灰燼世界のロジスティクス
九式
第一章
第1話|数を合わせる仕事
湿った空気のなかに、鉄錆と馬糞の臭いが混じっている。
ヴァルデリア帝国軍、第十四補給集積所。レンボルグ国境からわずか十キロメートル地点に位置するその場所は、巨大な泥の口だった。後方から運び込まれる物資を飲み込み、前線という名の消化器官へと送り出す。
私は、支給されたばかりの硬い軍靴の踵を鳴らし、ぬかるんだ地面を踏みしめた。
「本日付で配属されました。カレン・ヘイル少尉です。着任の申告に参りました」
プレハブ小屋の事務室は、紙の焼ける匂いと安物のインクの香りが充満していた。机に向かっていた管理官は、顔も上げずに書類にペンを走らせている。
私は彼が顔を上げるのを待った。規則では、上官が反応を示すまで敬礼を維持することになっている。
数分が経過した。部屋の隅にある薪ストーブがパチリと爆ぜる。燃料は石炭ではなく、湿った薪だ。魔法で火を熾すことはできるが、燃え続けるためには物理的な燃料が必要になる。この世界の熱量は、常に等価交換だった。
「兵站学校を出たばかりの雛か」
ようやく顔を上げた管理官の眼は、ひどく濁っていた。彼は私の差し出した配属命令書をひったくるように受け取ると、鼻を鳴らす。
「ここには英雄もいなければ、魔法使いの奇跡もない。あるのは数字と、それを運ぶための泥まみれの荷車だけだ。少尉、君は何のために軍に入った?」
想定内の質問だった。私はあらかじめ用意していた答えを口にする。
「規則が、最も効率的だと判断したからです」
管理官は意外そうに眉を上げた。
私が軍を志望したのは、ヴァルデリアの平民として生きるなかで、最も予測可能性が高い組織が軍隊だったからだ。市場の価格は変動し、隣人は気分で態度を変える。だが軍隊の規則は、少なくとも紙の上では不動だ。一キログラムの糧食は一キログラムとして定義され、一リットルの水は一リットルとして扱われる。その明快さに、私は救いを感じていた。
感情や気まぐれに左右されず、ただ数字に従って処理をこなす。それが私の資質に最も適合していると考えた結果の志願だった。
「……いいだろう。なら、さっさとその規則を働かせろ。検収場へ行け。後方から届いた第百三号列車の荷降ろしが始まっている。一分の狂いもなく数を合わせろ。それがお前の仕事だ」
私は短く応じ、再び敬礼をして事務室を出た。
検収場は、怒号と車輪の軋みで溢れかえっていた。
屋根だけが申し訳程度に備え付けられた巨大なプラットフォーム。そこには、蒸気機関車から降ろされたばかりの木箱が山積みにされている。
「おい、新入り! そこに突っ立ってるな。邪魔だ!」
粗野な声が飛ぶ。荷役兵たちが背負子に箱を載せ、蟻のように列をなして倉庫へと運んでいく。
その中の一人が、立ち止まったままの私を見て、あからさまに動きを止めた。泥に汚れた作業服を着た若い兵士が、上から下まで私を値踏みするように眺め、それから隣の男に小声で耳打ちした。
「おい、見ろよ。また中央からお人形さんが送り込まれてきたぜ」
「ちっ、補給線の末端に似合わねえ面だな。色白で、顔だけは立派だが……ありゃ人間じゃねえな。大理石の彫刻か何かだ」
彼らの視線には、性的な関心よりも、生理的な拒絶に近いものが混じっていた。
私の肌には、陽光に焼かれた形跡も、戦場の煤にまみれた陰影もなかった。左右対称の整った顔立ちに、一切の感情を排した薄い唇。彼らにとって、私は「最前線の泥」を理解しない、冷たい異物でしかなかった。
私は彼らのささやきを無視し、手渡された検収簿を開いた。
本日の予定。
二層式保存水缶:八百個。
止血用包帯(消毒済み):五千巻。
フェノール溶液:二百瓶。
