第9話 大学に現れた銀髪の大型犬?


 朝、目が覚めた。

 まどろみの中、肌に触れる温度がなんだか心地いい……。

 ――けれど、すぐに違和感があることに気づいた。


 体が1ミリも動かないのだ。

 

 俺はまた宵の腕の中にすっぽりと収まっていた。上半身は腕に、腰は尻尾に、がっちりとホールドされている。


(なんで俺、毎朝この距離なの?)

 

 いや、慣れるにも程がある。

 そっと抜け出そうと身をよじると、かえって腕の力が強くなった。

 宵が目を閉じたまま耳元で「おはよう」と呟いた。


「起きてんの? 準備するから、ほら離して」

「だめ」

「却下だ」


 なんでこんなに力が強いんだ。

 やっぱりキツネが混ざってるからなのか?


 なんとか起き上がろうとモゾモゾしていたら、宵の唇が俺の頬に当たった。

 当たったというか、確実に「ちゅっ」って音がした。

 今、した……よな?


「おい! なに今の! 今、した?」

「もっと、したいー」

「はああ? ダメ! やめて!」

「もっともっと、したいんだもん」


 やばい、やばいって。これ以上はほんとに! いろいろと持たない!!


「もう学校行く!!」

「さみしい」

「家でおとなしくしといて?」

「むかえにいく」

「来なくていいから!」


 逃げるように家を飛び出した。電車に乗って、スマホを触る。

 ……大学ってこんなにありがたかったっけ?

 

 普通のぎゅうぎゅうの満員電車、最高!

 耳も尻尾も見えない日常ありがとう!!

 叫びだしたいくらい、感謝の気持ちが溢れる。


 **


 学校に着いて、いつも通り講義を受けて、いつも通り坂下と他愛のない話で盛り上がる。

 学食の騒がしさの中にいると、ようやく呼吸が整ってくる気がした。

 日替わり定食の唐揚げを口に運びながら、坂下が不意に聞いてきた。

 

「また寝不足??」

「……寝不足だよぉ」


「なんか悩みでもあんの? 恋とか? あ、まさか彼女できたとか?」

「ない」

「違うのかよ、じゃ、彼氏とか?」

「もっとない」


 坂下がふっと、茶化すのをやめて目を細めた。


「まあ……なんかあったら言えよ」

「何を?」

「知らんけど。愚痴でも飯の誘いでも、女でも男でも」

「雑すぎる励まし方だな」


 けれど、その適当なやりとりが今の俺には染みた。


「ありがとな、坂下」

「唐揚げ1個でチャラにしてやるよ」

「やっす」


 二人で笑い合う。そして、笑いながら俺は思った。

 ――ああ、これだ。これが『普通』だ。

 ――この普通を、守りたい。

 俺はずっと、こういう場所に戻ってきたかったんだ。

 

 それなのに。

 ふとした瞬間の沈黙に、頭の中で宵の声が響いた。

『なおや……』


 止まる箸。

 

(ダァァァァ!! 余計なことは考えるな俺!)


 **

 

 すべての講義が終わり、校舎を出たとき。

 正門の外で、人だかりの中にひときわ目立つ銀色の頭を見つけて絶句した。

(……ほんとに迎えに来たの?)


 人も多い時間帯、誰もが足を止めて彼を振り返っている。

 宵は俺の姿を見つけると、ぱあっと顔を輝かせて小走りで寄ってきた。

 そのまま俺の手を取り、屈託のない笑みを向ける。


「なおや、きょう、がんばったね」

「俺、なんで評価されてんの? 恥ずいんだけど。……ていうか、マジで来たの?」


 隣で歩いてた坂下が、口を開いた。

「誰?」

「よい」

 俺が答えるより早く、宵がニコっとして答える。


「えっと、名前は訊いてないけど……」

「落ち着け、坂下。俺も説明できないから」


 その時、宵の手が俺の袖をぎゅっと掴んだ。

 彼はさっきまでの笑顔を消して、いつになく鋭い視線で坂下をじろじろと観察し始めた。


(なにその目。なんで坂下と俺の距離測ってんの?)

 もしかして……嫉妬?

 突拍子もない考えがよぎり、胸がちくっと痛んだ。


 坂下と別れ、宵と二人で家路につく。

 隣で歩く宵を、横目でそっと盗み見る。

 夕日に照らされた横顔は、恐ろしいほどに綺麗な顔だ。

 一緒に歩いている自分の平凡さが、嫌というほど思い知らされる。

 それなのに、こう歩いてると、歩幅が揃うんだよなぁ。


 そんなことを考えてたら、手袋の上から手を包み込まれた。

「ん……? なに?」


 宵は上目遣いで、ぼそっと言った。

「なおや、て、つなご」

「つなぐ理由、ある?」


 宵は顔を、赤らめて言う。

「て、ほしい」

 

 あー、意味わかんないんだけど。

 けれど、指先に力が入って、そのまま手袋越しに指を絡められた。


「勝手に繋いだじゃん、お前」

 

 宵は満足げに微笑んでる。

 でもまあ……なんかあったかいし、いいや。


 そんな風に、俺はわずかな平穏に甘んじていた、その時だった。


「……ん?」


 ――その時の俺は、この穏やかな時間が、一瞬で塗り替えられるなんて思ってもみなかったんだ。


 

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