第6話 夢の中で呼ぶ名前
夜。やることはいつもと同じはずなのに、家の中の空気は、昼間までとは決定的に違っていた。
歯を磨き、風呂に入り、布団を敷く。
すべていつも通りのルーティンをこなしているのに、心の中はぜんっぜん平和じゃない。
廊下の電気が消え、家全体が静かになる。
本来なら一日が終わる安堵に浸る時間だが、今の俺には、この静けさが少しだけ怖かった。
「なおや」
振り返る前に声で分かった。
「……」
「ねよ」
短い言葉なのに、その響きは甘すぎる声だ。
耳の奥から背中にかけてゾワっと熱くなる。
「宵、今日こそ自分の布団で寝ろよ」
「いや」
食い気味な返事を聞いて、俺はもう諦めた。
振り向いたら最後だと思ったから、あえて顔を向けず、横になったまま背を向ける。
「くっつくなよ」
そう釘を刺す前に、体温がぴたっと背中に貼り付いた。
腰に腕が回され、指先が俺の服をぎゅっと掴む。
「……なおや、あったかいね」
耳元で囁かれた吐息が首にかかって、鳥肌が走る。
「ちょ、ちょっと……くっつきすぎ……!」
「なおや、いっしょにがいい。ここ」
当たり前みたいに言うなよ、息がおかしくなる。
「あんしんするから」
まっすぐな、あまりにも素直なその声に、顔が熱くなって動けなくなった。
「……なんでそんなこと言うんだよ」
「なおや、すき」
一瞬、思考が飛んだ。
言葉の意味を理解する余裕もないのに、花火みたいに気持ちが跳ねた。
そういう意味じゃないって分かっているのに、どうしてこう、刺さるの。
「す、好きとか、そんなに軽々しく言っちゃダメ!」
「かるがるしく?ちがう」
耳元で、宵の声が少し震えた。
演技でも嘘でもない、本気の声だって、俺はなぜわかるのか。
「なおや。ぼくは、ここがいい」
気づいたら背中に宵の額が押し当てられて、ぬくもりが直接伝わってきた。
「なおやがいると、ねむれる。ひとりじゃないから」
胸がだんだん痛んでくる。
怖い、けれど怖くない。どっちでもない何かだ。
「もう……仕方ないな」
折れるように呟くと、肩越しに宵が笑う気配がした。
くすぐったくて、あったかくて、なぜか泣きたくなるような安堵感。
「なおや」
回された腕に、ぎゅっと力がこもる。
抱き寄せられるままに密着すると、視界がぐらりと揺れた。
「……っう」
声にならない息が漏れる。
どうしてこんなに胸が騒ぐんだろう。
俺の胸の中がこんな風に動く理由が分からない。
でももう息が苦しいくらいドキドキして。なのに、なぜかしっくり落ち着く。
そして――
ふわ……。
背中に触れた毛布のような柔らかい感触と、ゆったりと揺れる銀色のもふもふ。
「……出てる」
「でちゃう」
宵がふにゃっと幸せそうに笑う。
彼の尻尾が、俺の腰をゆっくり撫でるように巻きつく。
呼吸止めても、鼓動のリズムがおかしくなっていく。
「なんで出るの……」
「なおや、さわったから」
その言葉と同時に、頭の方を柔らかな何かが撫でた。
これは耳だ。
ふわふわの耳が俺の首筋に触れている。
「耳までっ……!」
宵は楽しそうに目を細めた。
「なおや、さわる?」
「えっ……」
拒否する言葉が喉で止まった。
身体が言うことを聞かない。
なんで? 俺なんでこんな……。
……触りたい。
恐る恐る手を伸ばして、宵の頭に触れる。
うわぁ、耳、すごく柔らかい。
あったかいな。
生きてる。
「……っ」
触った瞬間、宵が息を吸い込んだ。
声にならない吐息が漏れ、喉で震えた。
「なおや……」
囁き声が低くなって、耳元でとろける。
「もっと、さわって……」
その一言で、理性が崩れそうになる。
腰の尻尾がきゅっと締まり、抱きしめる腕の力が強まった。
「……だめ」
宵が掠れる声で囁く。
「なおや、どこもいかないで」
胸が焼けるみたいに熱くて、苦しい。
なに? 俺にはわからない。
何も理解できない。
でも、この腕の温もりだけは――安心する。
「……行かないよ」
言葉が勝手に口から溢れた。
自分の意思じゃない。まるで決まっていた言葉を口にしたみたいに、もう一度。
「行かないよ。……ここにいるよ、宵」
宵の腕が、さらに強く俺を拘束する。
耳が触れたまま揺れて、尻尾が腰を撫でる。
いつしか俺たちの鼓動は、同じリズムで混ざり合っていった。
「なおや……あったかい……」
「……宵もな」
心地よい疲労感に包まれ、瞼を閉じる。
眠りに落ちる直前、銀色の尾が、優しく俺を包み込んだ。
怖いのに、怖くない。
初めてなのに、初めてじゃない。
俺は大切なものに捕まれたまま、意識を手放した。
◇◇
眠った瞬間、空気が変わった。
身体の重さがなくなって、浮かんでるみたいに感覚が消えた。
また、あの夢?
目を開ける前からわかった。ここはよく見る夢だ。
清らかな水の音がする。静かに揺れている湖の前にいる。
ゆっくりと視界を上げると、そこには銀色が揺れていた。
水面を渡る夜風に、長い髪をなびかせて背を向けて立つ、誰か。その髪は、白銀。
「……宵?」
その背中に声をかけると、男は音もなくゆっくりと振り返った。
顔、髪、瞳。すべてが、宵と同じ。
けれど――宵じゃない。
似てるけど、雰囲気が違う。
その佇まいはあまりにも神々しく、あまりにも、悲痛だ。
その薄い唇が、静かに動いた。
『……灯弥』
泣き出しそうな、あまりにも切実な響き。
声に聞こえて、胸が抉られるような痛みに襲われた。
なんで俺、こんなに苦しくなるんだ?
「……灯弥?」
自分の口から無意識にその名前が溢れた。
銀色の髪をしたその彼が、儚く美しく微笑んだ。
水面を滑るように近づいてくると、震える指先を俺の肩へ伸ばす。
『――ずっと、探していたんだ』
胸が熱くなって、痛い。それに苦しい。
『会えてよかった……本当に』
彼の手が俺を抱き寄せたとき。
俺の目からは、とめどなく涙が溢れていた。
夢なのに……。夢だとわかってるのに、涙が止まらない。
『灯弥』
甘く低い声で囁きながら、その手で俺を抱きしめる。
知らないはずの感触なのに、懐かしい。
『もう離さない。二度と離しはしない』
誓いのようなその声が、魂の奥深くまで刺さり、俺を拘束する。
次の瞬間、耳元で別の声がした。
「……なおや」
意識が暗転する寸前に、遥か遠くで、誰かが笑った気がした。
『また会うよ……とうや』
◇◇
夢から覚めた。
ぼやけた視界のまま、ゆっくりと目を開けた。
俺の身体には、宵がびったりと密着していた。耳も尻尾も出したまま、静かな寝息を立てている。
俺は震える手をのばし、ゆっくりとその頭を撫でた。
「ん〜……」
気持ちよさそうな寝顔。愛おしい。
かわいいな、子狐みたい。
夢の残像を胸に抱いたまま。
少しの時間、朝のまどろみに浸った。
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