第8話 南祥子という語り部(後編)

08 南祥子という語り部(後編)(3-2)


 ――けれど、あの日。

 私のささやかな願いを打ち砕くような形で、運命はあまりにも残酷な形でやってきた。

 

 息子夫婦の事故の知らせが入った夜のことは、今でも鮮明に思い出せる。


 鼻をつく消毒液の匂いのする、病院の白い廊下。

 そこに、泣きすぎて声が枯れてしまった尚弥がいた。


 中学に上がったばかりの尚弥は、まだ子供の体で小さかった。


 駆け寄って抱きしめたその小さな体は、震えていて、驚くほどに熱かったのを覚えている。


「大丈夫、大丈夫だからね……」


 どれだけ繰り返しても、その言葉が何の慰めにもなっていないことは分かっていた。

 それでも言い続けるしかなかった。

 そうしてあの子を繋ぎ止めることしか、その時の私にはできなかった。


 尚弥を家に連れて帰った夜。

 簡単な夕食もほとんど手をつけず、あの子は布団の中で、ようやく力尽きたように眠りについた。


 私は、電気を落とした静かな居間で、ひとり座っていた。

 あまりにも静かな家。

 聞こえるのは、古びた時計の刻む音と、自分の鼓動だけ。


 ふと、外の方で風が鳴った。


 窓の外の木々が揺れて、ガラスに何かの影が走った気がした。


 窓の方へ寄って、夜空を仰いだ私の目にが映った。

 宵の闇を美しく切り裂く、銀の尾。

 一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、夜空の端をその銀色が横切ったのだ。


 気のせいだ、と言うにはあまりに、祖父の話に出てきた『神獣』そのものだった。

 その瞬間、私の胸の中で、何かがはっきりと動いた。


 ――ああ。

 私はそのとき、全てを悟った。


 灯弥が、戻ってきたのだ。


 名前も顔も違う。

 中身だって、まったく別の人生を生きる一人の少年。


 けれど、あの子の泣き声の奥には、あの灯りの残り火が揺れていた。

 この子は『灯弥』だったのね……。

 深い悲しみを経験したことで、内から顔を出したのかもしれない。

 そして、それに応えるように『綾空』さまが反応したのだ。


「……尚弥」


 布団の中で眠る孫の頭を、そっと撫でた。

 まだ小さく、頼りないその手が、夢の中で服の裾をぎゅっと掴む。


「おばあちゃんが、ちゃんと守ってあげるからね」


 祖父の遺した言葉が、胸の中に蘇る。


 ――灯弥が生まれたら、その子のそばにいてやってくれ。


「よく、帰ってきてくれたわねぇ……」


 暗い居間で、涙がこぼれた。

 息子夫婦を失った癒えない悲しみと、何十、何百年の時を経て帰ってきた魂への安堵とが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って私の頬を伝っていった。


 **


 そして先日。

 川べりで倒れていた銀髪の青年を見つけたとき――。

 私は、あの夜と同じ『気配』を感じた。


 冷たい水の気配と、夜の始まりを告げる宵の空気。

 そして、ふわりと揺れる銀の髪。


 泥を払い、肩にそっと手を添えると、青年はゆっくり目を開けた。


 琥珀色の、瞳。


 おじいちゃんの話に出てきた、あの色だ。


「……とうや」


 青年は、掠れた声でそう呟いた。

 この世界ではまだ誰の名前とも知らない、かつてのつがいの名を。


 私にとっては、その一言だけで十分だった。


「よしよし。大丈夫よ、大丈夫だからねぇ」


 そのとき、私はすでに決めていた。

 この子を家に連れて帰り、尚弥のそばに置くことを。


 あの子に尻尾が出ても、耳が出ても。

 驚く必要なんて、どこにもないのだ。


「やっと帰ってきたんだもんねぇ」


 思い出に浸っている間に、湯呑みの緑茶は、すっかりぬるくなっていた。

 最後の一口飲み干し、そっと湯呑みを置いた。


 **


 語り部の役目とは、古い昔話をたくさん知っていることでも、神さまの秘密をべらべら話すことでもない。


 綾空と灯弥が、安心して「ここ」で息をしていられるように――ただ見守り続けることだ。


 だから、尚弥には何も言わない。

 今はまだ、その時ではない。


 あの子の中で、自分で何かに気付き始めるまでは。


「尚弥」


 名を呼ぶと、壁の向こうで布団を蹴るような音がした。寝返りを打ったのだろう。


「あなたはあなたとして、ちゃんと今を生きなさい」


 前世がどうとか、宿命がどうとか。

 そんなものは、私がいなくなった後に分かってもいい。


 今、この家で笑って、怒って、迷って。

 誰かを好きになって、その誰かにまっすぐ好きだと言ってもらう。

 そうやって人間として幸せに生きていく尚弥を、どこまでも見届けたいのだ。


「……でも、ちょっとぐらいは、幸せになってもらっていいわよ。ふふ」


 洗面所で見た、二人の姿を思い出す。

 耳と尻尾を出して、尚弥にぴったりくっついて離れなかった宵。


「宵くん、本当に、いい顔してたわぁ」


 ああいう顔をされると、多少の騒ぎくらい、なんてことはない。


 ゆっくりと立ち上がる。膝が少し痛んだけど、耐えられないほどではない。

 居間の隅、古い箪笥の引き出しを一つ開ける。そこにしまってある小さな木箱を取り出す。


 中には、祖父から譲り受けた古い狐のお守り。

 欠けた白い狐が、丸い目がじっとこちらを見ていた。


「……綾空さま」


 誰にも聞こえないほどの小さな声で呟く。


「今度こそ、あの子を離さないでやってね」


 灯弥と、尚弥。

 綾空と、宵。


 二つの名前が重なり合う。


 涙が頬を伝って落ちる。悲しい涙ではない。


「最後の語り部も、そろそろ役目を終えてもいいかしらねぇ」


 私がいなくなっても、あの二人が、手を取り合って笑っていられるのなら。


「……もうちょっとだけ、見ておきたいけどねぇ」


 自分で自分にそうツッコミを入れて、私は笑った。


 木箱をそっと閉めて、箪笥の引き出しを戻す。

 居間の電気を消すと、暗い闇が覆った。


 それでも、怖くはなかった。


 壁の向こうには、二つの気配がある。

 一人は、今の時代を生きる優しい孫。

 一人は、幾千の夜を超えて『帰ってきた』子。


「おやすみなさい、尚弥。おやすみなさい、宵くん」


 そう呟いて、自分の部屋へ向かう。


 この家はずっと静かだ。けれどもう、寂しい静けさには戻ることは二度とない。


 最後の語り部は、そのことに、心から感謝していた。

 

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