第7話 南祥子という語り部(前編)


 家の中が、ちゃんと静かになる時間が好き。


 居間の時計が、コチコチと律儀にリズムを刻んでいる。

 テレビはもう消してあって、ちゃぶ台の上には使い込まれた湯呑みがひとつ。

 南祥子わたしは、両手で湯呑みを包み込みながら、小さく息をついた。


「……ふう。今日も、よく動いたわねぇ」


 年を取ると、ため息も感心も、すべて同じ「ふう」に混ざってしまう。

 膝は少し痛むし、腰も重い。

 けれど、それも悪くないと思える程度には、今の私は満たされている。


 この部屋の壁の向こうには、尚弥の部屋がある。そこには宵のために敷いた布団。廊下の電気は落としてあるけれど、あの子たちの気配はちゃんとそこにある。


「尚弥、ちゃんと寝られてるかしらねぇ」


 口から出た独り言に、自分でくすりと笑ってしまう。


 あの様子じゃ、落ち着いて眠れるわけがないだろう。

 朝から尻尾だの耳だの大騒ぎだった。

 狐原宵こはらよい――名前からして狐のようだが、まさか本当にあんな姿を見せるとは。


 けれど私は、まったく驚かなかった。


 本当は驚いてやったほうが、尚弥の精神衛生上には、いいのかもしれない。けれど、出てきた姿を初めて見たときはごく普通の感想だった。


「あら、やっと出てきたのねぇ。――そんな感じだったわね」


 ひとりごとが増えるのは年寄りの得意技だ。

 誰もいない居間で独り笑っても、苦情を言う人間はいない。


 湯呑みの緑茶をひと口含む。

 温度がちょうどいい。

 目を閉じれば、暗闇の中にいろいろなものが浮かんでくる。


 狐のこと。

 宵のこと。

 尚弥のこと。


 そして――自分に課せられた、役目のこと。


 **


 この街は、昔から狐に縁がある場所だった。


 山の上の小さな社。

 田んぼの端っこにある、苔のついた石の狐。

 商店街のゆるキャラまで、尻尾がついている始末だ。


 子どもの頃、祥子はよく祖父に手を引かれて、山のほうへ歩いた。


『祥子。この山にはな、“神さまの狐”がいるんやぞ』


 少し背中の曲がった祖父が、そう言って笑った顔を、今でもはっきりと思い出せる。

 古い草履が砂利を踏む音と、むせかえるような夏の匂い。夏の風に揺れる稲穂の音がさわさわと聞こえる。


『ただの狐じゃない。神獣なんや。空を駆ける尾、宵の色をした銀色の美しい毛並み。名前を、綾空あやそらというてな』


「あやそら……」


 小さかった自分は、その名前が綺麗で何度も口の中で転がした。


『その綾空には、たった一人の大事なつがいがおったんや』


灯火ともしびみたいにあったかい魂を持った子でな。名前を灯弥とうやと言う』


 祖父の声は、いつも絵本を読むみたいに穏やかで、どこか悲しそうだった。


『二人はな、何度も何度も巡り合う。そやけど出会うたびに、守って、守られて、離ればなれになってしまうんや……』


「かわいそうだねぇ、おじいちゃん」


 あのときの自分は、ただそう言って、祖父の袖を握った。


『かわいそうやけど、きれいな話やろ』


 祖父は笑って、私の頭をぽんぽんと叩いた。


『この街にな、あの子らは何度も来とるんや。

 空の上から見ても、ここは二人の“帰る場所”に見えるんやろねぇ』


 

 ――そして、ある日のこと。


『祥子。うちはな、代々ずっと“語り部かたりべ”の家なんや』


 社の前の石段に座って、祖父はぽつりと言った。蝉の声がうるさいくらいに鳴いていた、暑い夏の日のことだ。


『綾空と灯弥の話は、本にも残っておらん。誰かが口で伝え続けないかん。

 その役目を背負っとるのがうちの家や。わしのじいさんも、そのまたじいさんも、ずっと聞かされてきたんや』


 祥子は膝の上で手をぎゅっと握った。


「じゃあ、おじいちゃん、綾空さまに会ったことあるの?」


『ある』


 祖父は即答した。


『子どもの頃にな。川べりで泣いとったら、銀の尾が見えた。大きな狐がいてな、“よう泣く子や”って笑いよったんや』


 それは、夢と現実の境目のような話だった。

 でも、祖父の目は本当に見た人の目をしていた。


『わしはな、あの神獣に言われたんや。

 “もし、今度また灯弥がここに生まれたら、その子のそばにいてやってくれ”とな』


「……」


『語り部はな、ただ昔話をしとるんやないんよ。

 あの子らが迷わんように、“ここにいてええんや”と伝えてやる役目や』


 祖父は大きな手を、祥子の手の上に重ねた。


『たぶん、わしの代で終わるかもしれんと思うてたけどな』


 そう言って、祖父は優しく笑った。


『よかった。祥子、お前が生まれてくれて』


 あのときの言葉の意味を、本当の意味で理解したのは、ずっと後になってからだ。


 今、私は自分の胸に手を当てる。


「……最後の語り部、ねぇ」


 本当に最後になるかどうかは私にも分からない。だけど、祖父の血を引いて、その話をすべて覚えている人間は、もうこの家ではわたしだけになってしまった。


 尚弥は、何も知らない。

 語り部のことも、綾空のことも。

 それでいいと、私は思ってる。


「あの子は、あの子の人生を生きないとね」


 前世だとか、宿命だとか、魂の番だとか。

 大人が勝手に決めたそんな言葉を押しつけるには、尚弥という子は、少し優しすぎるから。


 けれど。

 運命の歯車はもう、止めることのできない音を立て始めていた。


 

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