くから、何かを無理やり引きちぎって、引っ張ってきているような感覚があります……」
ニコの額に大粒の汗が浮かぶ。
彼は必死に意識を集中させ、濁った液体から純粋な水分だけを濾し取っていく。
魔法は「便利」ではない。それは莫大な集中力と、物理的な熱量の交換を伴う作業だ。
私は時計を片手に、一分あたりの抽出量を検収簿に正確に記録していく。
「抽出率、一分間に十二リットル。不純物の残存率は許容範囲内。効率は良好です。ラング二等兵、その出力を維持してください」
「はい……! 少尉に、そう言っていただけると……」
ニコがこちらを盗み見る。彼の瞳には、作業への使命感よりも、私という異質な上官に対する、若者特有の未熟な関心が宿っていた。私はそれを黙殺し、数字を積み上げることに没頭した。
昼前、集積所に布告を出した。
『これより裏手の井戸は兵站部の厳重管理下に置く。兵士個人の私的な利用、洗濯、雑用への使用は一切を禁ずる。違反者は軍紀に基づき処罰する』
すぐに不満の声が上がった。
荷役兵や後方の雑用兵たちが、泥に汚れた顔で私を遠巻きに眺め、呪詛のような囁きを交わしている。
「おい、あのお人形さんは、俺たちに顔を洗うなと言っているのか?」
「魔法使いを使って水まで独占する気かよ。中央の連中は、俺たちが泥を食って生きていると思ってるんだろうな」
一人の大柄な兵士が、空のバケツを持って私に詰め寄ってきた。
「少尉さんよ。あんた、規則だなんだと言うが、俺たちの服を見てくれ。この泥が乾けば石みたいに固まって、肌が擦り切れるんだ。少しばかりの水を分けたって、減るもんじゃないだろう?」
私は彼を、感情のない無表情で見返した。
「あなたの不便さは、軍全体の帳簿の不一致より優先されるべき事項ではありません。個人の衛生よりも、前線の戦闘機能単位へ届ける飲料水の確保が、兵站将校としての私の判断基準です。苦情は、あなたの所属する隊の指揮官を通じて、書面で提出してください」
兵士は、私の顔を見て、何かを叫ぼうとしたが、私の瞳の奥に「話し合いの余地」が欠片も存在しないことを悟ったらしい。彼はただ、地面に激しく唾を吐き、去っていった。
午後。ニコの顔から余裕が完全に消えていた。
彼の肌は青白くなり、魔法触媒の鉱石は摩耗して輝きを失いかけている。
「……少尉。おかしいんです。抵抗が、午前中とは比べものにならないくらい強くなってます。……まるで、井戸の底が真空になって、周囲の何かを強引に吸い込んでいるみたいだ。……変な音がするんです。地鳴りのような……」
私は井戸の縁に寄り、暗い穴の底を覗き込んだ。
魔法は移動だ。ニコが抽出している水は、この井戸という「点」に、周囲の地層から無理やり引き寄せられたものだ。
物理的な帳簿を埋めるために、私たちは目に見えない地下の地図を書き換えている。
「継続してください。管理官の命令は、五十缶分の補填です。あと十缶。それまでは作業を停止させません。あなたが倒れるのが先か、数が揃うのが先か。私は後者の確率を維持するためにここにいます」
「でも……少尉、これは、何か、すごく悪いことをしているような気が……」
ニコは私の冷徹な瞳を見て、絶望したように黙り込んだ。彼は再び、震える手で魔法を発動させる。
その時だった。
集積所の入り口の方から、凄まじい怒号と、馬の嘶きが聞こえてきた。
泥まみれの軍馬にまたがった伝令が、倒れ込むようにして入ってくる。その後ろから、鬼のような形相でエルヴィン小隊長が歩いてくるのが見えた。
彼の外套は、昨日の雨で吸った泥が乾き、重苦しい灰色に染まっている。
「ヘイル少尉! 貴様、どこにいる!」
エルヴィンは私を蹴り飛ばさんばかりの勢いで詰め寄った。ニコは驚きのあまり魔法を解き、井戸の縁でへたり込んだ。
「エルヴィン少尉。ここは兵站部の管理区域です。非文明的な騒音は慎んでください」
「黙れ! 貴様、何をした! 拠点の湧き水が枯れたぞ!」