私は手近な荷車を止め、木箱の蓋をバールで抉じ開けさせた。
「待ってください。内容物の確認が先です」
「おいおい、少尉さんよ。数ならさっき数えた。後ろがつかえてるんだ、通してくれ」
髭面の伍長が苛立たしげに足を踏み鳴らす。彼の背後では、十数台の荷車が泥の中で立ち往生していた。
彼は私の顔を間近で覗き込み、その無表情さに一瞬気圧されたような顔をしたが、すぐに吐き捨てるように言った。
「その面が泥で汚れる前に、仕事の効率ってやつを覚えてもらいたいね」
「規則です。補給将校は、現物の開封確認を全納入品の少なくとも五パーセントにおいて実施しなければならない。これは軍の運用を維持するための必須作業です」
私の言葉に、伍長は露骨に舌打ちをした。
周囲の兵士たちの視線が刺さる。冷やかし、苛立ち、そして無関心。だが、私は手を止めない。感情的に反論する必要はない。私はただ、手続きを執行しているだけなのだ。
箱の中には、銀色の缶が詰まっていた。水だ。
この戦場において、水は弾薬と同じ、あるいはそれ以上に重要だった。
ヴァルデリア帝国の魔導師たちは、空気中の水分を集める「集水魔法」を操る。しかし、それは「生成」ではない。乾いた平原や、汚染された塹壕の中では、魔法で集められる水などたかが知れている。結局のところ、清潔な水は後方から馬車や列車で物理的に運ぶしかない。
魔法は補給の代替にはならない。それは兵站学校の初日に叩き込まれた真理だった。
「一、二、三……。この箱は二十。次、包帯の箱を開けて」
作業は遅滞し、伍長の苛立ちはピークに達していたが、私は無視した。
数字を合わせること。それが私の役割だ。
もしここで五巻の包帯が紛失していれば、戦線のどこかで一人の兵士の出血が止まらないことになる。数字の不一致は、物理的な欠損を意味する。
数時間の格闘の末、第百三号列車のすべての物資が倉庫へと収まった。
私は検収簿の数字と、納入伝票の数字を照合する。
水缶:八百個(異常なし)。
包帯:五千巻(異常なし)。
フェノール溶液:二百瓶(異常なし)。
完璧だった。一点の曇りもない。帳簿の上では、帝国軍のロジスティクスは正確無比に機能している。私は満足感を覚えるべきだった。軍隊という巨大な機械の歯車として、正しくその一回転を終えたのだから。
しかし、その日の夕刻。
倉庫の裏手で、私は奇妙な光景を目にした。
数名の兵士が、今しがた搬入したばかりの水缶を、数缶ほど荷車に積み込んでいる。その中には、先ほどの髭面の伍長もいた。
「伍長。その水はどこへ運ぶのですか。出庫記録にはまだ何も記載されていませんが」
伍長は一瞬だけ肩を強張らせた。
「ああ、少尉さんか。これは『調整』だよ。前線のエルヴィン小隊長がね、至急で必要だって言ってきたんだ。明日の支給じゃ間に合わねえってな」
「エルヴィン小隊長? 彼の小隊への配給は、明日の午前零時に予定されています」
「あんた、そのすました顔の下に、少しは血が通ってないのか? 『今すぐ』の意味がわからないのかよ」
伍長は私を無視して荷車を押し進めた。
私が管理する「明日の数字」から、目の前で数個の「現物」が削り取られていく。私はそれを追わなかった。数個程度の誤差なら、明日の支給時に、他の予備費から調整できると考えたからだ。
*
翌朝。
だが、事態は私の計算を超えていた。
前線から戻ってきた兵士たちが、血と泥にまみれた姿で倉庫に押し寄せた。
その先頭に立っていたのは、一人の男だった。泥の跳ねた外套を羽織り、眼光だけが鋭く光っている。彼がエルヴィン小隊長だ。
「おい、兵站将校はどいつだ」
彼の声は低く、ひび割れていた。
私は一歩前に出る。エルヴィンの視線が私の顔に注がれた。彼はわずかに目を細め、軽蔑を隠そうともせずに鼻を鳴らした。
