第13話 夢のほとりで、もう一度

13 夢のほとりで、もう一度(5−2)


 夕闇が街を包み込む頃、俺たちはようやく家へと帰り着いた。

 歩き疲れた足取りは重かったけれど、繋いだ手のひらは、いつまでも離したくないほど心地よい温もりを持っていた。

 

「今日は……まあ、楽しかったな」

「なおや、よかった」


 ふわりと笑う宵の笑顔を見て、俺は素直に思う。

 俺はもう拒否していない。ただ、流されているだけでもない。

 

 俺は――宵と過ごす時間を、心から「楽しい」と思ってる。

 その事実を自覚してしまった自分に、少し戸惑いを感じていた。


 風呂を済ませ、明かりを落とした部屋は静かだった。昼間あれだけ歩き回ったせいか、身体にほどよい疲労感がある。

 布団に横になると、すぐに気配が寄ってくる。背中に宵の体温が当たった。……もはや小言を言うのすら面倒になってくる。

 

「お前、今日も一日くっつきすぎじゃん」

 

 俺の呟きには反応せずに、宵の腕が伸びてきて、腰のあたりを囲う。そのまま、ぐいっと引き寄せられた。

 

「ねぇ、だから――」

「ねよ」

 

 宵が短く言い切り、俺が反論を口にする前に、背中に彼の額が当たる。

 ……あったか。

 首筋に当たる呼吸は静かで、ゆっくりで落ち着いたリズムだ。


「……宵」

「んー」

「昼のさ、ゲーセン。結構楽しかったよ」

「なおや、わらってた。それが、よかった」

 それだけで十分、みたいな言い方だ。返す言葉を探しているうちに、腰に柔らかい感触が触れた。

 次の瞬間、もふもふとしたものが、ゆっくり腰に巻きついてくる。

 

「……出てる。しまえないの?」

「うん、たぶん、むり」

 

 はぁ……。

 尻尾は逃げ道を塞ぐようにして、俺の腰に巻きついたまま動かない。

 でもその重みが、不思議と落ち着くのだ。……それが一番問題なのだろうけどな。

 その時、背中に回った腕に、少しだけ力がこもった。

 

「なおや」

「ん? なに?」

 

「……とう」

 

 宵の呼吸が、一瞬だけ止まる。

 

「……なおや」

 

 言い直した声は、いつも通りの宵だった。でも俺の心拍数は勝手に上がった。

 

「……今、なんて言いかけた?」

「わかんない……ごめん」

「謝るとこじゃなくない?」

 

 そう返しても、宵は動かなかった。ただ、俺を抱く力だけが少し強くて、尻尾がきゅっと締まっている。

 

「なおや、……いなくならない?」

「……行かないって。ずっと言ってるだろ?」

 

 一呼吸おいて、繰り返した。

 

「行かないよ。……ここにいる」

 

 その瞬間、宵の腕から強張った力がふっと緩んだ。

「あったかい」

 宵は囁くような小さい声で呟く。完全に安心しきってるみたいだ。

 

 俺は暗い天井を見つめたまま、ゆっくりと目を閉じた。

 この先、何が待っているのか。いろいろと、怖いことがある。けれど、今はこうして宵と触れ合っている時間を、手放したいとは思えなかった。

 

 そのまま、眠りに落ちる直前。

 背中越しに、宵の寝息が規則的になっていくのを感じながら――


 俺はぼんやりと思った。


 もし夢を見るなら、今夜は静かなやつがいい。



 ◇◇

 


 水の音がする。

 ちゃぷ、ちゃぷと、すぐ足元で波紋が揺れている。なのに、少しも冷たくない。

 ……あれ? 俺、沈んでないな。


 足元を見ると、俺は湖の上に立っていた。

 意味がわからないのに、なぜか怖くはなかった。


 視界の端で、銀色の何かが揺れた。


 ……尻尾?


「……綾空あやそら


 自分で呼んだくせに、どうしてそんな名前が出たのか、わからない。


 すると、空気が少し震えた。

 風のような気配が、すぐに背後にある。


灯弥とうや


 呼ばれた瞬間、心臓が、強く反応した。

 胸が焼け付くように疼く。

 ――懐かしい

 そう思ってしまった自分自身が、怖かった。


 背中に、熱を感じる。

 強くて、温かい腕で、後ろから抱きしめられた。


 銀色の毛先が、俺の頬に当たる。柔らかくて、あったかい。

 逃げたいのに、離れたくない。

 この矛盾した欲望を、俺の身体が覚えている。そんな気がした。

 

『見なくていい』


 耳元で、低い声が響いた。


『ここにいろ』


 低い声が、耳から脳を直接痺れさせる。

 唇に触れたのは、驚くほど熱くて、優しい感触。

 意識がとろけそうなのに、魂が「これを知っている」と叫びたがっている。

 


 ……え。キス、してる……?


 優しいのに、逃げ道がない重い口づけ。

 なんでこんなに安心するキスなの? そんなの、聞いたことがない。

 

 胸が、じりっと焼けるように熱くなる。


 ――あ、呼ばれる。

 そう直感した。


 本当の名前を。

 呼ばれたらもう「今の俺」には戻れなくなる、真実の名前を。

 もっと本当に呼ばれたら、全部思い出してしまう気がして。


 怖くて、でも、聞きたくて。

 喉が、期待と恐怖で震える。


「……っ」


 声が出る前に、ぎゅっと目を閉じた。


 暗くなる。


 落ちていく感覚の中で、俺の意識は、遠のいていった。

 目覚める直前まで、俺はキスの温度と感触を忘れられなかった。


 ◇◇

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