エルヴィンの叫びは、現場の切迫感を伴っていた。
「拠点だけじゃない。近隣の村の井戸も、二キロ離れた前哨基地の命綱だった小さな泉も、昼過ぎから一滴も出なくなった。……貴様、まさかここで禁じられた魔法でも使ったのか?」
私は立ち上がり、ニコの横に置いていた検収簿を閉じた。
「管理官の命令に従い、現地調達による補填を行いました。枯井戸を起点に、周囲の水脈を魔法で再集約した結果です。……エルヴィン少尉、冷静に考えてください。魔法は水を生成しません。私がここで水を得るということは、どこかの水位が下がる。それは物理的な帰結であり、私の罪ではありません」
「物理的な帰結だと……?」
エルヴィンは、私の整った顔を、今すぐ殴り倒したいという衝動と懸命に戦っているようだった。彼の拳が小刻みに震えている。
「貴様は、ここから届ける数缶の『公式な水』のために、俺たちが現地で必死に見つけた『非公式な命』を奪ったんだ。帳簿の数字は綺麗になっただろうな。だが、前線の兵士たちは、泥水を魔法で濾過することすらできなくなった。水源が死んだんだからな!」
「軍の運用において、管理外のリソースは計算に含めることができません。不確定な水源に依存するよりも、集積所に水を集め、正規のルートで再配分すること。それが兵站の正解です。私は、構造を最適化したに過ぎません」
エルヴィンは、深いため息をついた。
彼の目には、もはや怒りではなく、理解し得ないものに対する深い憐れみと嫌悪が混ざり合っていた。
「……あんたは、正しいよ、ヘイル少尉。あんたはどこまでも正しい。だがな、その正しさが、俺たちの喉を一番残酷に焼き切っている。あんたは、数字を合わせるために、この戦場の最後の一滴を、その奇麗な手で吸い上げちまうんだ」
エルヴィンは部下たちを引き連れ、背を向けて去っていった。
作業を終えたニコ・ラングが、真っ青な顔で私の隣に立っていた。
井戸の底からは、もはや水音は聞こえず、乾いた石が擦れるような、不気味な地鳴りの余韻だけが響いている。
彼は先ほどまでのドギマギとした動揺を完全に失い、私の横顔を、言葉を話す機械か、あるいは血の通わない幽霊でも見るように見つめていた。
「少尉。僕、あなたのことを……一瞬でも、素敵な人だなんて思って、馬鹿でした。あなたは、人間じゃない。あなたは、ただの……この戦争の、部品なんだ」
「ラング二等兵。魔法は単なる物理現象の操作です。それに意味を付与するのは、人間ではなく構造です。不服があるなら、軍紀に則って上申してください」
私は彼を一瞥もせず、帳簿に最後の一行を書き込んだ。
『第百三号列車・不足分四十個。現地調達により補填完了。在庫、異常なし。補填分には補助魔導兵による濾過済み水を使用』
「お疲れ様でした。ニコ・ラング二等兵。あなたは、素晴らしい仕事をしました」
私の言葉は、彼にとって最大の侮辱であり、呪いとして響いたことだろう。
ニコは、震える手で、もはやただの石ころに成り果てた魔法触媒をポケットに押し込み、逃げるようにその場から立ち去った。
夕闇が、集積所を包み込んでいく。
私は一人、暗い倉庫の中に整然と並べられた水缶を見上げた。
銀色の缶は、冷たい月光を反射して、整然と、美しく、死んだように並んでいる。
数は合っている。
帝国軍のロジスティクスは、今日も、私という歯車を介して完璧に回った。
しかし、私の胸の奥には、井戸の底と同じような、得体の知れない冷たい空洞が広がっていた。
「集めただけなのに、減っている」
その違和感の正体を、私はまだ言語化することができない。
ただ、窓の外で降り始めた雨が、枯れたはずの水源を潤すことは、決してないだろうということだけを理解していた。
魔法は生成できない。そして、奪われたものは二度と戻らない。
私はペンを持ち、次の日の輸送計画書へと目を向けた。
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