「……なるほど。現場を知らねえ貴族の出来損ないか、それとも頭の中まで数字でできてる人形か」
「カレン・ヘイル少尉です。エルヴィン少尉、報告をお願いします」
「報告? ああ、報告してやるよ。あんた、昨日の検収で水を八百個受け取ったはずだな。そのうち、俺の小隊に割り当てられたのは五十個だ」
私の脳内で、昨日の計算が展開される。
第百三号列車の八百個は、複数の部隊へ分配される予定だ。エルヴィンの小隊(約四十名)に対し、一日分の支給として五十個という数字は妥当である。
「はい。間違いなく、本日の午前零時に五十個の出庫を完了させています」
「なら、なぜ俺の手元に届いたのは四十個なんだ? 残りの十個はどこへ消えた?」
私は眉を潜めた。
十個。
たかが十個。だが、その欠落の意味は重い。
「……昨夜、伍長が『先行して調整分を持っていく』と言っていました。彼が届けたのではないのですか?」
「伍長? ああ、あいつは五個持ってきた。だが、正規の配給車が持ってきたのは三十五個だ。合わせて四十。本来の支給量より、二割も足りねえんだよ」
エルヴィンが私の胸倉を掴まんばかりに身を乗り出す。
周囲の兵士たちが、殺気立った視線を私にぶつける。整った私の顔が、困惑に歪むのを期待しているような視線だ。
「私は……、確かに八百個数えました。その後、各隊への仕分けも立ち会いました。帳簿上、あなたの小隊には五十個が割り振られ、積み込まれたはずです」
「帳簿がどうだろうと知ったことか! 現実に、俺の部下のうち十人が、今朝の魔法行軍の後に喉を焼いている。魔導師は体内の水分が足りず、集水魔法すら失敗して吐血した。あんたの言う『正確な数字』は、そいつらの喉を潤してくれるのか?」
エルヴィンは私を汚物でも見るような目で一瞥すると、地面に唾を吐いた。
兵士たちが去っていった後、私は一人で倉庫に残った。
私はもう一度、検収簿を開く。
昨日の受領:八百個。
本日の総出庫:八百個。
在庫:ゼロ。
帳簿の上では、一滴の水も失われていない。完璧な運用だ。
だが、エルヴィンの小隊で十個足りない。
だとしたら、他の小隊でも、数個ずつ足りないのではないか?
私は気付いた。
もし、後方から送られてきた木箱が、最初から「二十個入り」と表記されながら、実際には「十九個」しか入っていなかったら?
私は検収時、五パーセントの箱を開封した。その箱は、確かに二十個入っていた。だが、開けなかった残りの九十五パーセントの箱の中身が、すべて一個ずつ抜かれていたとしたら。
八百個のうち、四十個が「存在しないまま」帳簿に載り、前線へと流れていったことになる。
それは配送途中の盗難か。それとも、発送元の兵站基地での組織的な中抜きか。
どちらにせよ、私の手元にある「完璧な数字」は、最初から現場の死を内包した虚構だった。
私は事務室に戻り、窓硝子に自分の顔を映した。
そこには、相変わらず血の通わない、滑らかな皮膚を持つ女がいた。眉一つ動かさず、感情を削ぎ落とした、ただの記号。
私は、新しいペンをインクに浸した。
感情を殺す。
私は、今日の報告書に「異常なし」と書き込もうとして、手を止めた。
そして、余白に小さくメモを記した。
『現物個数、帳簿に対しマイナス五パーセントの乖離の可能性。次回の検収比率を十パーセントに引き上げ。』
それが、私がこの泥沼の中でできる、唯一の作業だった。
窓の外では、また新しい荷馬車が到着する音が聞こえた。
雨が降り始めていた。魔法で雨を止めることはできない。ただ、その雨粒をかき集めることしかできないのだ。
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