第10話 そばにいるから、大丈夫だよ


 繋いだ手の熱に、少しだけ毒気を抜かれていた時だった。


 ふっと、風が止んだ。

 肌に当たる空気が一気に冷え込み、辺りの音が遠ざかっていく。

 街灯の光、あそこなんか暗くない?


「……ん?」


 前を見ると、道の先に黒い影のようなものが揺れていた。

 砂粒が集まったような、すすが舞っているようなモヤ。煙にも見えるそれは、羽虫の群れのように不気味に細かく動いている。


 「んん?……なんだあれ。虫か?」


 目を凝らそうとした瞬間、握っていた宵の手に力がこもり、強引にぐいっと身体を引かれた。


「ちょっと、痛っ……強いって!」

「尚弥。こっち」

 

 宵の声が――いつもと違う。

 いつもの甘い声でも、子供のような声でもない。

 ゾクっとするほど冷たくて、低い声だ。深くて、重い響き。

 ――夢で聞いた、あの声だ……。


 手を引かれてよろけた瞬間、さっきの黒いモヤの塊が、俺たちのすぐ横を掠めていった。


「……宵?」


 宵はその黒いモヤのようなものを、じっと見据えたまま、深く息を吸い込む。

 そして、その『影』に向けて、長く鋭い息を吹きかけた。


 黒いモヤが揺れたと思うと、空気に溶けるように離散した。

 一瞬で、それが消えた。


 同時に止まっていた風が吹き抜け、周りの音も戻る。


 宵がゆっくりとこっちを振り返った。目つきを鋭いまま、短く言った。


「……大丈夫だ」


 ……っ!声も低くて、いつもと違う。宵じゃないみたい……。


「……なにが大丈夫な――」

「そばにいるから。大丈夫だよ、灯弥とうや

「……っ」


 うわ、急に声が出ない。喉が塞がったみたいだ。


 そのとき、視界にノイズのようなものが走った。目の前の宵の姿がぶれて、輪郭が二重に重なる。

 今の宵の顔に、銀色の耳と尻尾を揺らす、神々しい男の姿が重なった。

 

(――な、に?)

 

 ……夢で見た、あの人だ。


 心拍数が一気に跳ね上がって、呼吸が荒くなる。肺がスカスカになって、いくら吸い込んでも酸素が急に足りない感覚。額から冷たい汗が、落ちた。

 目の前の宵の姿が、ゆっくりと『夢の彼』へと変わっていく。

 

 やば……っ、息が、できない……!

 息を吸ったはずなのに、胸が広がらない。喉の奥で、空気が止まる。

 

「……っ、ま……」

 

 胸を直接掴まれたような激痛。

 な、なにこれ……。怖い。

 なのに――たまらなく懐かしい。

 

 矛盾する感情への戸惑いと、あまりの苦しさに胸元の服を握りしめた。


『灯弥』


 どこからか、声がした。

 これ、夢の人の声だ。

 なんで、なんで、今?


「……っ……ぁ……っ」


 言葉が声にならない。喉から変な音だけが出た。

 なにこれ、なんで、なんで。苦しい……!


 その時、宵が俺の肩を抱き寄せた。

 耳元にかかる宵の吐息が、無理やり俺を現実に引き戻す。

 はあ、と大きく音を立てて、空気が一気に流れ込んできた。肺が再び動くと同時に苦しさも消えた。


「なおや、だいじょうぶ?」


 声は、いつもの宵に戻っていた。

 宵に重なっていた夢の男の姿も、ゆっくりと消えていく。

 まだ息が荒くて、ようやく立っていられた。気づいたら俺は、宵の服を掴んでいた。


「ハ、ハァ……っ、い、今の……なに……」


 宵は困ったように笑った。


「宵……。お前、さっき……声が違ったよな?」

 

 宵の肩が、びくっと揺れた。

「……いつもどおり」

 

「いや、違う、なんか……」

「だいじょうぶ」

 

 なにが? 絶対違う。大丈夫なんかじゃない。

 それに、全くいつも通りなんかじゃない。

 さっきの宵は、夢に出てくるあの男にそっくりだった。


 それ以上問い詰めても、宵は「ぼく、ほんとにわかんない」としか言わなくなった。

 結局、何一つ解決しないまま。

 正体不明の怖さだけが、泥のように俺の心に残ったままだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る